明治維新は、社会の改革だけでなく、民間の会社を生み出す改革でもあった。もちろん当初は、明治政府が主導して国営企業の創設や都市の整備に取り組んだ。まずは黒船に脅されて締結してしまった不平等条約の下で、海外との交易をおこなわなければならない。西欧の進んだ技術を買うばかりでなく、輸出を行うため、まずは全国に桑若しくは茶を植えて、養蚕と製茶を中心に輸出産業を育成した。養蚕は江戸時代に中国からの輸入品に対抗して品質改良がなされ、幕末にその技術が成熟したころ開国を迎え、富国強兵の原動力になったと言われる。茶は明治15年には生産量の実に82%が輸出に供されており、その輸出先は、大半がアメリカ合衆国であった。地主はこうした農林業を支配しており、第1次産業の担い手になりつつあった。

 

こうした産業の近代化のため、明治政府は1872年(明治5年)に田畑永代売買禁止令を解き、農作以外の土地利用を正式に解禁し、翌年には財源確保のための「地租改正(土地の価値に見合った税を所有者から金銭で納めさせる全国統一の課税制度)」を施行した。これにより、課税対象を収穫高から地価にして、耕作者から年貢を物納させるのでなく、土地の所有者つまり地主から税金を金納させるように変更した。先ほど説明した地主から町村に移行した権限とは、まさに年貢を取り立てる役目のことだったが、税率は3%と定められ、明治政府の主要な収入源となり、地主には大切な納税者としての地位が与えられた。

 

土地の所有権が法的に証明され、個人財産としての価値が認められた上に、土地を担保とした賃借に関する法整備も進んだので、担保価値や販売用として土地取引が盛んになった。結果、それまで田舎の集落を経営していた地主たちも、都市開発に参入するようになった。都市部は町村とは別の市制による整備がすすめられていたが、当時の人口順リストを見ると、都市部であった市の規模がイメージできる。

 

人口1万人以上市区町村現住人口(明治22年12月31日調)

地主の立場にしてみれば、地縁共同体における地主の権力や利権は次第に失われたが、同時に地縁共同体に対する責任や負担も解消され、自由な富裕市民へと変化できたと言える。そして、開発に伴う土地の需要が高まり、土地売却や事業経営による収益を得るようになり、土地を永続的に継承せずとも、財を築く土地所有者が現れた。こうなると、地主の社会的な地位は低くなり、むしろ事業家としての地位を高めたいと願うようになるだろう。

 

また一方で、大日本帝国憲法第22条に「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ居住及移転ノ自由ヲ有ス」を定められた。全国で産業が振興し、教育が普及すると、農耕や林業などの地縁産業や封建時代における長男優先の家制度、そして地縁共同体そのもののしがらみから脱却するものが増えてくる。地域社会と関わらなければ、村八分など行われないので、都市は個人を尊重する民主主義を育む場所と位置付けられたが、日本は次第に戦争を繰り返すようになり、封建主義から抜け出す人は帝国主義に向かうことになる。

 

そして、第二次世界大戦の敗戦により、日本の主要な都市は破壊され、経済も壊滅状態となった。それに加えてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の介入も受けながら、非軍事化、民主化と並んで1947年から農地改革が断行された。これは、大地主から強制的に土地を買い上げて小作人に分配することで、大地主に経済的に隷属する状況から小作人を解放する政策。民主主義を根付かせることには確かに寄与したが、自作農となった農民がプチ地主となって農村の保守化をもたらした。また、北海道以外では大規模農業事業が困難となり、農業の競争力は極度に低下して食料自給率低下に拍車をかけたと言われている。

 

しかし、農業政策の失敗は、皮肉にも多くの出稼ぎ労働力を生み出し、戦後の復興から始まった建設ラッシュを支えることとなった。農地改革で分配された農地を、離農する小作人たちが売却し、その土地と生命保険を担保にした住宅ローンが資金を生み出す錬金術がフル稼働し、日本の戦後復興と、それに続く高度成長の原動力となった。政府も建設産業を雇用の受け皿とすべく育成する政策として最大限の公共工事を発注した。その結果、建設の目的は国民に必要な施設の整備ではなく、建設業を育成する市場拡大となり、本来事業者になるはずの地主が、不動産商品の購入者や、建設工事の発注者、不動産経営の依頼者など、建設・不動産業の顧客として位置づけられた。