所有権と自由

Oレジデンスのシンポジウムにコメンテーターとして招かれた。このプロジェクトは自宅をシェアハウス的な賃貸マンションに建替え、その一部を地域に開放するというもので、僕は笑恵館で似たようなことに取り組む人という位置づけだ。笑恵館では、パン屋を中心に施設を開放しているが、Oレジデンスでは「百人力サロン」というメンバーシップで相互扶助やシェアによる地域福祉の向上を目指している。どちらも共通しているのは、民間個人nが公的な取り組みに挑むこと。そこには公的サービスに付きまとう制約や画一性を打破する「自由」があるからこそ、これまで解決できなかった地域の課題に新たな答えを提示できるという。だから皆さんの参加や協力が必要だと議論は進むのだが、果たしてそうなんだろうか。

公園や役所には自由がないが、民間施設には自由があるというのは間違いだ。僕は渋谷マークシティの中で渋谷区の所有スペースを運営したり、三軒茶屋のキャロットタワーでイベントをした経験で言うと、民間の複合施設は区役所よりも制約だらけで何もできない。場所だけでなく、仕事をするにも大企業とお役所と、どちらが柔軟かというと、むしろお役所の方だったりする。自由とは、何かを決める権利のこと。決定や判断のできないところに自由などない。2つのプロジェクトに共通する自由があるとすれば、それは民間事業ということではなく、所有者主導の事業であること。つまり、すべての決定権を持つ所有者が取り組むからこそ、そこに自由があるのだと僕は思う。行政や、大企業よりも、小さなオーナー企業や個人の方が自由なのはそのせいだ。賃貸物件を又貸ししているシェアハウスと、オーナー自らが自分の所有物をシェアするのでは、根本的に違うことを知って欲しい。

 

【賃貸とシェア】

Oレジデンスはシェアハウス的な集合住宅で、その中にオーナー住宅も含まれているのが特徴だ。浴室、洗濯室、ラウンジ、屋上庭園などをオーナーとシェアするので、その自由度も極めて高い。だが、そんなゆったりしたプランをRC増で新築したため、設備投資分の費用が賃料に加算され、入居費用は笑恵館の2倍の金額になっている。そして、開業から9カ月が経過したにもかかわらずまだ2割の入居率にとどまっているのは、高い賃料が原因だという共通認識ができつつある。関係者は「このプロジェクトは従来にない新しいスタイルなので、理解してもらうのが難しい」と口を揃えるが、「それはどんな新しさでどんな価値なのか」と訊ねても「辛抱強くやって見せるだけ」とのこと。僕は自分の姿を見ているような気がして、腹が立った。こういう状況は、何とか打開しなくてはいけない。

そこでまず、周辺の類似物件と比較し、このプロジェクトの価値を可視化すべきと指摘した。すると「専有面積25m2の類似物件を見渡すと、その賃料は5~10万円ほど安い。しかしこのプロジェクトは専有部分以外にも165m2ほどの共用スペースを使うことができるので、これを15世帯で割ると11m2となり、36m2の類似物件と比較すればそれほど高くはない」という答えが返ってきた。これではだめだ。価値の違いを可視化するというのは、「2倍も3倍も」できれば「10倍も100倍も得だ」ということを示したい。まず上記の説明で間違っているのは165m2を15で割るという発想。シェアというのは165を15で割るのでなく、15人が使うから15倍に生かされるという発想だ。さらに言えば、15人は利害の反する競合者ではなく一緒に暮らす協力者だ。つまりOレジデンスは「25m2の個室と165m2の共有スペースを14人の仲間と共に自由に使う住まい」となる。これを同額賃料の周辺物件と比較すれば、その優位性は明らかなはず。この新しい価値観をきちんと説明することこそが、新しいチャレンジなのではないか。

 

【所有と家族】

Oレジデンスはオーナーとともに暮らすシェアハウス。オーナーのRさんは、入居者同士が互いの異変に気づく程度の緩やかな家族になることを目指している。これに対し、話を聞いた学生が「見ず知らずの人を家族にするなんて本当にできるんですか。現にRさんのご両親は施設にはいかず家族に看取られることを希望したと聞きました。血のつながりのない他人と家族になれるんですか。」と質問した。これに対しRさんは「私の両親は明治生まれの人で、それを当たり前と感じていました。でも時代は変わり私はそうは思いません。むしろ血縁家族に縛られたくも縛りたくもありません」と答えた。この議論は笑恵館でも繰り返されるのでよくわかるのだが、「家族とは何か」というボタンの掛け違いが混乱を招いている。

昔の人が老人ホームに行きたがらないのは、若いころ老人ホームが無かったからだ。世界ではこれがむしろ多数派で、家族を自宅で看取らない方が特殊な国だ。そして「家族」は血縁に限定されない。両親と子供の標準世帯などというものは、サラリーマン社会の産物でまだ3世代程度を経たにすぎず、広く世界と歴史を見渡せば、家族はもっと大きな組織だ。そもそも一番大切な人生の伴侶は赤の他人であり、近親親族とはむしろ別れるべきなのかもしれない。それでは家族をつなぐものは一体何か。それは「所有権」だと僕は思う。「所有権をシェアするメンバー」が家族の定義だからこそ、そこに相続権が発生する。従って「貸借」という利害関係から「シェア」という家族関係に移行しつつあるのではないかと僕は思う。その意味で、Oレジデンスや笑恵館では「所有権のシェア」という形での家族づくりが始まっていると考えてよいのではないだろうか。

 

【古屋と新築】

Oレジデンスが新築で強固な鉄筋コンクリート増なのに対し、笑恵館は老朽化した木造建築だ。この違いは意外な違いをもたらした。それは全社の入居者が80代の高齢者中心なのに対し、後者の入居者が30代の若者中心だということ。そちらも多様な世代の入居者に入ってもらいたいと願っているのに、それは実現していない。Oレジデンスは建物も頑丈で設備も整い高齢者には喜ばれるが家賃は高いので若者には敷居が高い。それに対し、笑恵館は賃料も安く懐かしい雰囲気で若者に人気があるが、高齢者はわざわざ古い建物に住みたいとは思わない。どちらも一長一短で、課題解決は難しい。しかし双方に共通しているのは、同様な取り組みが増えていくことを願っていること。周囲より優れているという価値でなく、周囲と共生し高め合う価値を求めている点だ。だとすれば、1件単独で成立しなくても、違う答えを探せばいいと僕は思う。

笑恵館は満室の悩みを抱えている。それは、新たな入居者を受け入れられないこと。だから大きな家に一人で暮らす高齢者に自宅を開放してもらい、その収入を財源にして笑恵館に入居してもらえば、この仕組みはやがて町中に広がっていくと考えた。ところが、肝心な高齢者に人気が低く、このサイクルが動かない。もしも、Oプロジェクトと連携できれば、高齢者の持て余している大きな家を若者たちがシェアすれば、余裕をもってOプロジェクトに入居できる収入を得られるはず。古屋を捨て新築に乗り換えていく従来の破滅型ライフスタイルを、新築と古屋の双方を活用する仕組みに変換できれば、面白いと僕は思う。

 

【所有者のメリット】

笑恵館やOプロジェクトのオーナーが、身銭を切って建物を直し、自分の専有部分を減らしてまで住まいを開放するのはなぜなのか。その上、自分のものとして使える仲間=家族を募り、個人所有の特権さえも他人に分け与えている。笑恵館に至っては、望みどおりに実現したら、子どもに相続するよりも事業の継続を優先するのがオーナーの希望だ。そんなことをしたら、次第に所有権は危うくなるのでは、仲間たちに束縛されるのでは、そしていざというときに土地を売れなくなってしまうのではないだろうか。いくら新しい試みと言っても、多くの人が理解に苦しむことばかりで、所詮奇特な人の所業にすぎないのではないだろうか。

こうした疑問はもっともだと思うが、それは違う。笑恵館のTさんも、OプロジェクトのRさんも、これが一番得だと思ってやっている。僕はそれを確信するからこれを手伝っている。共通するのは「土地を売る気が無い」ということ。せっかくの土地を使って何ができるかを考えている点だ。土地はもともと誰かが作ったものでなく授かりもの=資源だ。埋立地にしても、開墾地にしても、その場所自体は人間が作ったものではない。石油やマグロと同じ、ただで使える資源だ。その上土地という資源は絶対に減ることはないし、持ち去ることもできない。だから、これをうまく使うことができれば、それは永遠に続けることができる。笑恵館やOプロジェクトを利用して得られる様々な価値は、それを許可するオーナーの裁量次第でいくらでも増えていく。常々Tさんが口にする「結局笑恵館で一番得をしているのは、私ですよ」という言葉が、何よりこのことを物語っていると僕は思う。

土地と資源

以前あるセミナーで、「土地は何でできているでしょう」という質問をしたことがある。これに対し、参加者から「地面」「陸地」「石や土」など様々な答えが出たが、僕の頭が一番反応したのは「地球の表面」という答えだった。土地とは何か、土地の所有権とは何かを考える上で、「地球の表面」という解釈は示唆に富んでいる。所有できるのは陸だけではなく海も同じこと。「誰も所有できない」とはまさに所有の議論だ。川は海と同じか、浅い川はどうか、流れの変わる川はどうか、陸地という言葉の定義もなかなか難しい。つまり、これらを包含し、確実に指し示すのが「表面」いう言葉だ。したがって、土地は石や土のことでもない。地球という天体の表面を、他の動植物の許可も得ずに人間が勝手に分割し、そこに所有権を発生させているだけのこと。だからこれは、極めて人間的な仕業だと言える。

人間は今、この土地を勝手に売り買いしたり、貸し借りしたり「不動産=資産」として取り扱っている。資産とは、換価価値のあるもののこと。つまりお金に換えられるから価値がある。しかし、この…考え方には問題がある。この考え方ではすべての土地を取り扱うことができない。誰も買い手のつかない土地や誰にも売る気のない土地は一体どうなるのか。これが空き家問題として顕在化している。さらに言えば、実際に売買や貸借されている土地は、土地全体のごく一部にすぎない。ほとんどの土地は売買されていない。現に私たちは、住宅ローンができる以前は土地など買うことはできなかった。今後、膨大な土地があり余るというのに、その大部分が売れ残りとして放置され続けるのか。せっかく道路や新幹線を整備したのに、すべての土地を使いたい人に供給する方法はあり得ないのか。そこで僕は土地を資産でなく資源に見立て、【土地資源(Land Resource)】という言葉を作ってみた。土地は誰が作ったモノでもない、地球の表面だ。でも、石油やマグロと違い、移動や消費はできない。土地を資源と考えるには、資産と資源の違いについて、もう少し丁寧に説明する必要がある。

まず第一に、資源は石油やマグロと同じく無料で取得できる。これを人に売れば、土地でなくとも石油やマグロだって資産になる。備蓄した石油や冷凍保存したマグロは、貯めることもできれば売って儲けることもできる。しかしそれを取得するとき、手間はかかるかもしれないがそれ自身は無料だ。しかし、資源は所詮有限だ。石油もマグロもいずれは消費されるために売却されるだろう。しかし、土地は変化することはあっても減ることはない。だから、人類は一体何万年前に土地を取得したのかなど、わかるはずもない。こうして、土地だけが「不動産」という特別な資産になった。そして、その所有についても、所有、占有、保有、領有など様々な形があり複雑だ。尖閣諸島は長きにわたり、個人所有で日本の領土という主張に対し、中国は領有権を主張していた。しかし、当時の石原都知事が「これでは心配だから国有にする」問い言った途端に自体は急変した。個人は中国の敵ではないが、日本という国は中国の敵になりうるからだ。こうした問題も、誰かが尖閣諸島を食べてしまえば問題はなくなるだろう。土地は永久に消費されないことが、他の資源との決定的な違いだ。

もう一つ土地を資源と呼ぶ理由は、それを使って価値を生み出すことができること。石油は暖房やエンジン、プラスチックなど、様々な価値に変わるけど、資源とはそういうもの。土地もそこで畑を作ったり、景色を眺めてのんびりしたり、生活したり、商売したり、僕らの体やモノの置き場所としても不可欠なものだ。また、人材や知財などの経営資源や社会資源(インフラ)など、何かを生み出す素材や道具、方法全般を資源とイメージしている。これらが最終的に価値となり、備蓄されると資産に変わる。備蓄できるのは、余るから。お金だって日々の運転資金は資源に近い。固定資産と流動資産という言葉があるが、不動産を典型的な固定資産と考えていること自体問題だ。土地の中には商品としてぐるぐる流通するモノもある。昔、農地が自由に売買されていたころ、農地の価格は、その収量に応じた妥当な金額だったとか。だから耕作放棄地などありえない。生産価値に応じた価格で資源が売買されるのは、市場経済の大原則だ。ところが今、土地は誰もが高く売り抜けるチャンスを伺っている余剰資産だ。空き家は問題などでなく、みんなが望む不動産投機売買の単なる醜い売れ残り在庫にすぎない。今日の食べ物を買えずにいる人の傍らで、賞味期限が切れた食品を廃棄するような、循環していない澱んだ社会が僕には見える。

丁寧に説明したつもりが、かえって難解になってしまったかな。しかし今は、これを解きほぐすより、僕の意見を吐き出し続け、僕も後から読み返し、よく考えてみたい。僕は土地資産を否定するつもりはないし、土地投機もやりたい人にはやってもらいたい。しかし、土地の売買、投機、開発という従来手法では、日本の国土のごく一部分しか対処できないことは明らかだ。日本の国土面積は37万平方キロで、その内民有地が16万平方キロ。21万キロはとりあえず役所が担当するとして、民有地は僕たちが管理しなければならない。この面積は、国民一人当たり約1300m2だけど、そんなこと誰も考えていない。これって僕たちにとって、素晴らしい話なんじゃないか、ものすごいチャンスじゃないか、と僕はみんなに伝えたい。資本主義にあぐらをかいて、既得権益で儲けている人たちは放っておいて、僕らはさらに進化した、バリバリの自由主義を追求しようぜ!

永続性を作ること

Kさんの実家は高知県土佐市の山の中。空き家状態になってしまったため、地元の自治体の空き家バンクに登録して利用者を探していた。先日入居希望者との契約も済み、空き家バンクも捨てたものじゃないね、などと話していたのだが、「これって全然解決じゃないですよね」とKさんは言う。とりあえず、当面の「空き家化」は回避できたものの、今回の入居者は地元の人でいずれ実家に戻るらしい。その時はまた初めからやり直し、、、つまり、今回の入居は解決でなく先送りに過ぎないわけだ。だとすると、どうなる事が解決なのか、僕たちは土地資源をどうしたいというのだろう。

今回Kさんが土佐市の家を賃貸するのは、賃貸するのが目的ではなく、とりあえず誰かに住んでもらうことが目的だ。せっかく家があるのだから誰かに暮らして欲しいし、せっかく畑があるのだから誰かに耕して欲しいと思うのは、所有者の想いとして当然のことと思う。一方、空き家バンクの目的はあくまで移住の促進であって、空き家の活用ではない。しかし、この違いはあまり問題ではないようだ。少なくとも所有者、利用者、行政、仲介業者などのすべての関係者が、空き家を「古くて訳アリの不動産物件」と認識しているうちは。しかし、Kさんは違うことを考えている。「この家はこの先どうなるのだろうか」と。

土地のように永久に使うことのできる資源は他にはなかなか見当たらない。天変地異を除けば、使えるだけでなく、永久に減ることも移動することもない不変の資源だ。そこには太陽の光や雨や風が永久に無料で供給され、あらゆる命が育まれ、生活や活動の場を提供してくれる。間違いなく我々が生きていくのに不可欠かつ十分な資源だと思う。この資源を使わずに我々は本当に生きていけるのか。本当に資本主義経済だけで、貨幣経済だけで世界の全員が生きていけるのだろうか。

僕たちは、持続可能とか、循環型とか言葉では知っていても、実際にはほとんど実現できていない。それどころか、土地も建物も、家族も会社も、持続もしなければ循環もせず至る所で破たんしている。そしてその原因ははっきりしている。「誰もそれを目指していない」というのが僕の意見だ。昨今江戸のまちが循環型でエコな仕組みだったことが再評価されているが、非力な人間が生きるために自然と折り合いをつけるのは当然のことだ。しかし今や我々は高度な科学技術を持ち、自然に逆らいながら生きることができるようになってきた。ところが、全体の持続とバランスを制御しようという意識は極めて希薄で身の回りと目先のことしか考えられない。強者が弱者を食いつくす前に、新たなバランスを実現する地域だけが生き残ることになる・・・と僕は思う。

石川県羽咋市でOさんが所有する築400年の古民家も、空き家バンクに登録されているが、先般市役所を訪問した際にこちらの要望を伝え、僕が連絡窓口を引き受けることとなった。現在2件の問い合わせが来ているが、まずは現地を見ていただいてから、この古民家について、所有者の想いについて、そして周辺集落の未来について、近隣も巻き込みながら大いに語り合おうと画策している。現状では、この大切な話を誰もしようとせず、初めから諦めているとしか僕には思えない。田舎暮らしも近所付き合いも、そして都会との連携もすべてが生き残りをかけた知恵比べだ。「10年後、100年後を描きながら今を生きることこそ、最高にかっこいい」から始めてみたい。

空き家活用の相談

空き家活用の相談が動き始めました。

八王子のSさんのお宅は施設が老朽化したものの、市内に残る8件の繊維工場の一つとして操業中ですが、この先どうして行くのか思案中だとか。また、今週9日には栃木の御実家が空き家状態になってしまったSさんが、笑恵館にお越しになります。

先週4日に、相談を受けた笑恵館クラブの会員Oさんのご自宅にお邪魔しました。大きな家にご夫婦二人暮らしとなった今、1階の5部屋が物置状態になり、ここを片付けて、若い人と多世代型シェアハウスみたいにできたらな・・・というお話でした。さらに案内してくれたのが、空き家になってしまった地続きの隣家2件。道路から見ると3軒の家ですが、庭から見れば塀もなく、緩やかにつながる3軒の家でした。庭側から自由に行き来できるようにして3軒の家を緩やかに繋いで、[多世代が暮らす村]にできたら夢のようだと感じました。

というわけで、今週の目玉は何と言っても「砧村づくりプロジェクト・作戦会議」です。

どんな展開になるのやら、わくわくしています。

解決のイメージ

笑恵館の近所の空家群を見に行った。まず、相談者Oさんのお宅はご夫婦の暮らしが2階でほぼ完結しているので1階の5部屋が空き室状態で、当面の課題は[片付け]だ。そして庭続きの裏の家は趣のある木造2階建てで、和風にまとめられた庭には時々植木屋さんが入っているという。さらにその隣家も大きな家で、数年前から空き家状態だとのこと。この3軒の家は、段差などはあるものの庭を介してつながっており、庭に立ってみると250坪は下らない大きな屋敷に思えてくる。建築基準法によって1敷地に1建物の制限があるので、道路側から見れば明らかに別個の3軒なのだが、庭から見ればそこには塀もなく、都会の中のちょっとした[村]に佇んでいる錯覚に陥った。

この感覚は、以前にも体験したことがある。会社がつぶれ、新会社を立ち上げていた時に、表通りに面していない巨大な旗竿敷地に[街]を作るプランを描いたことがある。奥まった敷地の中に作る建物を二つに割って間に[道のような空間]をつくり、そこに自由に橋をかけたり屋根をかけたりしたのだが、それは[法律上の道路]ではなく単なる[道路のような庭]だからできたこと。ここでは逆に、3軒の家が一つになると家は1軒しか建てられないが、3軒のママ一体的に使うことで[3軒の村]のような庭を作ればいい。[隣地境界]の概念を変えてしまえば、[緩やかにつながる新しい暮らし方]を提案する余地は十分にある。

今僕らが取り組むべきことは、家の[新しい作り方]ではなく、[新しい住まい方]だ。その際、所有とか境界にやみくもに縛られるのでなく、どのように使いたいのか、暮らしたいのかを考えて、それを実現するのに都合のいい[所有の仕方]を考える、そんな順番に頭を切り替える必要があると思う。道路側に対してはきちんと戸締りをするが、庭側の扉はいつも開いていて、村内の行き来は自由にできるような、数軒の家が集まりその全体をシェアハウス的に運営する方法も考えられる。身内以外の人を受け入れる暮らし方は、1軒の中に閉じこもるより、むしろこうした[村]になった方がいいようにも思える。

空き家問題の相談が少しずつ増えてきた。相談内容は様々だが、要約すれば「もったいないけど使えない」となる。さて問題はその[答]だ。[もったいなく無いように使う]ではなく、[もったいないけど使えない状態にならないようにする]が僕の意見だ。つまり、貧しい人に[お金をあげる]のでなく[稼げるようにする]ということだ。しかし、実際にやるのは難しい上にその説明も難しい。でも[対症療法]はうんざりだ。問題を解決しその先の世界に進むため、なんとしても[原因療法]に取り組みたい。そこで、この対症療法と原因療法をつなぎ、誰もが取り組みやすい解決策を考え出す必要がある。その手がかりとなるのが[夢=未来]だ。

[普通はバラバラに孤立して暮らす数軒の家が互いに開き合う暮らし方]これって、かなり夢に近い答えに思える。しかし、それを実現するにはどうすればいいのか?、そんな企画を実現するにはいくらかかるのか? それを考え実行するのは手間もかかるしリスクも高い。だが、それらはみな新たな開発や工事をするリスクであって、空き家や空き部屋を試しに使うのなら先行投資はわずかで済む。むしろ必要なのは、所有者の理解と合意だけ。だから僕たちは、真面目に夢を語る必要がある。まず初めに僕ら自身が[そうなるといいな]と思える夢を描き、その夢を空き家の所有者たちが[そうなるといいな]と感じた時空き家活用がスタートし、[そうなるといいな]と思う人たちがそこに暮らすようになり、[そうなるといいな]と感じた周囲の家に広がっていく。そして、この村のようになるといいなと思う人たちが全国で真似をするようになることが、僕の解決のイメージだ。

土地所有者の役割

鎌倉時代以降日本の社会は、武家支配による社会が長く続いた。歴史ドラマなどを見ていると、功績のあった武将がその褒賞として領地を授かり、そこを治めて国づくりに励む話をよく見かけるが、権力の中央に対し、上納金や献上物などの負担があっても、交付税や助成金のような分け前があったとは考えにくい。つまり、明治以前の日本では原則として全国各地が経済的に自立・自活していたと思われる。全国各地の地方都市の多くは、かつての諸国の中心都市として栄えたことがあり、文化的にも経済的にも自立していたはずだ。

明治4年7月14日明治政府は廃藩置県を断行、藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、各藩の藩札は当日の相場で政府発行の紙幣と交換されることが宣された。当初は藩をそのまま県に置き換えたため、3府302県あったが、明治9年には35県と合併が進み、明治14年の堺県の大阪府への合併をもって完了した。しかし、面積が大き過ぎるために地域間対立が噴出したり事務量が増加するなどの問題点が出たため、明治22年には3府43県(北海道を除く)となって最終的に落ち着いたようだ。こうした小国の合併により、近代国家としての国体を整えられた経緯は、他の諸国でも同様だ。日本では諸藩を統治していた大名が、西欧では諸国を治めていた王侯貴族たちがその役割を終えた。廃藩置県の後、民主主義の普及と共に土地の民主化も進んだと考えれば、こうした変化からおよそ100年が経過したと考えられる。1世代を約30年とすれば、民主化されて3~4世代目の人たちが現在の所有者ということになる。

現代の土地所有者は、大名や王侯貴族とは違い、社会や法律の許す範囲で土地を自由に使い、そこから収益を得て、最終的には売却する一人の市民だ。しかし、今直面する空き家問題とは、これらの3つの権利=使用・収益・処分を行使せず、留保、放置している状態を指す。この問題はこれからどう進展していくのか、いくつかの可能性が考えられる。

  1. いずれすべては売却され、他の所有者が何らかの用途で使用する。
  2. いずれ何らかの方法で活用されるか、解体されて空き地となり自然に帰る
  3. 空き家は次第に増加し、対策は追いつかず、廃墟を経て最終的には自然に帰る。

こうして考えてみると、最終的な可能性は「使われる」か、「自然に帰る」の二つしか無いように思える。しかし現状はこのどちらとも違う状態であることを僕たちは忘れがちだ。

里山という言葉を耳にするが、これは人に管理された自然のこと。実は、世界の多くはこの[里山]の状態だと言っても過言ではない。僕の知っている森林保護団体は、キリマンジャロ山麓の国立公園拡大を阻止する活動に取り組んでいるが、それは原住民族の排除が目的だからだという。つまり、キリマンジャロ山麓の森林は原住民族の利用によって維持されていて、彼らを排除することでかえって森林の破壊が進んでしまうというのだ。日本の田園風景も、すべて人の管理のたまものだ。ごく一部の自然遺産以外は、およそすべてが人工的な環境であると言っていい。つまり、日本の美しい風景は、所有者たちの管理によって維持されてきた訳だ。

そして、社会問題として顕在化している空き家問題の背後には、賃貸不動産の供給過剰による空室と、世帯分割によって生じた余剰住宅の空室(老人世帯の空き部屋等)が潜在的に増加していて、施設利用の空洞化は空家比率13%の数倍に上る可能性がある。これらの余剰スペースに関する情報は開示されにくく、当然社会に開放されることは無い。「誰も使っていないのだから、どうぞ皆さん使ってください」などと言う家やアパートはめったにない。

これらの状況を踏まえると、すべての未利用土地建物を「活用または自然放置」するのではなく、[管理・公開・開放]することの方が現実的だと僕には思える。人口が減り、地域の担い手が減ることは阻止できないが、明治の初頭日本の人口が3千万人程度だった時代でさえ実現できた[地域の自立独立]に、21世紀のテクノロジーを駆使して挑んでみる価値があると僕は思う。そのために所有者がすべきことは次の3つだ。

  1. 土地・建物を管理する・・・美しく、安全に保つこと
  2. 土地・建物を公開する・・・使用を許す条件(夢)を開示する
  3. 土地・建物を開放する・・・誰もが未利用部分を使えるようにする

所有者が果たすべきこれら3つの役割を永続的に担うため、所有者任せにせず仲間を作り、みんなで国づくりをしたいと思う。必要があれば売買をし、ニーズがあれば賃貸もする。しかし、売買や賃貸は目的でも答えでもなく、途中の手段にすぎないことを肝に銘じたい。

空き家を生まない社会を目指して

「空き家を生まない社会を目指して」という言葉は、僕が設立した[日本土地資源協会]という団体のミッションをわかりやすく表現するために思いついた言葉だが、実はこれには元ネタがある。

それは、株式会社ワーク ・ライフバランスのK社長の言葉「残業の無い社会を目指して」という言葉だ。

ワークライフバランスとは、元来家庭を顧みない働き方や働かせ方に対し警鐘を鳴らす言葉として登場し、どちらかといえばワーク(会社)に偏重した生活スタイルをライフ(家庭)側にシフトする意味合いを持っていた。

ビジネスの形としては、企業の福利厚生面でのサポートからそのCSR的な側面へ浸透させると同時に、地域社会や行政へも働きかけながら社会動向として位置付けられるようになっていったと記憶している。

ところが一昨年、あるテレビ番組で久しぶりにK社長が話しているのを聞いて、僕は衝撃を受けた。

彼女の話はもはや福利厚生から事業の生産性へとシフトし、「だらだら残業している社員こそが会社のお荷物で、てきぱきと働き家庭と両立している社員の生産性が高いことは先進諸国の常識だ!」と熱弁をふるう。

会社で会議ばかりしてる人はマーケットの実態を知らず空論に明け暮れているが、さっさと退社して家庭や友人と[顧客としての時間]を過ごす人は、顧客のニーズを自ら感じ取り新たなマーケットを創出する。

その上残業族は高齢でコストも高い上、残業手当は25%割増だ。

こうした役立たずのせめて残業をカットして、ランスの取れた若者を雇用することこそが生産性向上に直結するというわけだ。

僕はこの[論理の進化]の感動した。

結局彼女は、当初の目的から全くぶれることなく、そのターゲットを大企業の福利厚生担当課長から、あらゆる企業の経営・人事トップへとシフトした訳だ。

彼女の目的は残業をなくすことではないが、目的が実現したその時には、確かに残業はなくなっているに違いない。

僕のやりたい事業を正確に表現すると、[民間土地資源の活用による永続経済創出へのチャレンジ]なんて感じになると思う。

バブル崩壊後の失われた20年とか言われる超低金利時代から、脱出できずに破たんへと突き進む日本政府とその取り巻き経済は、先立つおカネが無ければ何もできない弱虫になり果てている。

しかし、かつての日本がそうだったように、今元気の良い諸外国の人々は我々よりずっと貧しいのに、身の回りにあるものをフル活用して世界の舞台で役を演じはじめている。

もしもこの暗いトンネルを抜け出すことができたなら、その時僕たちは[金持ち]ではなく[知恵者]になって世界と向き合いたい。

僕らに与えられた素晴らしい自然、整備されたインフラ、細やかな文化、平和な社会をこの目で見たいという世界の人々を至る所でもてなしたい。

そしてその時僕らのまちには、活用できずに放置・放棄されている[空き家]など、あるはずはないと僕は思う。

この言葉に魅かれて、僕がやろうとしていることを手伝ってくれる人が来てくれたら、それは嬉しいことだけど、もっと嬉しいのはこの言葉に魅かれて僕と違うことをする人たちが現れること。

Kさんの「残業の無い社会」に触発されて僕が動いたのと同じに、「空き家を生まない社会」で誰かが動き出すのを、ドキドキしながら眺めてる。

ランドキーパー養成講座

昨夜「空き家資源キーパーズ」というタイトルで、新しくできたいわゆる[空き家法]に関する簡単なセミナーを開催し、「そもそも空き家とは、所有権という権利にあぐらをかき、その権利を行使せず[使わない、貸さない、処分しない]状態のこと」という議論をした。

人はなぜ[権利]にあぐらをかいてしまうのか?

それは、「権利の反対が義務」だとすれば、権利=やらなくてもよい、義務=やらなくてはいけない だからではないか…という[僕の意見]を説明した。「若者が選挙権を行使しないのは嘆かわしい」と言われても、「選挙に行かなくてもよい」のではどうしようもない。権利は一体、いつからこんな役立たずになってしまったのだろう、と、僕も常々感じていた。

1時間ほどの話の後、参加者の皆さんから質問や意見を求めると、笑恵館常連のIさんがこんな話をしてくれた。

「[権利]とは英語の[Right]のことで、明治初期に福沢諭吉が翻訳した言葉なのだが、当初は[権理]と表記していた。それが後に[理⇒利]に置き換えられ、今に至るという話を聞いたことがある。[権理]の字を見れば、社会を正しく導こうとする意志がはっきりと感じられるが、[権利]では、自分の利得にしがみつく姿が目に浮かぶ。やはり、言葉の意味は本当に大切だと思う。」

この話は、ググってみるといろんな人が論じていることが判り、有名なエピソードだったことが判った。でも、僕はこれを聞いて、本当に溜飲が下がるというか、とてもすっきりとした気持ちになった。それは「[権理]の字を見れば、社会を正しく導こうとする意志がはっきりと感じられる」という部分だ。これぞIさんの意見=自分の意見だ。そして、僕もこれに[全く同感]したからこそ、すっきりしたに違いない。

僕も最近、似たような体験をしたばかり・・・それは[価値]についてだった。日本の文化財保護法第2条第1項第2号では、演劇、音楽、工芸技術その他の無形の文化的所産で、日本国にとって歴史上又は芸術上価値の高いものを、「無形文化財」と定義している。これに対し、第32回ユネスコ総会で採択された「無形文化遺産の保護に関する条約」の第2条では、「無形文化遺産とは、慣習、描写、表現、知識及び技術並びにそれらに関連する器具、物品、加工品及び文化的空間であって、社会、集団及び場合によっては個人が自己の文化遺産の一部として認めるものをいう」と定義している。日本の定義には[価値の高いもの]とあるのに対し、ユネスコの定義では[自己の文化遺産の一部として認めるもの]つまり「自分で認めれば、それ自体が価値」と理解できる。実はこの違いの原因は、[価値]の語源である[value]という言葉だ。研究者の英和中辞典によると、「価値 《★【類語】 worth は知的・精神的・道徳的価値; value は実際的な有用性・重要性からみた価値》」とある。「有用性とか重要性」を「価格や値段」としてしまったところが、権利のケースとよく似ている。どちらも目的を忘れ、損得とか利害と言った方法や結果にとらわれた発想に導かれてしまう恐れを強く感じる。

僕たちは今「豊かさの弊害」と直面している・・・そんな言い方をよく耳にするし、僕自身もそういうことを言っている気がする。しかし、Iさんの指摘は違う可能性・・・僕たちは本当に[豊か]なのか・・・を提示している。google翻訳によると、豊か の同義語、形容詞、

  • でっかい, 大きい, でかい
  • 沢山, 豊満, たくさん, ふんだん
  • 充分, 十分, ふんだん

だそうな。果たしてこの中に、今の豊かさを表す言葉があるだろうか、こうなりたいという豊かさはあるだろうか?

さあ、あなたの意見を聞かせて欲しい!

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土地資源の再定義

協会HPには、 【ランドリソース】とは、土地資源を意味する造語です。 土地や建物を「当事業の対象」として指し示すとともに、土地の利用・整備・保全に取り組む際に単位となる「一団の土地」を表します。 とあるが、これは具体的な記載とは言えない。 そこでまず「土地資源」を再定義したいと思う。

 

土地を資源化する4要件

1.開放不動産

一般の不動産では、未利用部分を閉鎖して不特定の人々の立ち入りを認めない。その主な理由としては、開放していると第3者に占有されたり毀損される恐れがあるからだ。上記を解消するためには新たな手間や負担が生じるため、結局未利用部分は放置され、増加している。

これに対し「開放不動産」とは、未利用の場所にも可能な限り不特定の人を受け入れるために、手間や工夫を厭わない運営が行われる不動産のこと。「住み開き」や「家を開く」などの取り組みが該当する。(モクレン館、羽咋PJTなど)

2.公開不動産

一般の不動産では、利用に関する情報は業者による広告として公開されているにすぎない。その主な理由としては、所有者の多くが自ら事業に取り組んでおらず、不動産活用の「賃貸と売買」に限定して業者に委託するからだ。しかし、所有者の希望や事情はもっと多様で複雑なため、「賃貸や売買」で解決するとは限らない。

これに対し「公開不動産」とは、所有者が自らの希望や事情を開示して利用者や事業協力者を募ること。

3.非営利不動産

一般の不動産では、不動産から得られる収益は所有者に帰属する。

4.非買不動産

 

当協会の取組

1.不動産公開のサポート

  • (ア)  不動産に関する情報管理
  • (イ)  不動産所有者の夢

2.不動産開放のサポート

  • (ア)  コミュニティ運営
  • (イ)  管理者育成

3.公益不動産の運営 非営利経営

  • (ア)  利用促進              未利用不動産の開放
  • (イ)  整備促進
  • (ウ)  保全促進

4.不動産保有法人の設立

ランドキーパー養成講座 A4 現地調査体験会 20150322

20150316

ランドキーパー養成講座「A4 現地調査体験会」は、現在登録準備中の「神奈川県藤沢市大鋸600坪」の土地資源の現地調査を行いました。

  1. 日時:3月22日(日) 10時~15時
  2. 場所:藤沢市大鋸1077
  3. 内容:10-12時 敷地内・建物調査
    • 12-13時 昼食 ミーティング
    • 13-15時 周辺調査
  4. 準備:汚れてもよい服、筆記用具、スケール、懐中電灯
  5. 参加費:一般3,000円

参加申し込みは、メールまたは電話で

post@land-resource.org 090-9830-3669 松村まで

夢見るオーナーの会

公益申請に関する内閣府への対応を巡り、悶々とする日々に追い打ちをかけるように風邪をこじらせ、最悪の日々が続く今日この頃。 だが、またしてもつまらないやり取りの中から、問題の核心は明らかになりつつある。 僕が最も説明に苦慮し、誤解を招き、その議論の必要性を疑いつつも譲れないのが「所有権」に関する議論だ。 だが「所有権を賃貸する」という言葉の意味を、今内閣府と議論している場合だろうか。 今はやはり、この問題について、自分の考察を進めたいと思う。

「所有権」は「夢」とリンクしている。 二つの言葉をつなぐのは「の」という言葉。 僕の土地、僕の夢、「の」は所有と帰属をつなぐ言葉だ。 所有は「僕の物」「僕の女」など「我が物にする=自由にする」という意味を持つが、これがまさしく「夢」の概念につながっている。 実際にできるかどうかは別にして、「何でもできると考える自由」が「夢」だとすれば、「何をしてもよい=所有」とはほぼ同義だと言っていい。 つまり、所有権を「何かに対して自由に夢を描き、それを試みる権利」と言い換えてもいいのではないかと僕は思う。

どんなに素敵な夢を描いても、その対象が他人の所有物だと何も手を出すことができない。 つまり所有権は、どんなに恐ろしい他人の夢からも、自分の身を守るための権利ともいえる。 しかし、もしも自分の夢が他人に知れて、その夢を語る人が現れた時、自分の夢をかなえてくれる人を拒む理由は見当たらない。 そんな人を僕たちは、味方と判断する。

所有者=オーナーには明らかに2種類の人がいる。高く売却する夢を見る人とそうでない人だ。 売却すれば所有者でなくなるのだから、その夢は終りのある夢。 一方、売却を考えずいつまでも続く夢を見る人は、自分が所有者でなくなった後も続く夢を見ることになる。 つまり、その人の夢が叶うとき、その人自身がオーナーである必要が無い。 【夢見るオーナー】とは、そんな人のことを指す。

自分がいなくなった後のことを夢見る人には、その夢をかなえるための仲間や後継者との出会いが必要だが、 そのためには自分の夢を公開し、説明し、相手の夢との折り合いを確認しなければならない。 しかし、これは意外と難しい。そもそも自分の夢を語ることのできる人はめったにいない。 なぜなら、僕たちは日頃そんなことはしたことが無いし、その必要を感じることもめったにないから。 だが、仲間を募り、後継者を育てようと思ったら、この核心を避けては通れない。

ここで言うオーナーとは、何を所有していても構わない。 それが土地だろうと、会社だろうと、知識であろうと、夢であろうと。【夢見るオーナー】が集まって、互いの夢を語り合うことで、自分の夢を明確にすることが目的だ。 過去の夢、現在の夢、未来の夢そしてその先の夢を発信することで、 「自分だけの夢」が「自分発の夢」になり、やがて「みんなの夢」となったとき、その「みんな」がその夢を実現させるだろう。

オーナーが見なければ、夢は実現しない。

【夢見るオーナーの会】は、夢を実現するための「超現実的プロジェクト」であることを確信する。

所有者参加の土地活用

土地を活用しないのは「もったいない」と言うけれど、それは何のことでしょう。所有者が他人に貸して家賃を取ろうとしないことなのか、どうせ使わないのに他人に安く使わせないことなのか、いずれにせよ「土地で利益を上げないこと」を指しているのではないでしょうか。所有権とは、それを使って何をしてもよい自由のこと。そこで利益を求めるのも求めないのも、所詮所有者の自由です。私たちは、この「自由を使わないこと」を「もったいない」と考えます。

かつて所有者自らがそこで事業を行っていたころ、土地は事業に必要な資源であり、所有権とは自由に事業を行いその収益を得る権利のことでした。ところが、所有者が事業を辞め他人に賃貸し始めると、土地・建物は運用資産となり、所有権もまた、利用者の自由を制限し賃料を徴収する権利に変化しました。その結果、かつて所有者自身が賃料の負担なしに営んできたような収益性の低い小さなビジネスは淘汰され、限定された高収益のビジネスだけが生き残る社会になりました。そしてこの淘汰は、更なる廃業と賃貸不動産を生み出す悪循環を生みました。

新たな供給が止まらない賃貸不動産もまた淘汰を避けられませんが、ビジネスと違い不動産は消滅しないので問題はさらに深刻です。空き家問題とは、こうした構造的な社会現象の一部にすぎず、淘汰を前提に競い合うビジネスでは、この問題を打開するのは無理でしょう。私たちが目指すのは、全ての土地が儲かる資産になることでなく、全ての土地が何かに役立つ資源となること。その「何か」を自由に模索するために必要なのが「所有権」そのものです。所有権無くして土地資源の自由は利活用はあり得ません。

だから私たちは、所有者から許可を得て土地を利用するのでなく、所有者の参加のもと、共に所有者として土地資源の活用に取り組みます。所有者参加の土地活用とは、土地を使って所有者の「生き甲斐」や「やり甲斐」を生み出し、それを参加者と共有し、継続する仕組みにしていくことです。

ランドリソースってどういう意味?

土地は不動産とも呼ばれる代表的な資産です。昨今の空き家や耕作放棄地といった問題は、主に民有地が放置されている状態を指すわけですが、資産という観点からすれば、運用されていない遊休資産と言ったところでしょう。しかし土地は、元来生活や生産の場として私たちの生活にはなくてはならないもので、利用されずに放置されているのはその供給ができていないことに他なりません。需要と供給の関係で言えば、供給過剰だから余っているということになるわけですが、果たしてそうでしょうか?

確かに住宅やマンションは、人口が減少しているにもかかわらず新規の供給が続き、都心部では大規模な再開発が相次いでいます。老朽化した住宅や小規模の事業スペースにはかなり空室が目立ちます。供給過剰は誰の目にも明らかで、疑いの余地はありません。しかし一方で、住宅困窮者は確実に増えています。また、多くの事業者が賃料負担に耐えられずに廃業に追い込まれ、新規起業や開店に対する阻害要因にもなっています。つまり、需要に対して供給が過剰なのではなく、ニーズの無いものが供給されるミスマッチを起こしていると考えられます。

今求められているものは何なのか、それは不要な付加価値を排除した安いもの、いや極端に言えば、タダのもの…つまり「資源」です。土地は売ったり貸したりできる資産である以前に、使ったり生産するための資源です。土地はこの利用価値を永久に維持し続ける減らない資源だからこそ、おカネより信頼される資産となりました。しかし、その資産として使われる土地が増えすぎて、資源としてみんなが使える土地がすっかりなくなってしまいました。

ランドリソースとは、「土地資源」という意味の造語で、現状そのままの土地建物のことです。余計な投資を行わず、現状の情報を開示し、利活用、整備あるいは保全方法についての提案者を募りながら、資源の価値を最大限に発揮できる方策を模索します。ニーズに合わないミスマッチによる投資リスクを避け、長期ビジョンを描きながら運営することで、地域社会からも必要とされる息の長い事業を生み出したいと考えます。ランドリソースとは、現状の「不動産」の対極からその功罪を補完するため、社会の必要から生まれた選択肢だと確信しています。

ランドリソース発進までの、3つの迷い

2月2日、ようやく公益認定の申請手続きを開始しました。振り返るとこの法人は、土地の永続的な利活用を実現するため、個人の所有から法人所有に移行する受け皿として設立したという意味で、当初から公益法人となることを目指してきた訳ですが、これまでの間、次のような3つの岐路を経てきたように思います。
・この事業の公益性をきちんと説明できるのかという岐路
・公益事業とは公益法人でないとできない事業なのかという岐路
・公益法人になる前に公益事業に着手するべきかという岐路

法人の設立当初は、土地資源の放置や放棄の最大要因は、土地資源の生み出す収益の格差ではないかと考え、これらを一括所有して再配分することの公益性を説明しようと考えました。ところが、公益認定の手続きにおいて、公益目的は法令が定める22の公益性の中から選択しなければならず、すっかり困惑してしまいました。なぜ公益性が法律で定められているのか、民による新たな公益とは看板倒れではないのかと。しかし、認定する側の身になってみれば、これは当然のことだと気付きました。22の公益とは、すでに社会のコンセンサスを得ている公益のことであり、その組み合わせで生み出される公益は、そのコンセンサスの上に成立します。もしも我々が新たな公益の概念を提示すれば、当法人の認定以前に、その新たな公益概念に対するコンセンサスづくり=国会承認が必要となるわけです。そこで頭を切り替えて、22の公益から必要不可欠な4つの公益性を抽出することができました。与えられたものを使ってでも、十分に新しいものを作れることを思い知らされました。

特別な自然や文化財でなく、特別な機能や環境を備えなくても、民有地の内容を公開し、誰に対してでも開放し続けることができれば、それは官有地では為しえない自由な経済活動や生活を営むことができる国民に不可欠な公益資源となるはずです。だとすれば、次に私は、それは公益法人にならなければできない事業なのかどうかを知りたくなりました。土地を寄贈や遺贈によって取得する際の税金がほとんど免除されるため、公益法人になった方が良いのは明らかですが、公益法人にならなければ=この事業の公益性が認められなければ事業ができないというのは、やらない言い訳ではないのか・・・という思いが湧いてきました。そこで、寄付が無理なら無償の貸与はどうなのか・・・を税務当局に打診したところ、「問題なし」という回答を得ることができ、早速「賃貸借による所有権取得契約」を開発しました。これで、準備は整いました。たとえ公益法人にならなくても事業に着手できる状態で、堂々と公益認定の申請に臨めることになった訳です。

そして最後は、公益認定の申請をする前に実際に公益事業に着手するかどうかの迷いです。事業に着手せず「構想」の状態で申請に臨めば、いかなる問題にも楽に対処できるかもしれませんが、何より大切な事業の実現性と実効性を突き付ける「現実」がありません。笑恵館の実績も「参考事例」の域を出ず、「公益性の否決」に対して何の対抗もできません。しかし、時はすでに12月を迎え、1月に予算執行してから申請するのであれば、年内には決算を済ませ、新年度から会計を動かさなければなりません。結局我々は、即座に総会を招集し、事業年度を3月締めから12月締めに変更し、1月の新年度をもって公益事業に着手してから申請手続きを行う道を選びました。

ランドリソースという新しい公益事業スキームは、公益法人の認定を受ける前に自力で離陸し、公益認定をもってひとまず周回軌道に乗り、その後体制を整えて宇宙を目指す・・・そんなイメージのスタートとなりました。

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ランドリソース・3つの公益事業(公益認定申請書 別紙2より)
公1 ランドリソースの登録・取得 民有地は本来国民生活に欠かせない資源として、誰もが利活用できるよう供給されたはずなのに、一定の役割を終えた多くの土地が、使われずに放置されている。 ランドリソースとは、所有者自らが現状に関する情報を開示し、新たな利活用に関する提案を広く一般に募ることで社会に供給される「国民生活に資する永続的な土地資源」のこと。 本事業では、所有者より提供されたランドリソースに関する情報を登録・公開し、現状のままでその利活用を推進するための事業を立案し、当法人が主体となって永続的に事業を担う体制を整備する。
公2 ランドリソース活動の運営・助成 民有地は官有地と異なり、自由な日常生活や経済活動を営める場所なのに、互いを訪ね、迎え入れる市民同士の関係が希薄になり、地域の活力が低下している。 ランドリソース活動が目指すのは、民有地が開かれた自由な活動の場となることで、地域の顔見知りの輪が少しずつ広がり、やがて誰もが豊かに安心して暮らせる地域社会の実現に寄与すること。 本事業では、地域ごとに誰もが参加できる会員組織を作り、すべての関係者を緩やかに繋ぎながら、地域社会への貢献や新たな利活用に挑む活動を助成することで、土地資源を中心とした地域コミュニティを育成する。
公3 ランドリソース活動の広報・啓発 空き家や耕作放棄地の増加は、国土の荒廃として誰もが取り組むべき課題なのに、民有地であるがゆえその対応は所有者個人に委ねられ、人々は手をこまねいている。 ランドリソース活動とは、個人の財産として放置されている土地や建物を所有者任せにせず、みんなの資源として確保し、みんなが所有者になったつもりで利用・整備・保全していく取り組みのこと。  本事業では、この活動の内容を様々な媒体による発信やイベントなどを通じて広く普及し、「空き家の無い社会の実現」に向けて誰もが当事者として寄与できることを啓発し、活動の担い手を事業者として育成する。

所有権と所有義務

ランドリソース活動は、土地所有のあり方についての提案でもあります。 土地所有のあり方は、今の日本においては「所有権」という権利が誰に帰属するかによって所有者が決まります。あえて「今の日本」と加えたのは、地域や時代によって異なるからです。例えば、国の領土について日本と中国では違います。中国政府はすべての領土を所有していますが、日本政府はそうではありません。尖閣諸島を国有化したことは、国内ではあまり意味を持ちませんが、中国に対してはかなりのアピールになった訳です。日本でも、無かと今では違います。豊臣秀吉や徳川家康はある意味で領土を所有し、功績のあった家来に褒美として与えていましたが、今の安倍総理はそんなことはできません。土地の所有とは、決して普遍的なことではないわけです。

私たちの知っている所有権は、次の3つの権利で成り立っています。
1. 利用権 土地を自由に使う権利
2. 収益権 土地から得られる収益を取得する権利
3. 処分権 土地を分割、売却する権利

これらの権利は、義務ではないので、行使しなくても責められることはありません。このことは権利を持つ側にとっては好都合ですが、周囲に迷惑を及ぼすことがあります。空き家とは、利用せず収益も生まず処分もされない家ことであり、その典型例だといえるでしょう。「空き家の無い社会」を実現するためには、この問題を避けて通ることはできません。所有者個人の権利は守られるべきだと思いますが、空き家の放置に関していえば、社会の一員として果たすべき、下記のような義務もあるはずです。
1. 利用義務 土地を放置せず、何らかの方法で利用する義務
2. 保全義務 土地を保全するための費用を負担する義務
3. 放棄義務 土地の利用も保全もできない場合は放棄する義務

これらの義務は強要されるべきではありません。権利を守るために、あくまで自発的に取り組むべきものだと思います。しかし、権利が自由ですが、義務は約束です。自由を守るには何もしなければいいのですが、約束を守るためには永続的に義務を果たし続ける仕組みが必要です。私たちは、これらの義務に取り組むことを「公益」と考え、これらの義務を負う所有者となるために「取得」という事業を開始しました。この義務に基づいて設立された法人が所有者となることで、約束は永続的に果たされることになると考えます。