終戦直後から増加を始めた空き家は、放置しておくと様々な問題が生じることになる。2013年の「住宅・土地統計調査」の結果を受け、2014年には空き家特措法が制定され、悪質な空き家(特定空家等)を対象とする取り締まりが始まった。だが、それまでの間、なぜ空き家は問題視されなかったのか、あるいは空き家に伴う問題が顕在化しなかったのか。それは、所有者が周辺に配慮して、様々な対策を講じてきたからだ。だが、次第に対策が講じられなくなり、空き家の迷惑が社会問題化した。つまり、本当の問題は、空き家に関する迷惑以前に近隣社会への配慮が低下したことだと私は思う。

 

地域社会に迷惑をかけないための配慮とは、安全、衛生、景観など地域社会の価値を守るためであり、所有地がそれらの価値から恩恵を受けている証拠でもある。土地は単体で存在するのでなく、周囲の環境や周辺地との位置関係、そして主要力のアクセスなどでも評価される。したがって、周辺環境が損なわれるのは所有地の価値を損なうことであり、所有地が原因で周辺環境を損なうなどもってのほかという訳だ。だが、こうした配慮がなされなくなるのはなぜなのか、それは、周辺価値の恩恵の問題だ。周辺地域が衰退し恩恵が感じられなくなれば、周辺に対する配慮も無駄に思えるかもしれないし、逆に周辺からも配慮を求められなくなるかもしれない。

 

そもそも、地域社会の連帯や協力体制は明治維新まで地主が担ってきたことだ。したがって、脱地主の観点から言えば、土地所有者が近隣社会に対する配慮を怠るのは当然の結果と言えるだろう。むしろ、空き家問題への対応こそ地主の役割であったであろうし、現在でも近隣への配慮は地主時代の名残といっていいだろう。そして、空き家対策を受け持つ行政も、地主の役割を引き継いだものと理解してもいいと思う。だが、行政は所有者ではないため、個別の土地に関しては立ち入ることすらできずに関知もしない。結局民有地の放置や放棄に対しては、指をくわえて見守るだけだ。

 

こうして、地域社会の衰退と、空き家の増加という悪循環が起きるのは、土地の必要性そのものが低下しているせいでもある。脱地主により仕事や家族のしがらみから解放されたことで、大都市への極端な集中が進んだが、そのためにいつでも戻れる故郷のような拠点が不要となり、地域社会の衰退を加速している。すでに農業や林業など土地を介して自然から直接富を生み出す第一次産業から脱却した日本社会は、エネルギーや食糧の自給率向上を諦め、国際間の経済活動の中で調達する道を歩んでいる。都市部以外の大部分の地域は、自立や独立を目指すことなく、都市の活動を支えるインフラや、観光資源として大都市圏に組み込まれた存在価値を模索している。

 

一方、個人のレベルでも土地の必要性は薄れていく一方だ。相続や寄付のほとんどは土地の利用を継承したり、新たな利用を模索するのでなく、土地売却で得られる資金を対象としている。せっかく努力して土地を利活用してきても、それを誰にも継承してもらえず途方に暮れ、行政への寄付を申し出ても、行政は固定資産税を課せなくなるので民有地の寄付を受け付けない。それは、行政もまたバブル経済に浮かれて失敗を繰り返し、地主失格のレッテルを張られた前歴があるためかもしれない。

 

1997年(平成9年)に完成したスパウザ小田原は雇用保険料を財源に総工費445億円をかけて完成した豪華な保養施設だが、安価な料金が伊豆半島を中心とする地元の温泉街などから民業を圧迫するとの反発を受け、地元の小田原市にわずか8億5千万円で売却された。小田原市は地元経済に配慮して運営をヒルトンに委託し2004年(平成16年)に「ヒルトン小田原リゾート&スパ」としてオープンした。だが、経営不振のため4.3億円の賃料を免除することになったため、2015年(平成28年)までに土地と建物の大半をヒルトン・ワールドワイドに9億円程度で売却し、結局約2億円の固定資産税を課すことになった。

地域の取りまとめをやめた地主が、社会と会社に地域を任せ、土地を使うよりも売ることが優先されるようになりつつある。あらためて、周囲に配慮しながら土地を利用し続けることを地域継承と呼ぶならば、結局、空き家問題を生み出す原因は地域継承の放棄だと言えるだろう。脱地主革命は、地域継承をやめることで、確かに巨大な都市圏の実現をもたらした。だがその成功は副作用のように捨てられる家の増加という失敗を伴い、経済効率の悪い地域の荒廃が進む一方だ。捨てられる家を放置することで迷惑の元となり、地域の価値を下げることで売却すらできなくなることが、脱地主革命の目指した未来なのだろうか。