空き家の定義は大丈夫か?

新潟から戻った2日から今日までの7日間、僕はSHO-KEI-KAN展Ⅲと格闘していた。SHO-KEI-KAN展は、笑恵館の開業を記念して一昨年の5月に開催したのをきっかけに、毎年この時期に笑恵館で1週間の展示イベントとして続けている。今回の展示は2回目と同様10枚のパネルにまとめ、同内容の冊子も作成して今後の説明資料に活用する。はじめの2日で全体の構成が決まり、残りの2日で中身をまとめ、6日の夜には印刷までこぎつけた。そして案の定、なんか全体的に解りにくい。内容が難しいのは仕方ないが、説明がまずいとすれば、それは自分がよく解っていないせいかもしれない。たとえどんなに難しくても、誰にも理解されなくても、自分の理解が進むなら書くことに意味がある。そんなわけで、この週末は地獄のような2日となった。自分の書こうとしたことは何だったのか、自問自答が始まった。

全体を見返すと、さらに驚くべきことが判明した。今回は、土地資源、社会、所有者の3つについて5つの切り口で説明し、必ずそれを写真で表現することに挑んだのだが、なんと同じ写真が2か所にあるではないか。ジグソーパズルの最後の1ピースが違っていたら、どこかに違うピースが無理やり入っているはずだ。僕の場合は、違うことを書くべきなのに同じことを繰り返し書いていた。違う切り口で書くはずなのに同じということは、その切り口の違いを理解できていないということか。迷宮でさまよう僕の他に、パズルを解きたくて疼いている僕がそこにいた。そんな中で僕が見つけた問題は、空き家の定義そのものだった。

空き家は確かに近所迷惑で、空き家の増加は由々しき問題だ。しかし僕のやりたいことは、「空き家の近所迷惑をなくすこと」では決してない。以前ブログにも書いたが、「空き家のない社会を目指して」というキャッチーな言葉に惹かれて、「空き家」という言葉を利用してはいるが、僕が取り組みたいのは「所有」という概念の復権だ。でも「空き家」という言葉はすでに歩き始めており、僕に来る相談の多くはすでに「空き家の・・・」になっている。そこで、ひとまず冊子は再構成し、初稿ということで決着させ、僕はちょっと脱線気味だがこの文章を書き始めた。そんなわけで今週は、メルマガどころでは無かったし、こんなメルマガの回があってもいいかと思う。

もう少し「空き家」について説明したい。今回の展示では、細かい出展は記さないが数値データはすべて入手しグラフは自分で作成したが、そこで見つけた算出式は、なんと「空き家数=住宅供給戸数-世帯数」というものだった。住宅の戸数は国税庁の課税データから、世帯数は国勢調査データから算出したものだから、「1世帯が1戸の住宅に住んでいる場合の余りの数」ということになる。例えば僕は、カミさんの実家に扶養家族でない次男と一緒に同居している。国勢調査の「持ち家」とか「同居」の記載を反映しているのなら構わないが、これはあてにならないとすれば、空き家の数はさらに増えることになる。間違っても「全国の空き家を数えた」のでは無いのだから、この数字は疑われて当然だと思う。

なぜこんなことに目くじらを立てるのかというと、ドイツには空き家を捕捉する統計があるからだ。ドイツでは、空き家を住宅ストックと考え、年代別、面積別、地域別に供給戸数と空き家数を把握している。この数値をもとに、新規着工件数も総量規制が行われ、空き家=在庫住宅として管理されている。今回の展示で、日本、イギリス、ドイツの空き家数を比較するが、その計算方法は国によってまちまちで、その目的も異なる。日本では、総量規制どころか、供給過剰に何の対策も講じていない。本当は、こうした違いをこそ伝えたいのに、グラフに並べると「ドイツは空き家が少ないね」で終わってしまう。

こうして考えてみると、統計とは恐ろしいものだ。同じ計算方法で繰り返し計測するのであれば、その比較は意味深い。しかし、国ごとに違う方法で集めたデータを、それらしく寄せ集めて作った比較表に何の意味があるだろうか。世界各国のGDPなど、ひどい内容なのは想像に難くない。そして、日本の「空き家数」など何の意味があるのだろう。自分で解説を読み返すと、訳が分からなくて笑えてくる。

今回もう一つ感じたのは、統計データにその国の目指すものが現れるということだ。国が統計を取るのは、膨大な費用と時間を費やす大仕事なので、よほど重要でないと実施されないはずだ。日本で主要な統計を取っているのは総務省と国税庁で、他の官庁はその管轄範囲内の統計にとどまってしまうのは当然のことだ。例えば、日本国土の使われ方を知るのは難しい。唯一全体を網羅する国税庁では「公有地と民有地とその他」となり、「その他」の内訳は、管轄官庁が無いからわからない。地主を管轄する官庁が無いので、地主に関するデータはほとんどわからない。それは、日本という国が地主について把握する気がないことを意味する。さらに言えば、地主に関する法律もなければ学問もない。日本の経営に「地主は必要ない」とでも考えているのだろうか。

僕が言いたいのは、こんなことらしい。だから、それを展示するのも冊子にまとめるのも、きっと無理だと思う。でも、この展示に挑むことで、こんなことが見えてきた。この展示を介して、皆さんにこの話をすることはできるだろう。だから元気を出して、SHO-KEI-KAN展Ⅲを開催する。5/16~21、皆さんのご来場を、心からお待ちしています。