地主を変えた外的な革命の成功部分を、社会と会社の両面から論じてみた。お気づきだと思うが、あえて社会と会社という言葉を使ったのには意味がある。普通人間は、家族と呼ばれる群れを作って生きているが、さらに家族が集まって、二つの大きな群れを生み出した。一つは社会という群れで、生き延びるために助け合う。もう一つは会社という群れで、欲望を満たすために協力し合う。人間は自分が一番幸せになりたいという欲望を持っているが、それだけだと互いの欲望がぶつかり合い、かえって不幸を招くので、誰もが最低限幸せになるように工夫する。基本的人権など、社会は最低レベルを確保するが、顧客満足など、会社は最高レベルを追求する。

 

社会が求める最低レベルは滅びないで生き続けること。地主の時代は1000年以上続いたので、とりあえずよく頑張ったと思う。一方会社に求めることは、夢を追求すること。これはすぐには答えられないので後で述べることにする。ただ、ここで忘れていけないのは、評価の目的は「脱地主の革命の失敗」を見つけることだ。そこで、すぐに見つからなければ改革の結果を反転し、それが成功かどうかを考えよう。では早速、明治維新以後の変革を分類ごとに評価してみよう。

 

まず、社会の変化としては、地主の役割を市町村などの自治体が引き継いだことだ。第二次世界大戦など、不幸な時代も確かにあったが、その後は見事に復興し、世界有数の豊かな社会を実現した。だが、社会が果たさなければならないのは、発展や成功以前に継続だ。どんなに繁栄しても、滅びてしまったら意味がない。その点日本社会はどうだろう。地方自治体の歴史を振り返ると、それは合併による減少の歴史だった。エストニアのように、将来はすべての行政サービスを1か所で片づけるのも夢ではないので、自治体を減らすことは良いことだと言われている。だがそれに伴い、地域社会も減らしていいのか、地域社会の数は少ない方が良いのだろうか。

 

明治の大合併では300戸以下の小さな集落が合併の対象となり55000の集落が消えたのだが、これは逆に言えば、300戸以下の小さな集落が55000も自立していたことになる。電気ガスや自動車も電話も無い時代だからこそ、小さな村が自給自足できたという意見もあるかも知れないが、今の技術は自給自足や小集落のために考えられているだろうか。むしろ、世界を一律に一括管理する技術ばかりが先行し、それを良いことだと言っているに過ぎない。住民が自主的に作るアメリカの自治体は、ほとんどが合併などせずむしろ増えているという話を聞くと、なんだかワクワクしてくる。

 

そして、会社の変化としては、地主を顧客とするサービス産業が充実し、地主は楽に夢を叶えるようになってきた。地主はサービスごとに投資家、大家、売主、建て主などの名称で呼ばれ、もはや地主と呼ばれることはほとんどない。夢は自分で描くのでなく、サービスや商品の中から選ぶだけ。本当に満足の行くものがあるかどうかは判らない。なので、そこに満足のいくものがあり、地主は楽に夢を叶えられるようになったとしたらどうだろう。それはむしろ失敗に思える。楽とは何もしないで済むことで、買うとは金を払ってやってもらうことなので、それで満足するようでは、誰も考えない願いを描くことすらできないと思う。

 

だが、それは無理もない、明治の大合併で役所に地域経営を引き継いだ時すでに、地租改正により年貢の物納が金納に代わり、現物から金銭への移行は始まっている。お金は夢を買うための道具であり、お金自身が夢ではない。食べるのは米であって、お金は食べられない。昔の地主が夢を追求したかどうかは定かでないが、お金が無かった時代には自分で夢を描くしかない。つまり、昔の地主は少なくとも自分で夢を描いたことになる。だが、とりあえずお金を稼ぐだけなら夢を描く必要はない。お金は夢を先送りする便利な道具でもある。やがて夢という商品が充実し、夢は会社から買うモノになったのだろう。

 

土地の所有者が、地域の運営を自分で行わず社会に任せ、夢を自分で描かずに会社に任せている状態は、すでに自立から遠ざかる依存体質と呼べるだろう。社会と会社が成功するなら、そこに依存できるかもしれないが、社会や会社が失敗するときは、依存を諦め自立するしかないだろう。もしも、これから市民が地域経営を担うなら、土地所有者は外せない。社会が自由にできるのは道路や公園などの公有地だけで、残りの民有地では土地所有者の承諾なくして何もできない。私たちが暮らし働くことができるのは、公有地でなく民有地だ。土地所有者こそが、民有地の王様だということを私たちは忘れてはならない。