空き家の分類の中で、その他(用途がなく使われていないか分類不能)が39%を占めているが、一時利用でも売却用でも賃貸用でもないこれこそが、今問題化している空き家のことだ。使えるのに使わないのなら、売ればいいのに、貸せばいいのにそうせずにいるのはなぜなのか。もちろん売りたくても売れそうにない、貸したくても貸せそうにないと諦めている場合もあるだろう。だが、多くの場合は売りたくも貸したくもないから空き家になっており、その理由は家族が抱える様々な問題だ。

 

住宅の所有者は、法律上は誰か一人のはずだが、実際には家族全員の共有物だ。例えば夫が家の所有者であれば、妻にとってもそれは自分の家であり、子どもたちにとっても自分の家となる。さらに言えば、両親や親せきはもちろんのこと、場合によっては赤の他人でさえ、家族づきあいすることは可能だ。もちろんこれは法律などに基づく話ではなく、心情的、希望的な話に過ぎない。だが、面識も興味もない法律上の親族と、互いに支え合い信頼する他人とでは、後者を家族にして苦楽を分かち合いたいと思う人がいるだろう。結局家族とは、家を共有するメンバーのことを指す言葉だと私は思う。

 

自分一人だけでなく、家族と共有する家は、家族の同意なしに処分するわけにはいかない。子供たちが成長し、結婚して別居するようになり、老夫婦だけが取り残された住宅は、子供夫婦や孫たちとも共有している家となり、彼らの同意を得なければ心情的には売却できない。やがて老夫婦が入院したり施設に入れば、そこは空き家になってしまう。それでも、いずれ若夫婦が引っ越すか、孫世代が使うかも知れないと考えると、うかつに売却する気になれない。やがて老夫婦が他界して相続するころには、子供世代も高齢化して大きな住まいは負担となる。結局空き家は売却や賃貸に供されるが、賃貸用や売却用の空き家の仲間入りをするだけだ。

 

空き家の活用を阻むのも、家族の利用可能性や遺留品の取り扱いなど、結局家族の問題だ。同居せず、遠くに暮らす家族に対し、家の共有意識を捨てられないのは大家族への未練の表れかも知れない。だが、財産を共有するのは明らかに家制度の名残であり、そこには大きな矛盾がある。個人主義による個別相続と割り切って、すべての財産を分割してしまえば、こうした問題は起きないはずだが、今後ますます土地売却が難しくなることを考慮すると、土地の新たな共有方法を考える必要があるだろう。

 

また、すでに述べた通り空き家の増加は世帯数の増加によるものだ。地主の時代を支えた家制度が廃止され、地主が引き継いできた扶養義務から開放されると、家族の分割を止めることはできない。経済的に自立している人が、年老いても子供の世話にはなりたくないとか、子供に余計な負担をかけたくないと考えれば、世代ごとに世帯の分離や独立を奨励するのだろう。こうしたニーズに応えるため、政府は増え続ける介護や医療の財源を確保し、介護施設や老人ホームの充実を図っている。

 

一方で、こうしたサービスを受けられない貧しい世帯では、老々介護や独居老人の問題が深刻化している。社会の目指す方向は、あくまで財源を確保して扶養の義務からの開放を目指しているのだろう。だが、扶養家族を持たない家は世代ごとにその役割を終え、空き家となって処分を待つだけだし、扶養家族を持たない家族とは単身家族のことであり、そこにはすでに継承はあり得ない。扶養の必要があるのは子育てのみとなるが、それですら支援されるようになれば、すべての扶養義務から解放されるだろう。

 

家督の相続をやめた地主が、家族バラバラに相続し、相続を受けた家族がそれを繰り返している。あらためて、自分の家を分解せずに相続することを家族継承と呼ぶならば、結局、空き家を生み出す原因は家族継承であり、空き家が減らない原因も家族継承を望むためだと言えるだろう。脱地主革命は、家族の継承をやめることで、確かに自由と自立をもたらした。だがその成功は副作用のように住まわれない家の増加という失敗を伴い、扶養家族を持たない少人数世帯が増え多世代大家族が減る一方だ。住まわれない家を親しい他人にも提供せず、遠く離れた親族のために保存するようになることが、脱地主革命の目指した未来なのだろうか。