家族は家賃を払わない

今、笑恵館でちょっとした問題が起きている。オーナーのTさんが、アパートに住む新婚夫婦に対し「もうじき赤ちゃんが生まれるんだから、もっと広くて安いアパートを紹介する」と退去を勧めているのだ。当の入居者は「どうしてTさんは僕たちを追い出そうとするんだろう」とすっかり困惑しているので、「親身だからこそ言ってるんだから、よく話し合えばいい」となだめるのだが、「僕らはTさんと一緒に暮らしたいと願うのに、それに、笑恵館は施設全部を自分の家のように使えるから、少しくらい広くて安くても他所が得とは思えない」と言われると、確かにそうだと納得してしまう。実際、笑恵館の入居者たちは、「部屋の家賃を払っている」というより「笑恵館の維持費を応分に負担している」という感覚なのかもしれない。そこで今日は、家賃について少し考えたい。

そもそも家賃とは、一体何に対する対価だろう。確定申告の際、家賃収入から差し引かれる経費としては、固定資産税、火災保険料、修繕費、減価償却費、管理経費などがあげられるので、それ等を差し引いた残りが所有者の利益となる。だが、もしも家族なら、家賃は取られないし、社員から家賃を取る会社なども聞いたことが無い。たとえ社員や家族などの「身内」だろうと、さっきの費用は掛かっているはずなのに、それすら取らないということは、まさにそれが「身内の条件」なのかもしれない。

そこで今度は、家賃を取らない「関係」について考えてみる。まず考えられるのは「相殺関係」で、家賃をとっても、その分こちらから支給するから差し引きゼロとなる考え方。社員には給料を支払うし、家族は扶養しているので、家賃分を差し引いたと考えた方が手っ取り早い。次に考えられるのは「共有関係」で、身内は所有者の一員だから、家賃を請求する相手ではないという考え方。笑恵館では、入居者たちが自分の家と思って暮らすという意味でこの考え方に近い。そしてもう一つは「協業関係」で、一緒に働く仲間から家賃は取らないという考え方。会社の社員や事業パートナーは、この考え方に近いと思う。

これらの関係と比較して、血縁関係はどうだろう。扶養も同居もしていない親戚がある日突然やってきて、身内なんだからこの家にタダで住まわせてほしいと言われても、快く受け容れられるとは思えない。「めったに会わない親戚より、近所の他人と親しく暮らす」とはまさにこのことだ。私たちが必要とする身内とは、血縁関係よりも、「家賃を請求しない関係」かも知れない。Tさんが「高い家賃を払うな」と言っているのも、入居者が「高いと思わない」と言っているのも、家族が家賃を求めないことの表れだ。だとすればなぜ、私たちはもっと家賃を払わない関係づくりに取り組まないのだろう。なぜ、家賃を払う関係に甘んじているのだろう。

家賃を払わない関係が身内なら、家賃は無関係な「他人であることに対する対価」ともいえる。そもそも土地は、他人に貸すためのものでなく、自分が自由に使うためのものだったはず。土地は使わなければ収益を生むことはできない。だから昔は土地を継承したのではなく、土地を使った事業を継承したのだと思う。ところが後継者を失い、事業が継続できなくなると、他人に賃貸するようになる。相殺関係(雇用や扶養)や共有関係そして協業関係のいずれも無ければ、家賃をもらうしか存続の手立てはない。一方、借り手(利用者)側も所有者との関係を気にせず土地を利用するには、家賃を払って他人でいる必要がある。

こうして利用者は、家賃を払うことにより所有者の身内になるという制約から逃れ、自由に土地を使うことができる。だがその自由は、所有者が他人に対して許容する極めて限定的な自由だということを忘れがちだ。それはさながら、柵の中でおとなしくしていることが前提の自由だ。少しでも柵を越えたければ、その都度所有者の許可を得なければならない。多くの人が、縮こまることで自由を得たつもりになっている。与えられたものに慣れてしまい、いつしかそれが全てと勘違いしている。

むしろ僕は、所有者の懐に飛び込み身内になることで、所有者としての絶対的な自由を手に入れるべきだと思う。そのためには所有者の声を聴き、願いを叶える方向を目指す必要があるが、その先には、360度の自由が待っている。それは、小さな囲いの中で家賃の対価として与えられる自由とは比べ物にならないことを、僕は笑恵館で目撃している。アパートの入居者をわが子のように巣立たせようとするオーナーと、他人でも家族として暮らしていきたいと望む入居者たちのせめぎ合いから、まだしばらくは目が離せそうにない。