自由競争の結果地域格差は拡大し、活力を失った地域から自治体が撤退を開始した。自治体が業務遂行のために健全な財政を維持するには、地域に居住する住民や企業からの税収が必要だが、少子高齢化などにより地域の活力が失われれば、合併による生き残りを図らざるを得ない。町村合併で吸収される側の地域では、役所が出先の出張所となり、地域社会の中心地が僻地に転落する。企業でいえば、本社が営業所に格下げになったり、店舗が縮小したり撤退するのと同じことだ。

 

平成の大合併は、2005年をピークとする市町村の大合併で、3200ほどあった自治体数が1700程度に減少した。国の目標は1000程度というが、到底届きそうにない。総務省の説明によれば「経済成長の反面、東京一極集中が進み、国民の生活形態や意識も多様化し、特に、これまで地域で支え合いの機能をもっていた、家族やコミュニティが大きく変容し、公共サービスの担い手としての市町村に対する負荷が増大してきた。加えて、これまでのような右肩上がりの経済成長が期待できない中で人口減尐・尐子高齢化が進展し、国・地方を通じた巨額の債務等の深刻な財政状況下において、複雑・多様化する住民サービスを提供しなければならないなど、市町村を取り巻く環境は厳しさを増してきた。」とあり、大合併の目的が「行政の合理化」であることに異論はないが、その実情が行政の破たん回避だとすれば問題だ。

 

民間企業の合併であれば、それは大胆なリストラを伴うが、自治体の合併は誰一人として解雇せず、待遇も最高のレベルで統一し、人員削減はもっぱら雇用調整で行われる。以前夕張市が破たんした際、内閣府にお口添えをいただいて、再生計画作成の支援に訪問したことがあるが、その時北海道の労組の幹部がお越しになり、私の話を熱心に聞いていたことを思い出す。当時夕張市役所では、300人の職員のうち150名が退職を希望していた。公務員の退職金は、別口で支給されるのだが、雇用保険の無い彼らにとって失職はそのまま路頭に迷うこと。労組としては、何の救済もできず、自治体の破たんは恐ろしいという。だからこそ、夕張市に対し総務省は厳しく対応し、現在も苦しい戦いの最中だ。役所に倒産や再生は許されない。

 

行政の合理化が目的なら、究極の理想は一元化のはず。役所が減っても地域が減らないというのなら、役所は一つにしてしまえばいいはずだ。昨今話題のAIを活用すれば、やがて行政サービスは機械化されるかもしれないし、すでにヨーロッパのエストニアでは、ブロックチェーンを活用してすべての行政サービスの99%が電子化され、24時間年中無休で利用できるという。だが、日本でそれができないのは、行政サービスに地域性が求められている証拠。例えば、学校の統廃合により、地域の学校が無くなってしまうと、子どもたちは地域のこと中心に据えた教育を受けられなくなる上に、地域内で学ぶことすらできなくなり、地域への愛着や地域内での友情を育むこともできなくなる。高校や大学の無いまちから若者が巣立つのは止められないが、彼らのUターンや、新規のIターン者がいなくなれば、地域社会は確実に消滅する。

 

だとすれば、行政が地域サービスをどこまで担うべきなのか、考え直す必要がある。地方創生や福祉医療に湯水のように公的資金を投じているが、少なくとも赤字国債に相当する30兆円程度は、即刻やめて民営化しなければならない。今や世界をつなぐ情報や流通サービスは、インターネットや宅配便など民間ビジネスが担っている。こうしたサービスを活用すれば、先ほどの教育においても共通部分は行政の力を必要としない。義務教育の範囲を一元化し、地域の独自な教育を解禁するのは難しいことではない。もしも行政の業務縮小が進まないのが、公務員をリストラできないためならば、民間事業者への天下りを促進しても構わないと私は思う。

 

町村数の目標値1000が実現しないのは、すでに合併の限度や抵抗の表れだ。自治体の合併が地域の自立を損なわないのなら、こんな抵抗があるはずも無く、地域社会はすっかり自治体に依存しているのが現実だ。だが、それは無理もない、明治の大合併で、役所が地主から地域経営を引き継いだ時から130年が経過しているのだから。だがもしも、これから市民が地域経営を担うなら、土地所有者は外せない。役所と交渉できるのは道路や公園などの公有地だけで、残りの民有地では土地所有者の承諾なくして何もできない。私たちが暮らし働くことができるのは、公有地でなく民有地だ。土地所有者こそが、民有地の王様だということを忘れてはならない。