王の果たすべき責任

「殆どの人間は実のところ自由など求めてはいない。何故なら自由には責任が伴うからである。みんな責任を負うことを恐れているのだ」と言ったのはフロイトだそうだ。土地所有者が空き家を放置するのは、所有権があれば何でも自由にできるのに、それを怠る所有者が引き起こす問題だと思っていたが、「実は自由など求めていない」という言葉に僕は驚いた。僕が以前考えた「権利とは何か」という図の中に、まさに「権利とはやらなくてよい(放置の自由)」と書いてあったのを思い出した。もしかすると、空き家を生み出す原因は、所有権にあるのかもしれない。

地主の学校という本を書くうちに、日本における個人の土地所有権が、世界的に見ても最も強力で守られている権利だと判ってきた。それを象徴するのが土地売買で、外国人に土地を売れるのは世界で10か国程度しか存在しない。これほど強い所有権を持っているのだから、みんなで王様になった気分で土地を使った国づくりをやろうと僕は訴えた。だが、フロイトの言葉はそうはいかないことを教えてくれた。ここに来て僕は、根本的に考え直さなければならないのだろうか。

日本の地主が現在の所有権を手に入れたのは明治6年の地租改正だ。この時地主は、それまでの年貢とりまとめ役から納税者に変わり、土地の資産価値が法的にも認められ、初めて自由に売買できるようになった。それ以前も売買できなかったわけではないが、社会にお金が流通していないため売買はほとんど存在しなかった。そして地主は封建社会の支配者のように思えるが、実際領主から一番束縛されていたのは地主であり、地主は土地を放置したり放棄することなど、許されるはずがなかった。つまり、地主は所有の権利より義務に縛られる「土地を使わなければならない人」のことで、それが所有権に変化することで「土地を使わなくてもいい人」になったと言える。

ヨーロッパでは、土地と領民は領主の「持ち物」だったが、日本の藩主は、幕府からその領地の「運営権」を任せられたに過ぎず、藩主が所有しているのは自分の住んでいる家と土地くらいだったらしい。さらに幕府自体も天皇から征夷大将軍という称号を与えられ、日本の運営を任されただけのこと。となると、当然地主はその下っ端で、地域の管理人に過ぎないはずだ。新しい領地を与えられた藩は、武力を持ってその新しい任地の運営にあたり、領地換えどころか、お取り潰しまであったのだから、廃藩置県の命令が中央政府から来たときに、抵抗もせずに領地を返上したのも頷ける。だからこそ、明治維新は「大政奉還」からスタートした世界でも類のない無血革命だ。もしも、西洋のように領地と領民をワンセットで「所有」していたら、自分の財産を簡単に手放すはずがないだろう。

だとすれば、僕が目指す「国づくり」は、正しい提案かも知れない。僕たちは、地主の義務から解放されて自由な権利を手に入れたのだから、地主から逃げ出す小作人ではないし、労働者とか中産階級と位置付けるのでなく、地主をも支配する王になることができる社会にしたい。そして、どうせ責任が伴うなら、僕は王の果たすべき責任に挑んでみたい。