永続性を作ること

Kさんの実家は高知県土佐市の山の中。空き家状態になってしまったため、地元の自治体の空き家バンクに登録して利用者を探していた。先日入居希望者との契約も済み、空き家バンクも捨てたものじゃないね、などと話していたのだが、「これって全然解決じゃないですよね」とKさんは言う。とりあえず、当面の「空き家化」は回避できたものの、今回の入居者は地元の人でいずれ実家に戻るらしい。その時はまた初めからやり直し、、、つまり、今回の入居は解決でなく先送りに過ぎないわけだ。だとすると、どうなる事が解決なのか、僕たちは土地資源をどうしたいというのだろう。

今回Kさんが土佐市の家を賃貸するのは、賃貸するのが目的ではなく、とりあえず誰かに住んでもらうことが目的だ。せっかく家があるのだから誰かに暮らして欲しいし、せっかく畑があるのだから誰かに耕して欲しいと思うのは、所有者の想いとして当然のことと思う。一方、空き家バンクの目的はあくまで移住の促進であって、空き家の活用ではない。しかし、この違いはあまり問題ではないようだ。少なくとも所有者、利用者、行政、仲介業者などのすべての関係者が、空き家を「古くて訳アリの不動産物件」と認識しているうちは。しかし、Kさんは違うことを考えている。「この家はこの先どうなるのだろうか」と。

土地のように永久に使うことのできる資源は他にはなかなか見当たらない。天変地異を除けば、使えるだけでなく、永久に減ることも移動することもない不変の資源だ。そこには太陽の光や雨や風が永久に無料で供給され、あらゆる命が育まれ、生活や活動の場を提供してくれる。間違いなく我々が生きていくのに不可欠かつ十分な資源だと思う。この資源を使わずに我々は本当に生きていけるのか。本当に資本主義経済だけで、貨幣経済だけで世界の全員が生きていけるのだろうか。

僕たちは、持続可能とか、循環型とか言葉では知っていても、実際にはほとんど実現できていない。それどころか、土地も建物も、家族も会社も、持続もしなければ循環もせず至る所で破たんしている。そしてその原因ははっきりしている。「誰もそれを目指していない」というのが僕の意見だ。昨今江戸のまちが循環型でエコな仕組みだったことが再評価されているが、非力な人間が生きるために自然と折り合いをつけるのは当然のことだ。しかし今や我々は高度な科学技術を持ち、自然に逆らいながら生きることができるようになってきた。ところが、全体の持続とバランスを制御しようという意識は極めて希薄で身の回りと目先のことしか考えられない。強者が弱者を食いつくす前に、新たなバランスを実現する地域だけが生き残ることになる・・・と僕は思う。

石川県羽咋市でOさんが所有する築400年の古民家も、空き家バンクに登録されているが、先般市役所を訪問した際にこちらの要望を伝え、僕が連絡窓口を引き受けることとなった。現在2件の問い合わせが来ているが、まずは現地を見ていただいてから、この古民家について、所有者の想いについて、そして周辺集落の未来について、近隣も巻き込みながら大いに語り合おうと画策している。現状では、この大切な話を誰もしようとせず、初めから諦めているとしか僕には思えない。田舎暮らしも近所付き合いも、そして都会との連携もすべてが生き残りをかけた知恵比べだ。「10年後、100年後を描きながら今を生きることこそ、最高にかっこいい」から始めてみたい。