僕は以前「失敗をしないように生きる気はない」と言ったことがある。会社を潰すとき、僕に必要だったのは「会社を潰さないためにはどうするか」ではなく「会社を潰すにはどうするか」だった。だが、僕はこれを心の中でずっと唱えている気がする。「失敗しないような生き方」は僕の中で悪いことになっている。だがこれが僕の目を濁らせていた。これはあくまで僕の選んだ生き方であって、僕の周囲や社会全般に当てはめるのは間違いだ。この考えを「悪」と決めることこそが、僕にとっての「悪」のはず。地主の学校を書いていて、僕はこのことに気が付いた。本題から少し外れるので、ここに書いておきたい。
「成功するようにする」と、「失敗をしないようにする」とは、言い換えると「成功の許可」と「失敗の禁止」のことであり、「成功はしてもいい」けど「失敗はしてはならない」という意味だ。成功「してもいい」ということは「しなくてもいい」ということで、成功の確証はどこにも無い。だが、考えてみると、成功とはそんなもの。「成功しなければならない」とか、「成功するべきだ」などと言われると、何か違和感を感じてしまう。これに対し、「してはならない」とは「しなければいい」であり、誰にでもできること。だから、「成功はしなくてもいい」と「失敗はしなければいい」と言い換えると、誰にでもできる気がしてくる。
僕がこんなことを考えたのは、「シンガポールの駐車違反」のエピソードを書いた時だ。僕は今年の1月にシンガポールに行ってきたが、シンガポールの道路には路上駐車が1台も見当たらなかった。もちろん旧市街の一部には道路に駐車スペースが書いてあり、車もバイクもきちんと路上駐車していたが、それ以外の路上に違法駐車をしている車は1台もいなかった。シンガポールの取り締まりが厳しいのは有名だが、東京だってかなり厳しいし、罰金だって高額なのに、東京は至る所で違法駐車だらけだ。そこで、なぜシンガポールでは路上駐車がいないのかを調べたところ、「国民にはすべての車線を安全に使える権利があるので、路上駐車は禁止する」ということだった。なあんだ、そんなことかと思ったが、それは日本だって同じこと。なのになぜ、日本では路上駐車が無くならないのだろう。
先週このブログで「最高の最低」と題し、最低の権利を高めたいという話をしたが、僕たち自身の意識もかなり低い気がしてきた。路上駐車が無くならないということは、すべての車線を安全に使う権利より、警官の目を盗んで目的地の近くにタダで車を停める権利が優先されているわけだ。駐車違反に対する罰金は、警官の目を盗むいう成功に対する失敗だ。つまり、この場合の「失敗をしなければいい」は、「警官に見つからなければいい」になってしまっている。どうして「路上駐車をしなければいい」が、「警官に見つからなければいい」にすり替わってしまうのか。それはまさに先ほどの権利のすり替えが原因だ。シンガポールの「当たり前の答え」を聞いて、僕は権利のすり替えをしている自分に気が付いた。
失敗を無くすとは、誰もが成功できる最低のレベルを決め、それを下回る失敗を禁じるやり方だ。だとすると、そのレベルこそが権利であり、それを上回ることが成功だ。だから成功は失敗でない程度のぎりぎりクリアでも、大幅にクリアする大成功でもどちらでも構わない。つまり、権利とは成功することよりも失敗しないことであり、全ての人に与えられた「義務を果たす力」に思えてきた。そこで権利に必要なのは誰にでもできる「無料」であることだ。道路や公園を歩いたり、選挙の投票などは無料だが、それ以外の無料の権利はあまり見当たらない。義務教育の学校で給食費や教材費が払えない貧困家庭には、行くだけの権利しかない。ノルウェー、フィンランド、そしてドイツなら、留学生まで無料で学べるという。これは国が豊かという以前に、大学と公演が同じという意味だ。こうした権利のレベルことが国の魅力だと思う。だとすれば、何でも有料で値上がりばかりの日本はかなりレベルの低い国だ。
むしろ現代では、企業のサービスが無料化しており、企業が人々に権利を与えている。誰もが進んでweb検索するのは、無料で得だから使うのでなく、すでにそれが権利となり、それを行使することが暮らしの一部になっている。権利とは使わなくても構わないが、使えないようにすることは許されない。それを失敗と考えれば、それを禁止して義務にするべきだ。土地は使わなくても構わないが、誰にも使えないようにすることは許されるのだろうか。所有者にはそんな権利があるのだろうか。僕はそんな権利は失敗だと思う。そんな失敗はしないようにしたい。