明治維新は日本の近代化を招いた革命と言われるが、革命の当事者たちは明治政府を作り、政治家、役人、実業家となった。そして、文明開化と呼ばれる近代化に着手し、富国強兵にまい進した。だが一方で、全国には江戸時代から存在する自然発生的な地縁共同体としての町村が、生活の基本となっていた。当初、明治政府はこれと無関係に大区小区制を敷いたり、5町村程度を管轄する戸長役場を置いたりしたが、行政執行に適した規模の町村の再編が必要となった。

 

そこで、明治政府は1888年(明治21年)に市制及び町村制を公布し、各地方長官に町村合併の推進を指示した。おおむね小学校1校の区域となる約300戸から500戸が町村の標準規模とされ、町村数は1888年(明治21年)末の71,314から1889年(明治22年)末には約5分の1の15,820に減少した。この明治の大合併を経て、地縁共同体だった町村は近代的な意味で地域を行政統治するための地方公共団体に変貌したが、その実態は地主から役所への権限の移行だった。

 

大合併以前の地縁共同体とは、農耕中心の封建的な地域組織で、地主が中心的役割を果たしていた。「村八分」という言葉にある通り、どんな不始末をしても協力する「火事と葬式」以外にも、成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行などの交流を共同体は担っていた。したがって、大きな合併を経ていない小規模町村においては現代に至るまで江戸時代からの地縁性が残っており、当時の様子をうかがい知ることができるとともに、その二重性が欧米に対する日本の町村の特徴となっているようだ。

 

いずれにせよ、役所ができる以前の地域社会を仕切っていたのは所有者である地主だった。当時はまだ電気や水道は無く、食糧の流通や販売も行われる以前なので、エネルギーや食糧を自給する経済単位としてすべての共同体が独立していた。これは日本の共同体だけでなく、すべての地域、すべての国がそうだった。現在日本の都道府県が、かつて藩だったころも、幕府から補助金や交付金があったはずも無いので、すべての藩が経済的に自立していた。国や地域を統治する者は、その所有者を統治するか、所有者自身だったはず。つまり、土地の所有権とは、その土地を統治する力と理解していいと思う。

 

やがて全国で産業が振興し、教育が普及すると、農耕や林業などの地縁産業や封建時代における長男優先の家制度、そして地縁共同体そのもののしがらみから脱却するものが増えてくる。行政サービスは誰に対しても平等で、地域社会と関わらなくても村八分など行われないので、都市化が進むにつれて個人を尊重する民主主義が確立した。このように、地域社会の統治者が地主から役所へ移行することで封建主義から民主主義への移行が実現したと言えるだろう。

 

一方地主の立場にしてみれば、地縁共同体における地主の権力や利権は次第に失われたが、同時に地縁共同体に対する責任や負担も解消され、地主は自由な富裕市民へと変化できたと言える。そして、開発に伴う土地の需要が高まり、土地売却や事業経営による収益を得るようになり、土地を永続的に継承せずとも、財を築く土地所有者が現れた。こうなると、地主の社会的な地位は低くなり、むしろ事業家としての地位を高めたいと願うようになるだろう。こうして「地主」としての社会的役割は次第に忘れられ、土地所有者の役割は事業における「売主」、「貸主」、「開発主」、「大家」などに変化した。

 

そして、地主から地域経営を引き継いだ行政は、政府の富国強兵を実現すべく、挙国一致体制の構築にまい進した。地域の自立や独自性は抹殺され、全国民を戦争へと駆り立てていった。