施設への案内図と施設内の利用図があれば、土地利用のイメージを伝えることができるが、それを実現するためには「規模」が必要だ。規模とは、長さや広さなどの寸法や、部屋やブースの数量、重さや明るさなどの様々な数値の他、入場料や利用料などの金額など、すべての数値を指す。たとえ位置関係や形状などが総体的に決まっても、人間の大きさや乗り物のスピードなどが絶対的に決まっているため、世界は規模の違いにより価値観が全く変わってしまう。例えば、オーストラリアの郊外にある郵便局は配達を行わず、全世帯分の私書箱のようなポストが並んでいて数十キロも離れたところから住民が郵便を取りに来る。そんなに不便でも住民たちが不平を言わないのはなぜかと言うと、次の郵便局があるまちまでは200キロ以上離れており、そこまで行くよりはずっとましだと言う。配達などしていたら、恐らく週に一度が限界で、それなら自分で取りに来た方がよほど早いという訳だ。

 

これは日本とオーストラリアの広さの違いによるものだが、規模の価値は時代変化にも影響される。農地改革が結果として日本の農業の衰退につながったのも、農地の細分化が機械化による農業の大規模化と逆行してしまったからだろう。その意味で、地主の時代と現在で日本の土地の広さを比較すると、一人当たりの広さは狭くなったが、すべてのエネルギーや水食糧を自給自足するためには、かなりの面積を必要としたはずだ。したがって、昔に比べれば現代の土地余りは当然の結果であり、喜ばしいと考えるべきだろう。だがその代償としてエネルギーや食糧の自給率は先進諸国中最下位で、さらに下がる一方だ。これがまず、日本全体を規模的数値で説明する現状だ。

 

土地の細分化が進んだ原因はもちろん土地売買だ。日本経済の発展と共に土地の価格は上昇したが、その上昇を支えたのが細分化だ。戸建て住宅の敷地面積を小さくするために今では3階建てが小型住宅のスタンダードとなり、マンションはますます高層化してタワーマンションは珍しくなくなった。マンションは容積率が大きければ大きな住戸を作れるが、土地の持ち分はその分減っていく。開発事業者にしてみれば販売戸数を増やさなければ収益を確保できないのだが、これは再開発事業などでも同様で、団地やマンションの建て替えは、戸数を増やすことで住民の負担を軽減している。したがって、容積率にゆとりをもって建てられたマンションならこうした建て替えが可能だが、次回はもうこの手は使えない。

 

土地はその規模に関係なく利用することは可能だが、土地で生産することや収益を上げることで生計を立てるとなると、ある程度の規模が必要になる。現代社会における生産性は確かに飛躍的な進歩を遂げたが、それは世界中の土地を効率よく使うグローバル経済が前提だ。誰もが自由に便利な場所に移動できるからこそ大都市やリゾート地が発達し、狭い土地でも高い生産や高収益を生み出すことができるようになったが、それはヒトやカネが集まるからであり、むしろ格差が拡大した。生産技術は巨大化と画一化によって効率化し、個別の土地だけで生産性を向上する自給自足的技術はあまり進歩していない。今後の進歩に期待するのはかまわないが、それまでの間必要となるのは、やはり土地の規模を確保することだと考えられる。

 

考えてみれば、土地の細分化はあくまで権利の細分化であり、実際の土地が切り刻まれているわけではない。たとえ権利はコマ切れでも、大きく活用することが可能になれば、良いわけだ。何百世帯も同居する巨大マンションや、何百戸も立ち並ぶニュータウンが一団の土地として連携すれば、様々な事業を起こせるし、大きな土地を相続した人たちが土地を仲良く共有すれば、分割・切り売りせずに活用できるかもしれない。つまり、どんな関係の人だって、小さな土地を活用できずに放置している人ならば、連携さえすれば土地を活用できるだろう。だとすれば、土地の所有権とはいかなるものか、それを個人が持て余すなら、どのような協力が可能なのかを考える必要があるだろう。