社会の課題は開示せよ

「空き家問題」という言葉を聞いて、人々が頭に浮かべる「問題」は様々だ。そもそも「問題」という言葉は、物事にまつわる様々な課題の総称のようなものだ。つまり、何事に対しても「問題は何か?」といえば、必ず一つや二つ「課題という答え」があり、問題を解決するということは、それらの課題をすべて解決することだと思っていた。だが、それはどうなのか。そんなことは可能なのか。もしも不可能だとしたら、問題解決など不可能だということになってしまう。僕たちはできもしないことに挑んでいるのか。それとも、できなくてもいいから挑むべきだと考えているのか。

先ほども言ったとおり、問題とは課題の総称だ。だとすれば、解決すべきなのは課題の方であり、問題ではないと思う。「空き家問題」とは「空家にまつわる様々な課題」のことであり、言い換えると「様々な課題にどう答えるか」という問いかけだ。もしも空き家問題と言われる課題がA,B,C,Dの4つあったなら、AとBは法律で取り締まり、Cはもうしばらく様子を見て、Dは諦める。答えとは、こういう形でいいのではないかと僕は思う。そもそも問題は、「そのことを問題だと感じること」から生まれてくる。課題が発生しても解決されずに放置されると、やがてそのことが問題化する。したがって、先ほどの例のように、様々な課題にどのように対処するのかが大切であり、その顛末が答えとなる。

こうして考えていくと、問題とは「課題に対する対処がなされていないこと」ではないかと思えてきた。韓国で船が沈没して救助が遅れ、大勢の若者が亡くなる事件があったが、そこで問われるのは「なぜ救助が遅れたか」「なぜ船長が逃げたか」「なぜ船の整備を怠ったか」など、すべて人に起因する「人災」の部分ばかりだ。もしも悪天候だったり、津波だったり人間ではどうしようのない原因で船が沈んだとしたら、それを責める人はいない。人が責めるのも、悔やむのも、すべての対象は「人」のこと。だから、「空き家問題」もそこに関わる人たちが課題の発生と解消にどのように関わっているのか、そして、必要な対処が行われているのかいないのかを問題としていることになる。

空き家問題の中心人物は「所有者」であることは間違いない。それは、所有者こそが所有物に関するすべての権限を持つからだ。だが、所有者個人に全ての対処を求めるのは酷な話で、専門知識と専門技術を持つ人たちの協力が欠かせない。そこで、その人たちを使いこなし、対処するのが所有者の役割となるのだが、それはさらに難しいことなのは明白だ。そんなわけで、僕は所有者の支援をしようと思い立ち、日本土地資源協会を立ち上げた。これこそが空き家問題を解決する究極の対処法だと考えた。だが5年が経ち、その努力が実ったのは、笑恵館と名栗の森の2件だけで、他の数件はまだまだ未解決だ。そこで僕は、「空き家問題」の解消をはばむ「巨大な抜け穴」があるはずだと考えた。それが今日の本題だ。

「問題=課題解決がなされないこと」だとすれば、それは次のように分類できる。

  • 1.課題に気付かず、対処が始まっていない
  • 2.課題に気付いたが、まだ方法が判らず対処できない
  • 3.課題に気付いたが、何かの理由で故意に対処しない
  • 4.課題解決が難しく、諦めて対処しない
  • 5.・・・

と、ここまで書いたがやめた。これらの問題を抱える所有者が名乗り出て、助けを求めてくれなければ、僕にはどうすることもできない。ん?まてよ。それが「答え」だと、僕は一昨日気が付いた。

問題は、「所有者が助けを求めないこと」だ。困りごとを一人で抱えたために社会に迷惑や損害を与えるとしたら、それはその人の重大な責任となる。「空き家問題」とは、「せっかくの土地や家を使わないことで社会全体に損害をもたらす様々な課題」だと言い換えれば、相談相手は「社会」であり、対処法は「社会に相談すること」のはず。様々な理由で対処できずに現状を放置しているまさに「その状態」を、「何とかしたい」と願う思いを添えて社会に発信すれば、この問題は社会全体が共有する問題となる。この問題は、「社会の問題を、個人が抱え込んでいること」だった。だから、個人が自発的に開示することで、みんなが競って課題に挑むことができるようになる。よし、いいじゃないか。

僕は、これをプロジェクトにまとめて、今日日本財団に提出する。僕が応募するソーシャルイノベーターフォーラム2017には、500~1000件の応募がありそうなので、書類審査で落ちてしまうかも知れない。でも、このひと月、命を削る思いで考え抜いた結果、締め切り前にたどり着けた「万事を尽くして天命を待つ」という心境に、今の僕は本当に満足している。