行動から思いつくこと

11月は、11日間にわたり古民家の活用事例を見て回った。当初リストアップした216件のうち、訪問できたのは174件で、まだ西神奈川や千葉エリアなどが残っているが、調査はこれで一区切りとし、今日はその結果を簡単に総括したい。そもそも僕は何を探していたのか。それは、「古民家の背後に所有者あり」という仮説を確認するためだ。古民家には所有者が培ってきた良質な空間環境、所有者にとって捨てがたい価値、そして所有者ならではの自由な利活用がなされているからだ。仮に利用者がテナントであれば、古民家につきまとう「取り壊し・立ち退きのリスク」を防ぐには、所有者との関係づくりが欠かせない。だから古民家ビジネスは、何らかの形で所有者が関与しているに違いない・・・という訳だ。だから、この調査は「たとえ建物が古びても、その利活用を諦めない所有者を探す旅」と僕は考えた。

 

判ったこと① 古民家分布のばらつき

Web検索で「古民家 活用、カフェ、ショップ、レンタル」などのキーワードで抽出した事例のうち、今回は、都内全域と神奈川東部、埼玉南部エリアを探索した。途中の町並みや、周辺の雰囲気を体で感じられるよう、世田谷の笑恵館を起点に原付バイクで走り回ったのだが、そもそも古民家の分布にはムラがあり、活用事例の地域における存在意義も様々だと感じた。例えば、鎌倉や青梅など歴史的な街並みが広範囲にわたって現存するエリアでは、調査対象以外にも数えきれない活用事例が存在する。というか、それが当たり前のようになされたからこそ、今の町並みがあると言えよう。また、旧街道に沿って古い町並みが残るエリアなどでは、たとえ事例がわずかでも、周囲を含めた可能性が感じられる。そして、開発が進み、わずかに残った活用事例では、むしろ希少な空間として、人々を魅了している。一方、データからは除外したが、ベッドタウンと言われる新興住宅地には、そもそも古民家が存在しない。高齢化が進む中、駅前のビルの一室で運営中のコミュニティカフェオーナーが、「古民家がある町がうらやましい」と言っていたのが印象に残る。

 

判ったこと② 施設の開放性

さて、今回の調査方法は、古民家の利用者を訪ねて「あなたはこの土地建物の所有者ですか?」と尋ねることだった。「あんたは何者だ、何の権利があってそんなことを聞くんだ」と、行く先々で叱られるのだが、「日本土地資源協会」とか「笑恵館」とか説明しながら、根気よく粘り続けた。だが、そうしたやり取りができたのは全体の25%程度で、残りは施設が閉まっていたり、スタッフに追い返されたりで、答えだけは聞いたもののそもそもまちづくりとは程遠い閉鎖的な商業施設だった。今回、所有者主体の活用事例を探しているのは、それが単なる収益目的でなく、自由な交流を促進する開放型の運営につながるものと考えたからだ。だが、少なくとも冷やかしの僕を優しく受け入れて、事業の説明をしてくれるような施設は全体の4分の1に留まり、残りは「そんなこと見ればわかるだろ」的な施設だった。

 

判ったこと③ 所有者との関係

こうして調査を終えてみて、施設運営者と所有者の関係は次の3つに分類することにした。

  • a.オーナーとは、運営者や経営者が土地オーナー本人若しくはその家族の場合。
  • b.協力とは、運営者がオーナーから直接賃貸し、協力または支援する関係の場合。
  • c.テナントとは、運営者とオーナーとの間に仲介業者が介在し、双方に面識も協力関係も無い場合。

そしてその割合は、「オーナー:25%、協力:14%、テナント:59%」ということが判明した。ささやかな調査なので、この数字から何かを断定する気はないが、感じたことは述べておきたい。まず、今回の調査はweb発信情報に基づいているので、発信できていない事例=個人所有者の関与はもっと多いのではないかと推測する。もう1点は、協力関係が少ないことで、「相続や土地壊しなどで何時退去させられるかわからない」というリスクに甘んじているテナント事業者が大多数という印象を受けた。

 

以上、今回調査のまとめを振り返ると、当初の疑問や仮説に対し判った③の他に、①や②のような調査の過程で新たな疑問と気づきが浮上したことがわかる。そもそも古民家が「土地資源の有効活用の証」なら、古民家が数多く残るエリアには何があるのか。そして、顧客以外の来訪者を拒絶する閉鎖的な施設に、そもそも新規性があるのか、そしてそのための自由が必要なのかということに、僕は疑問を持つようになった。確かに「見るからに魅力的で、料金を支払ってでも入ってみたい施設」であることは、施設運営にとって有利なことだ。だがそれは、僕が求めていることとは少し違う。僕が求めているのは、「見るからに何かできそうなので、まずはタダで入ってみたい施設」だと思う。決まった料金を支払うのでなく、新しい一歩を踏み出す場所でなければ「無から有」は生まれない。「新しいこと=行動から思いつくこと」と言ってもいいんじゃないかと、僕は思う。

石を積む

突然「石を積む」と言われても、あなたには「何のこっちゃ」だと思う。今日は、名栗の森オーナーシップクラブの11月例会に参加して、3つの「石を積む」を体験した。一つ目は、山道の途中にあるご神木の周辺整備。二つ目は、名栗湖を堰き止める有馬ダムの石積。三つめはその下流の名栗河原で体験したロックバランシング(石積みアート)。一見、何の脈絡もない体験だが、これらを通じて様々なことを考え、三つが奇妙に絡み合う、そんな今日の体験をここにまとめてみたい。

 

名栗の森オーナーシップクラブとは、埼玉県飯能市の西部に位置する旧名栗村にある人造湖「名栗湖」の南側に隣接する15ヘクタールほどの山林を、長年にわたって放置してきた所有者が、仲間を募ってその利活用に挑むプロジェクトだ。山林を貸すのでなく、全員が所有者として参加するので「オーナーシップクラブ」と命名し、昨年10月の発足からちょうど丸一年が経過したところだ。初年度はとにかくこの森の1年=春夏秋冬を体験しようということで、毎月第4日曜日に現地で例会を開催し、森の変化を体感した。森の中を通る「関東ふれあいの道」は、棒の折山登山の白谷沢ルートと言われる人気コースで、平日でも頻繁に登山者が通り抜けていく。冬になるとシカやイノシシを追ってハンターたちもやってくるし、クラブの仲間もマムシやツキノワグマに遭遇するなど、奥武蔵山系のほんの入り口だが、十分に「山」を感じることができる森だ。

 

登山道を5分ほど歩くと、道の脇に杉の巨木が現れる。地元の人たちが「ご神木」と呼ぶこの樹の袂には、朽ち果てた社(やしろ)の残骸が転がっていて、活動を始めた当初から気にはなっていた。森の一年を見守るうちに、その思いは次第に強くなり、2年目の活動は、「まずご神木の周辺整備から始めよう」と誰ともなく言い出した。これに対し、「そもそもご神木とは何なのか」、「僕たちはなぜここを整備したいと願うのか」、と素朴な疑問が湧いてきたのだが、「僕たちが持ち主だから」という根拠の無い答えがとても心地よく、みんなの意見はすぐにまとまった。だが、「ただ何かを祀りたい」では具体案が決まらない。行き詰まった9月の例会で、僕らは少し開き直り、近所の上名栗地区スタンプラリーに参加して集落を探索した。ひっそりとたたずむお寺や神社。こじんまりとした集落に立ち並ぶ古民家を訪ね歩くうちに、ふと足元にある石積みに気が付いた。そうか、人里の環境整備は石積みだ。

 

というわけで、ご神木の足元を石積みで整備しようということに意見はまとまった。石はもちろん、現地にある石を使い、登山道からご神木を見上げた時に何かを供えたくなるような基壇を作りたい…と漠然と考えて現地に向かった。「登山道に石が無ければ、下の沢から運べばいい」と安易に思っていたけれど、いざ歩き始めると、そこここに岩がごろごろと転がっていて、一同まずは一安心。足元に転がる「ただの岩」が、こんなに愛おしく思えるなんて、想像もしなかった。石集めは後回しにしてまずはご神木の元にやってきて、石積みを作る場所選びにひと悶着した後、スコップ持参のYさんをリーダーに、石集めと石積作業が始まった。そのあたりに落ちている石を拾い集め、それを積むだけのことなのだが、通りすがりの登山客からの好奇の目線を意識しながら、一同どこか誇らしげに、作業に打ち込んだ。それは明らかに「所有者だから許される特権」を意味していた。

 

出来上がってみれば、ほんのささやかな石積みで、通りすがりの人には気付いてもらえないかもしれない。でも、僕らにとって、初めての造営は完成した。みんな誇らしげに山を下り、名栗湖を堰き止める有馬ダムの堤で日向ぼっこをしながら弁当にありつくことにした。有馬ダムは、ロックフィルダムという工法で作られており、岩石を積み重ねた表面は、自然石が整然と石垣のように並んでいる。今しがた、ささやかな石積み工事をしてきた僕らにとって、この壮大な工作物は神の仕業にも思えた。僕らが6人がかりで1時間かけた作業量に比べれば、ここからの視界に見える様々な石積みがすべて偉大な仕業に思える。ビジター参加してくれたSさんから、「奥出雲のたたら製鉄の採掘跡が棚田として利用されている」なんて話を聞くと、ダンプもブルトーザも無い時代の人々の営みのすごさがひしひしと感じられた。

壮大なイメージをしながら日向ぼっこをした後、今度は趣を変えて河原に降り、石積み遊びをみんなに教えた。これは自然の石をいかに不自然に積み上げるかを楽しむ「ロックバランシング」という一種のアートで、ちょっとしたコツを覚えれば誰でも上達できるし、ハマってしまう。案の定、今日のみんなはたちまち夢中になり、子どものようになってしまった。小さな石の上に大きな石が乗っていたり、三角の石が旗のように立っていたり、「不自然とは何か」を競い合う不思議なゲームが先ほどのご神木の石積みを思い出させた。道行く人に気付いてもらいたい、ご神木への思いを形に表したい…という欲求は、結局「自然の中に不自然をどう作るのか=アート」ということにつながる。借り物は元通りにして返さなければならないが、所有者はそこに何かを創り、残すことが許される。

「賃貸でなく、所有することで世界を創っていく」と、今日も僕の主張につながる「落ち」でした。

古民家と所有者

ようやく秋らしい快晴の日々が続くようになったので、昨日の朝僕はスーパーカブに乗って、「所有者主導の土地資源活用事例」の訪問調査に出発した。今回この調査を思い立ったのは、もちろんソーシャル不動産プロジェクトの紹介事例を増やすためだ。先週まで雨や台風が続いたり足の小指を怪我したりで、どうせ事務所で悶々と暮らすなら、思い切って時間を割いて活用事例を検索しまくった。収集にあたっては、施設所有者の関与についての記載を懸命に探したが、ほとんど見当たらないことが判明した。恐らく土地資産の所有者情報はプライバシーとして保護されているのだろうが、だからこそ、僕はこの調査の必要性をさらに感した。土地所有者の思いを開示するというソーシャル不動産の目的に加え、現地を訪問し、現場の事業者と所有者の関係についても僕自身が直に触れてみたいと思った。だがその前にまず、所有者が関与している事例の候補を、どうにかして探し出さなければならない。

 

土地資源の活用事例に当たる条件は、公的制度や助成金に頼らない自立事業であることだ。公的制度や助成金は永続的に保証されるものではなく、持続するには自立経営が不可欠だ。また、調査に行く以上訪問を受け入れる業態であることが望ましい。そこで、積極的に情報発信して利用者や見学者を募る施設となると、「飲食店」「物販店」「レンタル・撮影スペース」などが中心となる。それらの中から、施設所有者が主体的に関わる事業を選別するとなると、所有者ならではのこだわりが反映された施設や事業となるはずだ。そこで僕が目を付けた検索ワードは「古民家」だ。「古民家カフェ」、「古民家ショップ」、「古民家スタジオ」の3つで探し、それらの中から僕の独断で行ってみたいと思う施設を選んだ結果、東京周辺で集めた約200か所の事例をマップに落とすことができた。そんなわけで、今日は「古民家と所有者」の関係について、3つの視点で述べてみたい。

 

「古民家」は良い環境の象徴だ。そもそも民家とは、地域の素材で作られた土着建築のことであり、その地域の環境に適合することで逆に地域そのものを象徴している。だからこそ、観光事業において古民家が強みを発揮するのは当然のことだろう。外国人旅行者にも絶大の人気を誇るのは、まさに古民家が「体感できる日本」だからに違いない。農村、田舎、里山と言った日本の原風景にも欠かせない存在だし、都会よりも地方に優位性を感じる貴重な土地資源だ。そして「こうした環境を守ることは、所有者に委ねられた責任だ」という思いが、子孫に土地を継承していく最大の動機となっているではないだろうか。この場合の土地とは、決して切り売りする財産でなく、地域社会が生きるため協力して守るべき資源なのだと僕は思う。

 

次に「古民家」は価値の象徴だ。「古い」ということは、永く壊されることなく継続してきた歴史的価値を意味する。その価値は再現模倣できないゆえに「本物」を意味するし、「もったいない」という思いを喚起する。所有者が土地を手放したくないと思うのは、永遠に続く時間の価値を有限のお金に換えることへの躊躇でもある。都会の中に取り残された古家を、開発せずに守り続けるのは目先の経済合理性には反するかもしれないが、やがて周囲がすべて開発された後にむしろ希少価値を獲得した事例はいくらでもある。「何かを守り続ける行為」は、モノの価値に対し無形の価値を付け加えることになる。そしてこの価値は、自然の恵みでなく人間自らが生み出すことのできる価値であり、すべての所有者はそれを手に入れる権利を持っている。

 

そして「古民家」は自由の象徴だ。地域の環境やそこで調達できる素材などの制約はあるものの、あとは自由な創意工夫に満ちている。特に木造建築は加工が簡単なプレハブ建築なので、増改築や移築を繰り返しながら数百年単位で使われてきた。現在のリノベーションやDIYブームは、木造の古民家では昔から行われてきたことであり、「古民家」は規格化された工業製品に対するローカルな手作り製品をイメージさせる。この自由は、一方では金銭的束縛からの自由でもある。DIYが割安なのは当然だが、そもそも古くなった建物は、ローンの返済負担が無くなる上に、減価償却が進んだ結果固定資産税評価も低くなっている。何もしない所有者に対しては節税目的と称して投資や開発の誘いうるさくなるが、土地活用を目指す所有者にとってはこれからが本番だ。当面の利益が見込めないチャレンジそのものが、絶好の節税対策になる訳だ。

 

これら3つの理由から、僕は「古民家の背後に所有者あり」という仮説を立ててみた。家賃を払いながら行う古民家ビジネスには常に「取り壊しのリスク」が付きまとう。これを防ぐには、所有者との関係づくりが欠かせない。だから古民家ビジネスは、何らかの形で所有者が関与しているに違いない・・・という訳だ。僕は「日本土地資源協会」の名刺をたくさん印刷して、古民家めぐりの調査を開始した。顛末の報告はまた後日をお楽しみに。では行ってきます!!

FBグループ ソーシャル不動産プロジェクト

https://www.facebook.com/groups/social.land.project/

ランドバンクという言葉

昨年開催したSHO-KEI-KAN展Ⅲで紹介した「ランドバンク」が、じわじわと脚光を浴びつつある。

【アメリカの取り組み】一部の州で先進的に活用しているランドバンク(LB)は自治体内に設置される州法で定められた行政組織のこと。固定資産税を一定期間滞納した物件は、裁判所等の手続きを経て、郡のLB の所有とすることができる。LB は、放棄物件の活用を図るため、様々な事業を行う。また、地域住民との協働による活動や、収用物件を地域に管理委託して行うコミュニティガーデン事業等を通じて居住環境改善に寄与し、空き家の収用、不動産価値の向上や犯罪件数の減少に寄与している。なお、オハイオ州では公設の民間企業として、LBに相当するLRC(Land Reutilization Corporation) が設置されており、好採算物件の収益を不採算物件の経費に回すことで収支を確保しているという。(以上、SHO-KEI-KAN展Ⅲより引用)

 

こうした取り組みに触発されたのか、政府・与党は5月9日、空き地の再開発や流通を促進するため、所有者不明のまま放置された土地を公的機関が利活用できる制度・・・「日本型ランドバンク」を創設する方向で検討に入ったと報じられた。簡易な手続きで公的機関が土地を借り受けられるようにすることで、国や自治体が効率的に道路整備などを進めることが可能になり、地方の再開発に道を開く効果が期待されるという。そして、政府が6月にまとめる経済財政運営の指針「骨太方針」に制度創設を盛り込むため、米国で成果を上げている非営利組織「ランドバンク」などの先例も踏まえ、5月中をめどに“日本型”の制度設計に向けた議論を本格化させる…と鼻息は荒かったのだが、その後足音は聞こえてこない。

 

一方で、国内では農地の利用を促進する「アグリランドバンク」が注目を集めている。これは、山形県鶴岡市の取り組みで、「空き家バンク」の取り組みが「空き家の賃貸情報」だけでなく「農地の賃貸情報」を取り扱うようになった事例だ。Webサイトを見ると「農地の貸し借り、売買については、地域の農業委員や生産組合長、JA等の仲介やあっせんにより行われていますが、この度、貸し付け、売り渡しを希望する農地等の情報を一元化し、広く農業者に公表することとしました。」とあり、農地活用の門戸を広げるという意味においては新たな取組と言えるだろう。だが、米国型ランドバンクが土地の所有に関わるのに比べ、日本の空き家バンクは情報開示による流通・仲介に留まっており、正確には「情報バンク」の域を出ない。「農地バンク」や「民家バンク」といった類似の取り組みも同様だ。

 

そこで、「ランドバンク」の意味についてさらに調べると、Wikiで面白い言葉を見つけた。「ランドバンキング(Land Banking)とは、1970年代のアメリカにおける地方自治体の土地利用の際に用いられた土地の有効取得手法に対して名づけられたものが最初と考えられている。その後、この言葉は民間の不動産開発会社による長期的な不動産開発ビジネスを意味するものとして使用されることになった。開発までの期間が長いことが理由で、投資家からの資金で事業を進めていくことが多いことから、不動産開発を利用した投資商品をランドバンキングと呼んでいる場合もある。各国においてランドバンキングという言葉の確固とした定義は存在しないと思われる。国によって細かい意味は異なるようであるが、一般的にはこうした未開発の不動産を活用した資産運用手法がランドバンキングと呼ばれている。」と。だがこれは、読んでお分かりの通り「地上げ開発」とあまり変わりがない。不動産の抱える課題を「投資のチャンス」としてしか解決できない発想こそが、今変えるべき思い込みなのではないか。

 

僕は、不動産ビジネスの新しい価値として「非営利ビジネス」を提唱し、笑恵館を実践している。米国型ランドバンクがそうであるように、ランドバンクは営利を追求するのでなく、その持続と発展を優先すべき事業だ。それは、使われていない土地や建物(土地資源)の収益率よりも利活用率を高めること。使われていないのなら利用者を募り、たとえ無償でも利用に供すべきだ。そこで大切なのが「資源」を提供するのでなく、「所有権」を提供すること。所有者としての権利と義務、自由と責任をすべて提供するべきだ。つまり究極的には、土地資源の活用を望む所有者からの「寄付の受け皿」になることを意味している。「そんなことは国がやることだ」とあなたは思うかも知れない。だが、財務省は「国に土地等を寄付したいと考えていますが、可能でしょうか?」という問いに対し、次のようコメントを公開しているので、読んで欲しい。

 

「【答】 国が国以外の方から土地等の寄附を受けることは、強制、行政措置の公正への疑惑等の弊害を伴うことがあるため、閣議決定(参考)によって原則として抑制しております。しかし、前述の制限に反しないような寄附の申出があった場合、土地、建物については、国有財産法第14条及び同法施行令第9条の規定により、各省各庁が国の行政目的に供するために取得しようとする場合は、財務大臣と協議の上、取得手続をすることとなります。また、行政目的で使用する予定のない土地等の寄付を受けることには合理性がなく、これを受け入れることはできないと思われます。」http://www.mof.go.jp/faq/national_property/08ab.htm

 

日本では、土地を所有し社会に役立てるのは僕たち自身の役割だということを、忘れないで欲しい。日本における公有地とは、国民全体がその管理を公的機関に委ねているだけで、中国や北朝鮮と違い、日本の国土はすべて国民のものなんだ。だからこそ、個人が持て余す土地や建物を預かって保有するのは、僕ら自身の役割たと僕は思う。その取り組みのキーワードとなる「ランドバンク」という言葉が、乱用され、迷走しないように、願いたい。

土地問題の「無から有」

先日、兵庫県H市にある「どうしようもない土地」の相談を受けた。約6,000㎡の休耕田の一角に築100年を超える古民家が建っているのだが、リフォームはもちろんのことシロアリの駆除費用も捻出できないため、このままだと朽ち果ててしまうという。それを承知で、助けていただけないだろうかというメールに、僕は二つ返事で快諾した。所有者の「お金が無い、為すすべがない」に加え、僕だって「有ったことも無い人」から「行ったことも無い」場所を相談され、「行ってみる時間も無い」と無い々づくしだ。だが、まさにそれが僕にとってはとても魅力的に見えた。

 

僕は「どうしようもない」が大好きだ。「一見どうしようもないこと」を何とかするのもいいが、「本当にどうしようもないこと」を何とかするのが面白い。それはどこかで、価値観や世界観を変えること、つまり「どうしようもない」と考えている自分自身を変える必要があるからだ。実は、相談者には希望があり、それはこの古民家や休耕田が観光や交流施設として活用されること。そのためには施設をきれいに整備し、人々が利用したくなるようにしなければならないが、自分にはその資金が無い。所有者の願いに賛同する人はいなくはないが、自分で資金を投じてまで協力するとは思えない。藁をもすがる思いで助っ人探しをするうちに、内閣府のホームページで僕を見つけたそうだ。「ご活動のおり、何かのお役に立てていただけそうであれば、ひと言、お声をおかけください。」との申し出は、僕にとってはストライクだ。僕は依頼者の願いを叶えるのでなく、僕自身の活動に役立てることで答えればいい。

 

お金さえあれば、何でも作れる。斬新な設計をし、立派な施設を建設すれば、魅力的な施設ができるだろう。そしてはじめのうちは、人々が訪れ、繁盛するかもしれない。だがそれはいつまで続くのだろうか・・・と僕は考えてしまう。「そんなこと言ってたら、何もできないじゃないか」と言われるかもしれないが、僕は現状を見てそう言わざるを得ない。つまり、そもそも古民家と田畑は、なぜ捨てられてしまったのかということを。ここで求められていることは、「施設が活気づいて成功すること」でなく、「捨てられずに持続すること」ではないだろうか。「他のモノ」なら、必要に応じて作ったはずがいつしか使われなくなり、捨てられていくのは仕方のないことだが、「他ならぬ土地」もそれでいいのか。いつまでも無くならずに使い続けることができる「土地=空間」がいらなくなるなんて、それ自体が間違っているのではないだろうか。

 

チョット脱線するが、「何もない」ということを説明するのは案外難しく、むしろ「何かある」と考える方が合理的だということは、科学の歴史が教えてくれる。まだ昔地球が平らだと考えられていたころ、海の端は滝になっていて、世界は4匹の像が支えていた。だがその向こうは何なのか、像は何に乗っているのか・・・と考えるとさらに謎は深まるばかり。「何もない」とは、「考えても無駄」を意味していた。だが現代では、元素や素粒子の間・真空と呼ばれる部分は「何もない」のでなく「何かで満たされている」と考えられている。科学者はそれを「ダークマター(暗黒物質)」や「ダークエネルギー」と呼び、2013年3月、欧州宇宙機関はプランクの観測結果に基づいて、ダークマターは26.8%、ダークエネルギーは68.3%、原子は4.9%と発表した。僕たちが判っているのは「4.9%」、これが宇宙科学の現状だ。

 

話を「宇宙」にまで広げなくても、「世界」を見れば十分だ。日本の空き地は、これから世界中から狙われるようになる。僕たち日本人が、こんなに安全で豊かな土壌を持つ国土を「要らない」というのなら、欲しがる外国人はいくらでもいるだろう。きっと彼らなら、もっとどん欲に土地を使って生きるだろう。だが、僕たちは外国人に国土を明け渡す気など毛頭ない。だがこのままでいくと国土の荒廃は止まらない。それは、国土全体を保全するよりも、そこから目先の利益を得ることが優先しているからだ。施設でも地域でも国全体でも、「活性化すればなんとかなる」という発想が蔓延しているように僕は思う。気が付けば、誰一人として「滅びないための対処」をしていないのではないだろうか。都合の良いことだけで世界を組み立てていて、本当に良いのだろうか。

 

「無から有」とは、帽子からウサギを出す手品のことではない。何かがあるとき、その周りには「何もない」のでなく、「何か以外の未知の何か」があると考えることだと僕は思う。「使い道がない」という理由で放置されるなら、「使わない土地建物をどうするのか」という次の議論に進むべきだ。新たな使い道を考えるのは、その議論のほんの一部に過ぎない。僕の主張は、「使えない人に所有させていていいのか?」であり、「買い手がいないなら、もらい手を探すべき」という問題提起だ。だから今回の案件も、早速出会った協力者には、くれぐれも「使い方」を考える以前に、「この土地に興味があり、もらえるなら所有しても良いと思う人」をイメージし、誘って欲しいと依頼した。

 

多くの人にとって「土地の価値」は、そこがお金を生んだり、換金できることかも知れない。だが、「土地所有の価値」は、そこで暮らし、働き、何かを生み出すことのできる人生の価値だ。僕がこだわるのは「土地の放置」ではなく「土地所有の放置」に他ならない。「必要としない人」から「必要とする人」に引き継ぐことこそが、土地問題の「無から有」ではないだろうか。

国づくりのビジョン

僕は、新しい日本をつくり始めるために、このビジョンを描きました。

 

すでに皆さんご承知の通り、日本政府は当の昔に財政が破綻しています。

それなのにまだ、毎年数十兆円の借金を続けるのはなぜなのか。

それは、すでに日本の社会がそれ無しでは成り立たなくなっているからです。

様々な課題の原因を解消せず対症療法ばかりが繰り返され、社会の負担は増えるばかり。

そしてこの負担増が新たな雇用を生み出すという悪循環が続いています。

こうした問題への根本的な取り組みが開始されるのは、このままでいくと数十年先のことになるでしょう。

もちろん破たんは、もっと早く訪れるかもしれません。

でもその時、日本社会はどうなるのかなど、誰も知ったこっちゃありません。

僕の目には、そうとしか見えません。

 

僕がこのビジョンを伝えたいのは、地主の皆さんと、いずれ地主になりたいと願う市民の皆さんです。

日本という国家・政府が破たんしても、僕たちは国土と地域経済を守らなければなりません。

ところが、日本という国は、国土の経営がでたらめです。

一見立派なインフラが整備されていますが、今後の老朽化に対する負担はどうするのか。

世界で最も便利で安全な国と思われていますが、多くの土地や建物が放置された挙句、放棄が進んでいます。

国家の基本資源は国土であり、あらゆる資源の源泉です。

破たん後の日本を再生するためには、肝心な国土を保全し、そこから新たな経済を生み出さなければなりません。

したがって、大切なことは「国土=土地」の所有者が、新しい国づくりには欠かせないという現実です。

 

日本の破たんなど、もう待てません。

僕の提案は、国土の所有者が新しい日本を作り始めるプランです。

新しい日本と言っても、いきなり国を作るのではなく、各地に経済的に自立した地域を作ります。

ここでいう自立とは、国の支援や補助金を当てにせず、生活や仕事、そして遊びの場を確保することです。

そして、そこで営まれる生活や仕事そして遊びもまた、国の支援や補助金に依存してはいけません。

こうして、たとえ少しずつでも僕たち自身が国への依存をやめ、自立した地域社会を作ります。

僕たち自身が国への依存度を減らすことが、国の負担が減らす抜本的な解決策です。

そのためには、地主の皆さんの参加と土地資源の提供が、絶対に欠かせません。

なぜなら、不動産の賃貸収入がこの国の財源であり、未利用の土地や建物こそが新たなビジネスに欠かせない資源です。

 

新しい日本は、所有者という当事者が自分の意志と責任で判断する「独立国」を目指しましょう。

そしてすべての国民は、国土のどこかを所有する当事者となって、地域に所属しましょう。

もちろん地域を飛び出して、大いに世界=アウェイのビジネスに挑んで活躍してください。

でも戦いに敗れた時は、いつでも戻って休めるよう、地域=ホームは繁栄よりも永続性を優先します。

新しい日本は、それぞれに意思を持つ多様な地域が緩やかに集まって、形成されるでしょう。

そしてその政府は、個別の地域では解決できない問題だけを取り扱う、最小限で良いと思います。

 

大まかですが、こんなビジョンを描きました。

松村さんの話は長い・・・といつも叱られるので、今日はこれくらいにしておきます。

この続きは地域の当事者の皆さんと、ひざを突き合わせて語り合いたいと思います。

早速、世田谷の砧、千葉の御宿、埼玉の飯能などで、開始する予定です。

そして、すでに始めている皆さんともつながっていきたいです。

もう少し詳しく聞いてみたい人、議論したい人、大歓迎です。

あなたのお問い合わせを、楽しみにお待ちしています。

ハートを持った不動産

4月19日、結局〆切当日最終日に、ソーシャルイノベーションフォーラム2017へのエントリーを無事完了した。僕はこうしたビジネスコンテストの審査員や主催者にはなるものの、応募するのは今回初めてで、この1ヵ月はホントに辛かった。でも、応募したからと言って一息ついてはいられない。書類審査の結果を待つまでもなく、僕はこのプロジェクトに着手する。そこで、最初に何から始めようかと考えたが、まずは「ソーシャル不動産とは何なのか」を明確にするために、ソーシャル不動産の事例を集めたwebサイトを作ることにした。さっそくフェイスブックページを立ち上げ、記事を書こうとと思ったが、考えてみるとそんなページを作ったところで誰も見てくれるわけがない。そこで、ひとまずページはそのままにし、公開型のフェイスブックページを開設し、次のようなあいさつ文を書いてみた。

https://www.facebook.com/groups/social.land.project/

 

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ソーシャル不動産とは、所有者の願いを社会と共有する不動産のこと。ソーシャル不動産プロジェクトは、所有者が諦めたくない「土地に託した願い」を広く募り、社会に発信することで、その願いに賛同する市民を受け入れて、そこを放置不動産からチャレンジの場に変換する取組です。

このグループでは、下記の投稿をお待ちしています。

  • 土地や建物を活用できていない所有者の願い
  • 土地や建物をもっと活用したい所有者の願い
  • 土地や建物を引き継いで欲しい所有者の願い
  • 自由に使える土地や建物を探している利用者の願い

当初は、所有者自身が、願いを叶えるために、土地や建物を社会の開き、賛同・協力する市民を受入れている事例をご紹介するとともに、所有者の方をご招待いたします。

どなたでもご参加いただけるよう公開グループといたしましたので、奮ってご参加くださいますようお願いいたします。

2017年5月20日 日本土地資源協会 松村拓也」

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そして次に、今すぐに思いつくソーシャル不動産の事例を7件投稿したので、是非とものぞいて欲しい。

  • シェア奥沢
  • 笑恵館
  • 名栗の森オーナーシップクラブ
  • 砧むらおばちゃん会議
  • 荻窪レジデンス
  • ふくふくのいえ
  • 薪まきカフェ

これらの共通点は、その主宰者が土地の所有者であること。そして、土地や建物を開放し、市民の交流を促す場にしていることだ。これらのプロジェクトを並べて見て、「これこそずっとやりたかったことだ」と僕は改めて実感した。これらを確かにつなぐ言葉が「ソーシャル不動産」なんだと。

 

そして、これらのソーシャル不動産のオーナー諸氏を、このグループに招待した。どなたも、個別には親しくさせていただいている方ばかりだが、こうして一堂に会したところをぜひ見ていただきたい。また、これまでソーシャル不動産に関する意見を求めた方たちも併せて招待した。「ソーシャル不動産とは、このことだったのか」と感じ、僕がなぜこれらのプロジェクトをサポートするのかが、自ずとご理解いただければ幸いだ。

 

また、このメルマガを読んでくださる皆さんも、是非とも一度このサイトを見て欲しい。そして、同様なプロジェクトをご存じなら、気軽にご紹介願いたい。これから僕は、日本中のソーシャル不動産を探し出し、このサイトに乗せていきたいと思う。そして、いずれは全てを訪問し、皆さんと一緒に「さらに増殖していく仕掛け」を作り出したいと思う。

 

そして最後に、土地を持っていない皆さんにもお願いがある。もしもあなたが土地のオーナーになれたとしたら、何を実現したいかを知らせて欲しい。実は、多くの土地が所有者に願いを抱いてもらえずに放置されている。だからあなたの願いが必要だ。やがて、土地を持つ人も持たない人も、もっと多くの市民が土地や建物を使って叶えたい願いを発信し、語り合うことで、眠っている土地資源を覚醒し、みんなのチャレンジの場にしたい。ハートのカタチの日の丸は、「不動産がハートを持つ国」を象徴する。ソーシャル不動産プロジェクトは、みんなのハートを熱くするチャレンジだ。

社会の課題は開示せよ

「空き家問題」という言葉を聞いて、人々が頭に浮かべる「問題」は様々だ。そもそも「問題」という言葉は、物事にまつわる様々な課題の総称のようなものだ。つまり、何事に対しても「問題は何か?」といえば、必ず一つや二つ「課題という答え」があり、問題を解決するということは、それらの課題をすべて解決することだと思っていた。だが、それはどうなのか。そんなことは可能なのか。もしも不可能だとしたら、問題解決など不可能だということになってしまう。僕たちはできもしないことに挑んでいるのか。それとも、できなくてもいいから挑むべきだと考えているのか。

 

先ほども言ったとおり、問題とは課題の総称だ。だとすれば、解決すべきなのは課題の方であり、問題ではないと思う。「空き家問題」とは「空家にまつわる様々な課題」のことであり、言い換えると「様々な課題にどう答えるか」という問いかけだ。もしも空き家問題と言われる課題がA,B,C,Dの4つあったなら、AとBは法律で取り締まり、Cはもうしばらく様子を見て、Dは諦める。答えとは、こういう形でいいのではないかと僕は思う。そもそも問題は、「そのことを問題だと感じること」から生まれてくる。課題が発生しても解決されずに放置されると、やがてそのことが問題化する。したがって、先ほどの例のように、様々な課題にどのように対処するのかが大切であり、その顛末が答えとなる。

 

こうして考えていくと、問題とは「課題に対する対処がなされていないこと」ではないかと思えてきた。韓国で船が沈没して救助が遅れ、大勢の若者が亡くなる事件があったが、そこで問われるのは「なぜ救助が遅れたか」「なぜ船長が逃げたか」「なぜ船の整備を怠ったか」など、すべて人に起因する「人災」の部分ばかりだ。もしも悪天候だったり、津波だったり人間ではどうしようのない原因で船が沈んだとしたら、それを責める人はいない。人が責めるのも、悔やむのも、すべての対象は「人」のこと。だから、「空き家問題」もそこに関わる人たちが課題の発生と解消にどのように関わっているのか、そして、必要な対処が行われているのかいないのかを問題としていることになる。

 

空き家問題の中心人物は「所有者」であることは間違いない。それは、所有者こそが所有物に関するすべての権限を持つからだ。だが、所有者個人に全ての対処を求めるのは酷な話で、専門知識と専門技術を持つ人たちの協力が欠かせない。そこで、その人たちを使いこなし、対処するのが所有者の役割となるのだが、それはさらに難しいことなのは明白だ。そんなわけで、僕は所有者の支援をしようと思い立ち、日本土地資源協会を立ち上げた。これこそが空き家問題を解決する究極の対処法だと考えた。だが5年が経ち、その努力が実ったのは、笑恵館と名栗の森の2件だけで、他の数件はまだまだ未解決だ。そこで僕は、「空き家問題」の解消をはばむ「巨大な抜け穴」があるはずだと考えた。それが今日の本題だ。

 

「問題=課題解決がなされないこと」だとすれば、それは次のように分類できる。

  • 1.課題に気付かず、対処が始まっていない
  • 2.課題に気付いたが、まだ方法が判らず対処できない
  • 3.課題に気付いたが、何かの理由で故意に対処しない
  • 4.課題解決が難しく、諦めて対処しない
  • 5.・・・

と、ここまで書いたがやめた。これらの問題を抱える所有者が名乗り出て、助けを求めてくれなければ、僕にはどうすることもできない。ん?まてよ。それが「答え」だと、僕は一昨日気が付いた。

 

問題は、「所有者が助けを求めないこと」だ。困りごとを一人で抱えたために社会に迷惑や損害を与えるとしたら、それはその人の重大な責任となる。「空き家問題」とは、「せっかくの土地や家を使わないことで社会全体に損害をもたらす様々な課題」だと言い換えれば、相談相手は「社会」であり、対処法は「社会に相談すること」のはず。様々な理由で対処できずに現状を放置しているまさに「その状態」を、「何とかしたい」と願う思いを添えて社会に発信すれば、この問題は社会全体が共有する問題となる。この問題は、「社会の問題を、個人が抱え込んでいること」だった。だから、個人が自発的に開示することで、みんなが競って課題に挑むことができるようになる。よし、いいじゃないか。

 

僕は、これをプロジェクトにまとめて、今日日本財団に提出する。僕が応募するソーシャルイノベーターフォーラム2017には、500~1000件の応募がありそうなので、書類審査で落ちてしまうかも知れない。でも、このひと月、命を削る思いで考え抜いた結果、締め切り前にたどり着けた「万事を尽くして天命を待つ」という心境に、今の僕は本当に満足している。

余りと不足

 

空き家問題というと、家が余っている問題に思われる。確かに住宅は供給過剰で、賃貸住宅の2割が空いている。その結果、入居者の取り合い、家賃の暴落、賃貸事業の破たんなど、大家にとって受難の時代だ。だが、生活者の側から見れば、家賃が下がるのはいいことだし、大家の苦しみなどぜいたくな悩みにすぎず、結局大した問題にはならないだろう。しかし、使われないものが増え続け、それが大した問題にならないということ自体、相当おかしな状況だと思う。この状況の問題点が見えにくいこと自体、深刻な状況なのかもしれない。要らないものが増えている裏側で、必要なものが減っているとしたらどうだろう。必要なものがいらないものに変化しているとしたら、それは深刻な問題だ。

 

そもそも、家が余るのはなぜなのか。余った家がそのまま放置されているのはなぜなのか。本来、使われないものは捨てられるはずだが、家や土地は捨てられないからそこに残ってしまう。捨てられない土地は誰かに売るしかないのだが、買い手がつかなければ売ることもできずに余ってしまう。売れないのなら、誰かにあげればいいのだが、貰い手がいないので余ってしまう。つまり土地は、タダでも引き取り手のない「ゴミ」となってしまったのだろうか。そんなはずはない、いくら何でもタダなら引き取り手がいるはずだ。日本の土地なら中国人がどこでも買うという話を聞いたことがあるが、あながち嘘でもないだろう。だが、先日ある財団の方が「包括遺贈で寄付を受けた土地が売れなくて困っている」と話していたことを考えると、ただの土地すら余っているのが実情らしい。どうやら土地は本当に余っているらしい。だとすると、足りないのは土地の需要の方なのか。

 

土地を必要としている人は、確かにあまり見当たらない。笑恵館周辺の住宅地には、大きな邸宅がたくさんあるが、いずこも暮らしているのは高齢夫婦や単身者ばかりで、やがて相続が発生するとほとんど例外なく取り壊され小さな建売住宅が立ち並ぶ。相続人が大勢いたり、相続税が高かったり、いろいろ事情はあると思うが、でも、たとえ相続税を払えたとしても、そもそも古い大邸宅を誰も欲しいと思っていないのかもしれない。大きな家に住んでみたいと、心の中では思っても、実際には維持費も経費もかかる上に、手入れや掃除も大変だ。大家族で暮らすのでなければ、持て余すのは確実だ。すっかり高齢化した住宅街が、まさにそれを物語っている。世田谷ですらこうなのだから、さらに郊外や地方都市では大きな屋敷が余るのだろう。どんなに供給過剰と言われても、住宅ローンで買える建売住宅や、シンプルな賃貸住宅の方が求められているのが現実かも知れない。

 

それでは、大きな物件、不便な物件、古い物件など今余っている土地や建物は、かつては誰が必要としたのだろう。それは、その家の子供や奉公人などの家族が引き継いだり独立するのに必要だったはず。むしろ、昔の「家族」は会社に近い存在で、家が所有する土地や建物は長男が家督として引き継ぐことで、その分割や分散を防いできたほどだ。それが、家業を捨てて就職し、サラリーマン化することで大家族は核分裂し、勤め先と住まいも遠く離れて仕事場と住宅が完全に分離した。もはや、「地域で工夫して生きていく」ために不可欠だった「家賃のいらない自由な土地」は、無用の長物となりつつある。そういうことか。「家賃のいらない自由な土地」を必要とする人々こそが、今不足しているということか。

 

だとすれば、使わない土地を売らずに持っている人々は、そんなニーズを待っているのかもしれない。「どうかその土地を、私に使わせてください」という申し出を待っているのかもしれない。さもないと、土地は「売る」しかないのだが、所有者の望み通りに使ってくれる人が買ってくれるとは限らない。考えてみれば、大多数の土地は買ったのではなく祖先から譲り受けたもののはず。できればそれを売るのでなく、その場にふさわしい姿で使ってくれる人に「引き継ぎたい」と願うのは当然のことだ。土地は確かに余っている。だがその原因は、所有者が譲りたいと思う「もらい手」が不足しているのが原因なのではないだろうか。この問題を解決するには、「家賃のいらない自分の土地を自由に使いたい人」を広く募ることだ。「土地が欲しい」というニーズを高め、「土地不足」の状況を作らなければ、社会は動かないのではないかと思う。

持ち家と賃貸

土地所有について考察する中で、面白いデータを見つけた。我が国の持ち家世帯率は約6割で、高齢者になるほど高いのだが、このグラフは1978年から5年毎の変化を世代別に示したものだ。

 

ここで興味深いのは、

①60代後半以上は増加しているのに、

②40代前半から60代前半までは減少が続いていること、そして、

③20代後半から30代後半では減少の勢いが止まっており、

④25歳未満に至っては増加に転じている

ということだ。持ち家以外の世帯は大部分が賃貸住宅に住んでいるので、持ち家率の減少は賃貸率の増加とみてよい。だとすれば、②40代前半から60代前半までの「働き盛り世代」の世帯だけの賃貸率が、増加しているということになる。低金利の現在では、同程度の住まいなら家賃よりも住宅ローンの返済の方が安くなる。30代以下の持ち家率が増えている、つまり購入が増えているのはそのせいだと思われる。だが、それでもなお「働き盛り世代」の賃貸比率が増え続けるのはどうしてなのか。

 

賃貸住宅のメリットは、住宅に拘束されないことだ。ひとたび持ち家で暮らし始めると、引っ越しのたびに売却するわけにもいかず、移動の多い世帯には負担となる。したがって、持ち家は移動の少ない世帯、賃貸は移動の多い世帯に向いていると言ってもよい。移動の主な理由を「転勤」と考えると、勤務先が「広域ビジネス」か、「地域ビジネス」の違いに起因するだろう。この関係を整理してみると、次のようになる。

【持ち家:地域ビジネス】

  • 事業規模は小型で価格競争力は弱いが、移動が少なく少量多品種のサービスが可能。
  • 継続優先、定着型のビジネスなので、職住接近が可能で大家族向き。

【賃 貸:広域ビジネス】

  • 事業規模は大型で移動が多いが、大量少品種のサービスで高収益を確保。
  • 収益優先、移動型のビジネスなので、職住分離で少人数家族になりがち。

 

この分析は若干乱暴な議論かも知れないが、決して的外れだとは思えない。高齢者の持ち家比率増加が頭打ちになったのは、退職金の支給に連動するものだと考えられるし、若者たちの賃貸率が上がらないのは、大企業離れや就労の非正規化に加え、公務員など地域業種を志向する影響かも知れない。そして、相変わらず大企業志向で仕事漬けになっていて、地域社会を顧みないのが働き盛りの世代という構図だ。ここ数年、都会を離れ住宅街の中でご近所と顔を合わせながら仕事をしている僕から見ると、これは実感とよく符合する。さらには「親世代」が地域に根差していないため、若者世帯が孤立を深めているようにも思える。ライフスタイルが世代間ギャップを生むほどに異なるトレンドを持つせいで、社会のひずみが生まれている。もっと多様で大らかな流れになれば、社会は一過性の無駄なコストを負担せずに済むはずだ。

 

そこで、地域ビジネスの比率を上げることでこの歪みを解消できるのではないかと僕は思う。グローバルな大規模ビジネスは、少人数で大量のサービスを実現するのだから、むしろ大多数の人たちは、ローカルな小ビジネスに従事せざるを得ないはずだ。価格は割高になるだろうが、その地域に行かなければ得られない独自のサービスになるはずだ。いま日本に押し寄せる外国人たちは、そんなサービスを求めてやってくる。観光とは本来、地域の風俗や文化に触れるためにわざわざ旅をすることだ。だから、地域の風土や風習と長く寄り添ってきた長寿ビジネスにこそかけがえのない価値がある。ローマもパリ、そして京都の価値は「古いこと」に他ならない。ビジネスに継続を求めることは、僕ら自身が地域を担う老舗を目指すことだと言えないだろうか。

 

今日本には、放置された土着の風土と、作りすぎて余っている賃貸不動産在庫と、後継者育成を諦め廃業の日を待つ老舗の暖簾があふれている。だが、収益を生まない余剰資産に価値はないはずなのに、多くの所有者が手放さずにいるのは、できればこれを活かしてくれる誰かに託したいと願うからではないだろうか。儲からない資産に価値は無いが、使われない資源が価値を生むはずがない。資源のない国だなんてとんでもない、日本は世界でも類のないインフラと自然と文化を併せ持つ「土地資源大国」だと僕は思う。ただ今は、大いびきをかいて熟睡している。ぬるま湯に漬かりながら寝てるので、すべって沈めば溺死だってしかねない。そうなる前に、僕はこいつを叩き起こしたい。寝ぼけた日本が覚醒し、資源大国となる未来を描きたい。

家族は家賃を払わない

今、笑恵館でちょっとした問題が起きている。オーナーのTさんが、アパートに住む新婚夫婦に対し「もうじき赤ちゃんが生まれるんだから、もっと広くて安いアパートを紹介する」と退去を勧めているのだ。当の入居者は「どうしてTさんは僕たちを追い出そうとするんだろう」とすっかり困惑しているので、「親身だからこそ言ってるんだから、よく話し合えばいい」となだめるのだが、「僕らはTさんと一緒に暮らしたいと願うのに、それに、笑恵館は施設全部を自分の家のように使えるから、少しくらい広くて安くても他所が得とは思えない」と言われると、確かにそうだと納得してしまう。実際、笑恵館の入居者たちは、「部屋の家賃を払っている」というより「笑恵館の維持費を応分に負担している」という感覚なのかもしれない。そこで今日は、家賃について少し考えたい。

 

そもそも家賃とは、一体何に対する対価だろう。確定申告の際、家賃収入から差し引かれる経費としては、固定資産税、火災保険料、修繕費、減価償却費、管理経費などがあげられるので、それ等を差し引いた残りが所有者の利益となる。だが、もしも家族なら、家賃は取られないし、社員から家賃を取る会社なども聞いたことが無い。たとえ社員や家族などの「身内」だろうと、さっきの費用は掛かっているはずなのに、それすら取らないということは、まさにそれが「身内の条件」なのかもしれない。

 

そこで今度は、家賃を取らない「関係」について考えてみる。まず考えられるのは「相殺関係」で、家賃をとっても、その分こちらから支給するから差し引きゼロとなる考え方。社員には給料を支払うし、家族は扶養しているので、家賃分を差し引いたと考えた方が手っ取り早い。次に考えられるのは「共有関係」で、身内は所有者の一員だから、家賃を請求する相手ではないという考え方。笑恵館では、入居者たちが自分の家と思って暮らすという意味でこの考え方に近い。そしてもう一つは「協業関係」で、一緒に働く仲間から家賃は取らないという考え方。会社の社員や事業パートナーは、この考え方に近いと思う。

 

これらの関係と比較して、血縁関係はどうだろう。扶養も同居もしていない親戚がある日突然やってきて、身内なんだからこの家にタダで住まわせてほしいと言われても、快く受け容れられるとは思えない。「めったに会わない親戚より、近所の他人と親しく暮らす」とはまさにこのことだ。私たちが必要とする身内とは、血縁関係よりも、「家賃を請求しない関係」かも知れない。Tさんが「高い家賃を払うな」と言っているのも、入居者が「高いと思わない」と言っているのも、家族が家賃を求めないことの表れだ。だとすればなぜ、私たちはもっと家賃を払わない関係づくりに取り組まないのだろう。なぜ、家賃を払う関係に甘んじているのだろう。

 

家賃を払わない関係が身内なら、家賃は無関係な「他人であることに対する対価」ともいえる。そもそも土地は、他人に貸すためのものでなく、自分が自由に使うためのものだったはず。土地は使わなければ収益を生むことはできない。だから昔は土地を継承したのではなく、土地を使った事業を継承したのだと思う。ところが後継者を失い、事業が継続できなくなると、他人に賃貸するようになる。相殺関係(雇用や扶養)や共有関係そして協業関係のいずれも無ければ、家賃をもらうしか存続の手立てはない。一方、借り手(利用者)側も所有者との関係を気にせず土地を利用するには、家賃を払って他人でいる必要がある。

 

こうして利用者は、家賃を払うことにより所有者の身内になるという制約から逃れ、自由に土地を使うことができる。だがその自由は、所有者が他人に対して許容する極めて限定的な自由だということを忘れがちだ。それはさながら、柵の中でおとなしくしていることが前提の自由だ。少しでも柵を越えたければ、その都度所有者の許可を得なければならない。多くの人が、縮こまることで自由を得たつもりになっている。与えられたものに慣れてしまい、いつしかそれが全てと勘違いしている。

 

むしろ僕は、所有者の懐に飛び込み身内になることで、所有者としての絶対的な自由を手に入れるべきだと思う。そのためには所有者の声を聴き、願いを叶える方向を目指す必要があるが、その先には、360度の自由が待っている。それは、小さな囲いの中で家賃の対価として与えられる自由とは比べ物にならないことを、僕は笑恵館で目撃している。アパートの入居者をわが子のように巣立たせようとするオーナーと、他人でも家族として暮らしていきたいと望む入居者たちのせめぎ合いから、まだしばらくは目が離せそうにない。