地主を変えた内的な革命の成功部分を、相続と売買の両面から論じてみた。いずれもが、継承というしがらみから人々を開放することで、会社と社会の繁栄をもたらすこととなった。だが、しがらみからの開放には代償を伴った。相続は、継承を阻害するための相続税という税負担を負うようになったし、売買は、継承をせずに済ます自由な取引がもたらす損益というリスクを負うようになった。税負担は社会的責任を、事業リスクは会社的責任を意味するので、いずれもが自己責任による土地開放と言えるかもしれないが、本当にそうだろうか。

 

まず、税負担により社会的責任を負うという考え方は間違いではないと思うが、それは税収が社会的責任を果たす役割を担っているから言えること。目的税と言われるような、使途がはっきりしている税金でなく、たとえ公共投資や福祉財源など一般的な財源であっても、行政の適正な財源であればいいと思う。だが、日本の相続税は「日露戦争の戦費調達のため」として施行され、現在に至るまでその目的や使途について何の説明もなく、こんな税金が社会的責任などとは到底思えない。ましてや、戦前の制定時にはまだ家督相続が優先され、むしろ日露戦争だからこそ地主階級の愛国心をくすぐって同意を得られたのだと推測すれば、これは単なる戦費で終わらせるべきだと私は思う。

 

さらに戦後のシャウプ勧告に基づく相続税は、すでに所得税を補完する財産税のようなもの。江戸時代の地域経済の管理人的な地主の役割の継承を無視して、土地を売買価格に準じて課税しているのだから、売買でなく継承による無償の土地に適用するのは理不尽だと考える。周辺売買事例から勝手に評価した価格が6億円以上の土地ならば、55%の3億3千万円を納税しなければならず、その上その税収が国土の整備や土地活用に使われるわけでもないなんて、どう考えても納得できない。

 

一方、売買に伴う様々なリスクを自分で負うことが、購入者が継承を免れる代償だという考え方も間違いだとは思わないが、問題は購入者の方ではなく売却する側の責任だ。つまり、すべての責任を継承せず、むしろ手切れ金のような対価まで受け取るなんて、あまりにも無責任ではないだろうか。先ほど述べた管理人的な地主には、家族を扶養し、小作人を雇用することで、土地経営を存続させる責任がある。扶養や雇用はもちろんのこと、土地や地域の存続までも購入者の自由に任せているのが土地を売却するということだ。その理由は「継承者の不在」と言われるが、継承者の育成こそが地主の責任だ。

 

いま世界では耕作放棄の原因として天災・干ばつ・戦禍の3つが挙げられており、その原因が後継者不足などと言っているのは日本だけだ。むしろ福島での耕作放棄の原因として、原発と争うべきなのに、大きな責任を見過ごしていること自体が無責任ではないだろうか。だが、それは無理もない、社会も会社も劇的に変化を遂げたのに、江戸時代を踏襲して地主のしがらみを継承せよとは決して言えない。売買代金を手切れ金に例えたが、相続税を負担するのも財産を受け取る側なので、結果的に購入するのとよく似ている。

 

そもそも過去を踏襲するために継承するのは、過去を大切に思い、守りたいと望むから。これは、ユネスコの「世界無形文化遺産」の定義だ。自然や建物などの有形遺産なら、その科学的あるいは文化的価値を誰もが認めて保存するが、人間の営みである「無形文化」には、優劣など付けられないので価値という言葉を使わない。肝心なのは「大切に思う心」であり、継承とはすべてを引き継がなくても大切なものだけを引き継げばいいはずだ。それでは一体過去とは何だろう。私たちにとっての大事な過去とは何を指すのだろう。

 

実は今現在私たちがしていることは、やがてすべてが過去になる。過去を継承しようがしまいが、これからやることもすべてが過去になっていく。だとすると、私たちが今やっていることや、これからやろうとしていることを、未来に残したいと思わないのか。せっかく辛い過去から解放されたのなら、その自由を未来に継承したいと思わないのか。継承とは、過去を引き継ぐことと考えがちだが、同時に未来に伝えることであり、我々はすでに伝える側でもある訳だ。だとすれば、伝える内容が変わっても、伝える方法や仕組みについて過去を参照する価値があるのではないだろうか。