みんなで地主

地主は明治維新で廃止され、言葉だけが名残として残っている。

「土地所有」という言葉が、明治維新の前後では全く違う意味なので、「地主≠土地所有者」を説明するのは一苦労だ。

日本では、7世紀ごろには豪族たちが地方を支配するようになり、新たに開墾した者に土地所有権が認められる荘園制度が広がった。

だが、この「認められる」という言葉が権利を示すことを忘れてはならない。

所詮権利とは、支配者が被支配者に与えるもので、昔の所有権とは、「年貢のノルマ」のようなもの。

「所有権」を与える領主は「領有権」に基づいて支配しているが、これは力づくで奪い取り、周囲の承認で成り立つ力だ。

年貢を効率よく収奪するには、検地によって領地の収穫量を測る必要があるが、年貢の取り立てを行う地元の豪族などの抵抗にあい、検地は進まなかった。

戦国時代になると、国の領主が目まぐるしく入れ替わり、年貢の徴収も混乱したが、やがて北条早雲のような新興勢力が、それまでの既得権益を打ち壊し、検地を実施するようになった。

そして、急速に領地を拡大した織田信長が検地を促進したことで、これを引き継いだ豊臣秀吉は全国の検地(太閤検地)に乗り出した。

検地とは、農地の面積を計測し、それに見合った年貢を課すことだが、農民出身の秀吉はそれまで土地所有者に課していた年貢を耕作者に課すこととして一元化した。

この時すべての農民が実質的な所有者となったのは、民主化というよりは「民従化」と言えるかもしれない。

しかし、耕作者による土地所有制は安泰とは言えなかった。

耕作者の能力には格差があり、収量の格差が貧富を生んだ。

やがて、年貢を納めるために耕作者間で年貢米の貸し借りが行われるようになり、その担保には土地があてられた。

集落ごとに、収量の多い実力者が年貢の取りまとめ役に選ばれるのだが、これが「地主」となった。

借りを返すことができない耕作者は、担保の土地を地主に提供し、自分は小作人として耕作を続ける。

かつての集落は、水などの資源を共同で調達する「自給自足経済の単位」だったので、地主は経済的に自立する地域社会の経営者となっていった。

やがてペリーの黒船が現れて、外国からの侵略に対抗する帝国づくりが必要となった。

そのために、明治維新ではそれまでのコメ経済を貨幣経済に変えるため、「年貢=現物納税」を廃止して「地租=貨幣納税」に切り替えて、地主制を廃止して地方自治体(町村)を整備した。

日本社会は物々交換経済から貨幣経済に急速な変化して、それまで価値を生み出す資源だった土地は、一気にそれ自体が換金できる資産になった。

その後、敗戦とともに帝国主義を捨て、日本は民主化の道を歩むことになった。

だが、肝心の国土復興は不動産ビジネスと土地投機に依存して、国民の顧客化(民客化)が進むばかり。

昔の日本は地球の一部=日本列島でできていたが、今の日本は時価総額1,400兆円の不動産と言われている。

しかし、国土の6割以上が山林の日本では、その価値の大部分は平地に集中し、さらに都市圏への集中が進んだため、ごく一部の平野にその価値は集中する。

山林や耕作地だけでなく、地方都市までもが経済価値を失い放置や放棄が進んでいる。

最近では都市部でも駅周辺の価値が上がり、郊外の空洞化が進んでいる。

所詮経済価値とは、その高低差が生み出すもので、格差の拡大は止められない。

貧乏人がいてこその金持ちであって、誰もが金持ちになれるはずがない。

だから、たとえ全国を東京にしても、何の解決にもならない。

ならば、全ての土地を経済価値で測るのでなく、もっと多様な価値観で土地利用をすべきではないだろうか。

みんなで地主とは、新しい土地利用の提案だ。

誰か一人が所有するのでなく、仲間がみんなで地主になる「民主化」だ。

地主の主は、主従の従でなく、主客の客でもない、当事者本人のこと。

主体的にその土地の魅力を高め、幸福を求め、収益も追及する人こそが地主だとおもう。

そして、「その人たちによる土地経営の仕組み」を民主国家と呼んでもいいのではないか。

それは日本から独立したいのでなく、日本が好きだからこそ主体的に小さな日本を作る取り組みだ。

そんな国づくりが、地域独自で自由に行われ、それが日本中に広がれば、この国は素敵な国になれると思う。

明治の初頭、全国に自活する集落が7万あったことを思い起こせば、合併を繰り返す役所は電子化・合理化をもっと進め、地方自治は「地主の仲間」で担えばいいと僕は思う。

 

みんなで地主のWEBサイト(日本土地資源協会)

7月の「地主の学校」

地主の学校は、土地を売買する資産でなく、資源として永続的に活用する方法を、かつての「地主」を手掛かりに学ぶセミナーです。

■カリキュラム 各2時間(講義1時間+Q&A1時間 )

  1. ガイダンス(笑恵館は無料)
  2. 昔の地主
  3. 脱地主の功罪
  4. 土地と所有
  5. 土地と社会
  6. 所有の力
  7. 新たな地主
  8. 永続所有
  9. 地主業の内容
  10. 地主業の手順

■受講方法:今月の地主の学校は、下記の2種類で開講します。

1.定期セミナー

  • 日 時:毎週土曜日 10-17時
  • 場 所:笑恵館(下記参照)
  • 受講料:3,000円(ガイダンスは無料)
  • 予約制:ご希望の開催時間と講義内容を添えて、必ず事前予約をお願いします。

2.出張セミナー

  • 日 時:土曜日以外のご希望の日時
  • 場 所:ご希望の場所(笑恵館含む)
  • 受講料:15,000円+実費(5名まで、6名以上は3,000円/人を加算)
  • 予約制:ご希望の開催時間、場所、講義内容をそれて、必ず事前予約をお願いします。

6/28 名栗の森オーナーシップクラブ例会

名栗の森オーナーシップクラブでは、毎月第4日曜日に例会を開催しています。

■通常の内容

日時:毎月第4日曜日 10時~
集合:辻村屋保全山荘 埼玉県飯能市下名栗1111-2
費用:一般2,500円、会員無料 どなたでも参加できます。
内容:10:00 山荘に集合後、メンバー紹介、活動報告、自由討議
11:30 昼食、現地移動(活動内容により変更します)
15:00 森での活動後、山荘に戻り解散
装備:山林内での軽作業ができる服装、軍手、お弁当

例会の詳細は、フェイスブックページをご覧ください。
https://www.facebook.com/naguriforest/

これまでの活動は、こちらをご参照ください
http://land-resource.org/naguri/

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オーナーシップクラブへの入会は、
持ち主の仲間になることを意味します。
家族や団体で入会すれば、
年会費3万円で、メンバー何人でも、何回でも
森を利用することが可能です。
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■事務局・連絡先
名称 一般社団法人 日本土地資源協会
住所 〒157-0073 東京都世田谷区砧6-27-19
HP http://land-resource.org/
Mail post@land-resource.org (担当:松村)

6/11 LR経営会議

日時:

  • 原則として、第2木曜日 16-17時

場所:

  • 笑恵館 東京都世田谷区砧6-27-10

議題:

  1. 会員の活動報告
  2. 月次会計報告
  3. その他

相続の辞め方

自分で購入した不動産なら、寄付してもほとんど税金がかからないことは、あまり知られていない。

その理由は簡単で、せっかく苦労して購入した不動産を、他人に寄付するような奇特な人はいないから。

だが、もしもその寄付する相手の法人が自分自身だったらどうだろう。

土地や建物を非営利法人の所有にすることで、相続せず世代を超えていつまでも活用し続けるのが僕の本業だ。

これまでは、主に先祖から引き継いだ土地をこれ以上分割せず、活用したいと願う方の相談に乗ってきた。

でも今日は、苦労してローンを払い終わった土地や建物の永続化についてお話ししたい。

不動産の寄付とは、個人や非営利団体に無償で譲渡することだ。

例えば1億円の土地を株式会社に無償で譲渡すれば、会社側には1億円の売り上げが発生して法人税が課税されるが、これが非営利法人であれば寄付収入となり課税されない。

ところが、そもそもその土地の所有者が相続など無償で取得した場合は、市価から取得費用(実費ないし5%)を差し引いた所得があったものとみなされて、譲渡所得税(10年以上保有していれば20%)が課税される。

無償で寄付するのに課税されるなんて、全く理不尽な税金だが、最大税率55%の相続税より少額ならば、十分検討の価値はある。

だが、今日お話ししたい「土地代を払って購入した人」にとって見れば、譲渡所得税などほとんど関係ない。

むしろ、多くの場合購入時より値下がりしているかも知れないのに、相続税は容赦なく課税されることになる。

僕は決して税逃れの提案をしているわけではなく、相続そのものを辞め、キチンと財産を継承しようと言っている。

特に土地は永久に減ることのない「地球の一部」だ。

確かにこの方法は、これまで多くの資産家たちが使った税逃れの王道テクニックだったので、一昨年の法改正で、厳しく取り締まられるようになり、非営利法人に対して「非営利徹底型法人」となることが求められるようになった。

そのため、多くの資産家たちがこの手法を諦めたと思われるが、これに飛びついたのが僕だった。

この法規制が取り締まるのは、一族による法人支配や便宜の提供の禁止であって、事業内容については何の縛りもない。

譲渡所得税とは、別名キャピタルゲイン税とも呼ばれ、不動産以外にも株式など価値が変動する資産を対象に、その値上がり益に対する課税制度だ。

したがって、常に額面通りの価値しかない「現金」については全く対象外なので、現金寄付も様々活用することができる。

不動産がうまく活用できなければ、買い替えも可能だし、一部を現金化して建設資金に充ててもいい。

一方、一族への便宜や利益配当など一切できないが、労働や業務への妥当な対価なら制約は無い。

事業継承とは、あくまで事業に従事して働くことであり、遊んで暮らす不労所得を得ることはできない。

だが、仕事でなくお金をもらうだけの後継者が、放蕩三昧で財を食いつぶしていくのは、当然のことだろう。

本当の財産とは、何もせずに楽に暮らせる金でなく、活用することで新たな利益を生み出す資源のことだと思う。

また、一族の独占を防ぐため、同族の役員が1/3を超えてはならないという規定があり、2/3以上は他人の構成員が必要だ。

だが、そもそも家族だけに依存する継承は困難であり、永続性を考えれば他人の参加は欠かせない。

むしろ3家族以上が連携すれば、この条件は簡単にクリアできる。

さらにいえば、互いが出し合った土地を売却してまとまった土地に買い替えてもよい。

つまり、複数の土地を一法人で所有することにより、様々なやり取りややりくりが自由に行える。

やっとの思いでローンを完済し、ようやく「小さな自分の国づくり」を楽しめる時期が来たのなら、その国を自分で作った法人に所有させ、続きを次の世代に託したらどうだろう。

63歳になった僕の周りには、そんな友達がたくさんいる。

こういう法人を作るなら必ず呼んで欲しいし、法人の作り方ならいつでも教えに行く。

そして、あなた自身の小さな国づくりこそが、僕が手伝いたいあなたの起業だ。

そうだ、相続なんかやめて、僕らの小さなバチカン(国)を作ろう!

土地資源の定義

土地資源とは、土地資産の対義語として僕が勝手に作った言葉。

土地が土地として使われず、お金のように扱われていることに対する憤りがこの言葉を生み出した。

そのきっかけは、土地を相続せずにそのまま承継できないかという「笑恵館」の願いを叶えるためだった。

そのためには、土地を個人が所有せず、法人が所有すればいいという答えはすぐに見つかった。

そこで僕は、迷わずこの土地資源を法人名にした。

だが、今僕はこの名前に苦しんでいる。

笑恵館を事業化し、そのスキームを普及することを土地資源という言葉で説明するのは難しい。

僕がここまでたどり着けたのは、土地資源という言葉のおかげだが、僕が社会に伝えたいのは「これまでのプロセス」でなく、「これからやるべきこと」だから。

そこでまず、僕は違う名前を考えてみた。

法人設立から7年、笑恵館開業から5年もかかってしまったが、今年はついに二つ目の事例「一宮庵(いっくあん)」と出会うことができた。

来年からは、複数のプロジェクトを運営しながら、いよいよ事業展開を開始する。

だからこそ、わかりやすい説明にふさわしい「名前」が望ましいと考えた。

そもそも社団法人とは、一定の目的で構成員(社員)が結合した団体(社団)のうち、法律により法人格が認められ権利義務の主体となるもの。

だからこそ、その目的が明確でなければならないのだが、「土地資源協会」という名称は人でなく土地を示しているように見える。

むしろ、「土地所有協会」とか、「永続地主協会」など、仕組みや役割を示す言葉の方が良いのかもしれない。

ところが、いざそういう名前に変えようとすると、僕の心が言うことを聞かない。

いくら仕組みや役割などが具体イメージできたとしても、肝心な目的を共有できるのだろうかと。

振り返ってみると、土地を保有する法人なのだから、「財団法人」がふさわしいと多くの人に言われた。

だが、土地をお金と思わずに、資源として使い倒すことを目指すのだから、断固「社団法人」にこだわった。

これも「土地資源」という言葉が僕の背中を押してくれたおかげだろう。

「土地資源」という概念なしに、この事業を説明することの方が、致命的な間違いかもしれない。

難しいからこそ、きちんと土地資源を定義しなければならない。

そこで僕は、直感的にひらめいた資源という言葉を、そこから生まれた手法と照合することにした。

まず、資源はお金ではない、お金は資源を手に入れるための引換券に過ぎないこと。

土地を売ってお金にしたいのは、土地は要らないということで、土地資産とは要らない土地のことになる。

実際に土地は地球の一部分であり、売買の対象はその所有権にすぎない。

さらに言えば、その所有権も買わずに継承すればいい。

そもそも資源はすべてタダで、それを引き継いでいるに過ぎない。

その資源を利用して人間同士が事業や商売をしているだけのことで、地球は決して場所代など請求しない。

「土地が生み出す収益は、土地のために使うべき」という「非営利不動産」はここから生まれた概念だ。

土地は所有者が儲けるための資産でなく、使用者が儲けるための資源のはず。

所有者が使用者から使用収益を得ているのは、あくまで所有権に含まれる収益権によるもので、決して地球に成り代わって使用料を取っているわけではない。

そもそも土地を購入することが、土地を売ったり貸したりして収益を得ようと駆り立てる。

土地の需要が供給を上回り、土地収益が土地価格を引き上げたから、土地が値上がりし続ける神話を生み出したに過ぎない。

この点だけは昔に戻り、土地を無償で引き継ぐことで、この悪循環を断ち切りたいと僕は考えた。

土地は地球という資源であり、その所有権の売買が使用を妨げるべきではない。

土地の利用を促進し、管理するのが所有者本来の役割なのに、その役割を行政に委ね個人所有者が土地を財産と思い込んでいる。

だが、日本政府は固定資産税という賃料を徴収するため、土地を所有する気はない。

個人所有者が売買に明け暮れて、その利用促進と管理を怠るどころか、閉鎖して放置しているのが空き家問題の本質だ。

つまり、土地資源とは、利用するための土地のこと。

土地資源協会とは、自ら土地資源を所有することで、その自由は使用を永続的に守る仕組みを作り、実践し普及する法人だ。

あああああ・・・すっきりしたので、このままブログに投稿しよう。

土地相続の辞め方

先日僕は、遺言の説明会に参加した。

自宅で料亭を営むSさんには息子と娘がいるのだが、料亭を立ち上げた妻が6年前に亡くなった後は、息子の妻が料亭の運営を引き継いでくれた。

だが、年を取るにつれSさんはこの料亭の将来に不安を感じるようになってきた。

あくまで法定相続人は、血縁のある息子と娘であり、大切な息子の妻の取り分はない。

そこで、息子の妻を養女に迎え、相続の取り分を確保したのだが、料亭の継続のためには相続税の心配以前に土地の分割を食い止めなければならない。

そこでSさんは、日本土地資源協会(以下協会という)への包括遺贈を決意し、親族を集めて協力を要請することにした。

遺贈(いぞう)とは、遺言により相続人以外の個人や法人に財産を無償で譲ること。

遺贈には財産を特定して遺贈する「特定遺贈」と、財産全部または一部を割合だけを定めて遺贈する「包括遺贈」の2種類がある。

Sさんの場合は、全財産を協会に包括遺贈する旨の遺言書を作成することにしたので、3人の相続人に対する相続は辞めたことになる。

さらに言えば、法定相続人には法律が定めた「遺留分」という権利があり、たとえSさんが包括遺贈を求めても子供たちは遺留分を求める権利がある。

これに対し、あらかじめ協会は「すべての相続人の合意が無ければ包括遺贈を放棄する」と宣言した。

そこで、この説明会の目的は、Sさんが自分の願いを子供たちに説明し、料亭の存続と包括遺贈に対する合意を作ることだった。

息子とその妻は、もともとこの案に賛同していたので、心配は嫁いで家を出ている娘だけだった。

さらにその日は、Sさんの妻の七回忌の法要で、妹家族のほか息子の前妻家族も参加していた。

だが、誰もがSさんの思いを快く受け止めて、「何よりも実家が存続してくれてうれしい」と賛同してくれた。

実を言うと、Sさんには過去に作った借財がまだ残っていて、この料亭の存続は容易とは言い難い。

でも、事業の存続・継承とは、そういうものだと僕は思う。

だから、家族の皆さんの賛同は、Sさんにとってはもちろんのこと、これから料亭の経営再建に協力する僕にとっても、何よりの励みとなった。

遺贈によって土地所有を法人化し、永続的な土地利用に取り組む事業としては、僕にとってSさんの料亭が笑恵館に続く2件目の事例となった。

そもそも今から7年前、相続による土地分割を望まない土地オーナー(田名さん)との出会いから、僕は相続制度の弊害に気づき、土地継承に関する「相続以外の選択肢」を模索し続けてきた。

はじめは公益法人を目指したり、土地所有者に地域社会への貢献を呼び掛けたりしてみたが、なぜか違和感のようなものを払しょくできず、事業に本腰が入らなかった。

だが、そのおかげで、僕が一番大切に思うことは「自発性」ということに気が付いた。

たとえどんなに時間がかかる遠回りでも、「自分の意思でやる人」と出会わなければ僕の目指す「永続」は叶わないと思う。

というわけで、僕は引き続き「土地相続の辞め方」について、語り続けることにした。

今、多くの土地所有者が、土地相続に伴う土地分割や売却を、運命のように諦め、受け入れている。

だが、それ以上に「相続したくない」、そして「相続できない」という人が増えている気がする。

土地を引き継ぐ人に相続税の負担をさせたくない。

土地を引き継ぐ気の無い人に土地を相続したくない。

土地を引き継いでもらいたいのに相続させる人がいない。

そんな人たちに僕は言いたい。

土地相続の辞め方・教えますよ!

主役の自覚

いよいよ消費税の増税が実施される。

今回の消費増税は、すでに何度も見送られてきただけでなく、軽減税率やポイント還元など、まるでどこかのバーゲンセールのような有様だ。

この増税が、国民の合意のもとに行われているとはとても思えないし、僕自身納得できないから先日「消費税廃止」を主張する令和新撰組に投票までしてしまった。

だが、ここに来て増税に反対する目立った動きは見えてこない。

恐らく消費増税は、着々と実施されるのだろう。

それは結局、大多数の国民が心の中では反対していても、増税を容認しているからだろう。

この国は、コンセンサスを目指すのでなく、大多数の容認の下に運営されている。

僕が再生したい「地主」とは、こうした諦めに立ち向かう人のことだ。

明治維新で廃止されるまで、地主の主な役割は「年貢のとりまとめ」だったそうだ。

当時の国民は「民(たみ)」と呼ばれ、国の支えと位置付けられてはいたが、決して人間ではなく、家来以下の存在だった。

そんな民に与えられた土地所有権は、年貢などの税の割り当てに過ぎなかった。

人々は税を免れるために、土地は小さく、間口は狭く、軒高は低く抑えることに励んだ。

だから、当時の社会の主役は「税を取り立てる領主」であり、領主に使える武士や地主が脇役で、民はその僕(しもべ)だった。

だが、このやり方でも社会が成立したのは鎖国している間のことで、西欧列国が現れるとそうはいかなくなった。

昔の税金にあたる租庸調(そようちょう)とは、食物、労役、織物のこと。

こんな「現物納税」で国が成り立ったのは、所詮、前近代的な自給自足の社会だったからだろう。

そこで、1873年に明治政府は地租改正(ちそかいせい)を行い、年貢を排して地租という税金を土地に課税した。

税金を納めるために、作ったコメを売るだけでなく、他の事業を起こしたり、土地を貸したり売ったりすることで、お金の経済が回り始めた。

その後の日本は猛烈なスピードで近代化を推し進め、1889年には衆議院選挙が行われた。

だが、この時選挙権を与えられたのは、「満25歳以上、直接国税15円以上を納める男子」とされている。

つまり、15円以上の税金を払う男だけが「国民」として認められたとも言える。

もちろんこの時はまだ、日本の主役は「天皇を担いだ明治政府」であり、先進列国の仲間入りをするために民主主義の体裁を整えたに過ぎない。

それにしても、当時の納税者とはどんな人だったのか。

Wikiによれば、日本の税制度の歴史はこんな感じ。

1873年:地租(国税、地租改正、地券表示の土地価格3%、現金納付)、地租付加税(地方税)、印紙税、駕篭(かご)税(1年間で廃止)

その後、1875年:煙草税導入、1878年:船舶付加税、1882年:家屋税、1885年:醤油税(1926年廃止)、1887年:所得税、1888年:家屋税付加税。

つまり、選挙が始まった1989年当時の納税者とは、ほとんどが「土地所有者」だったと思われる。

ちなみに、地租(現在の固定資産税)とは、国や地方自治体が所有する官有地を除く「民有地」だけに課される税金だ。

だから、土地の登記も民有地しか行われずに、官有地はそれぞれの官庁が行っている。

余談だが、尖閣諸島は民有地だったので中国に対抗して国有化を行ったが、竹島には登記簿謄本は存在せずもはやなす術はないという。

いずれにせよ、明治政府は土地所有者から地主の役割を自治体に移すことで、「官と民」を分離して、土地所有者を国民とみなす民主国家を作り上げた。

その後、資産を持たない貧しい人々を戦争に駆り立てて、日本は国の名のもとに多くの人々を殺してきた。

そしてついに、1945年の敗戦によって、世界最先端の「戦争しない民主国家」がスタートした。

日本の主役は天皇を担いだ政府から、納税や性別など何にも限定されないすべての国民に移ったはずだ。

だから、政府も国会もすべての「官」は、「民」のサポート役のはず。

国民自らが税金を集め、それを財源にして「官」に仕事をさせる社会になったはず。

でも、敗戦当時、日本の政府や議会は解体されることなく、戦前の仕組みがほぼそのまま復興を担うことになった。

そして今も、戦前の政治家や官僚の子孫たちが、この国の政治や行政を担っている。

もちろん彼らもみな国民なので、それを阻む理由はない。

だが、僕ら国民に「主役の自覚」はあるのだろうか。

そこで僕は、地主の再生を提案する。

形だけの民主主義を担うため、土地所有者という納税者にされ、かつての地主は滅びていった。

だから今度は、誰もが参加出来る法人組織が土地を所有することで、国民自身が国土を所有し担う社会を目指したい。

でもそのためには、国や社会を自ら担う「主役の自覚」が欠かせない。

もちろん誰もが主役になれるわけではないし、むしろ僕たちは、訪問者や脇役として多様な世界を楽しみたい。

だが、たとえ小さくても、辺鄙なところでも、世界に一か所くらいは「自分が主役になる地域」を持っても良いと思う。

そんな場所を故郷と呼んで、誰もが故郷作りに挑んだらいいと思う。

地主の目的

日本土地資源協会を設立したのは2012年の9月11日、今からちょうど7年前だった。

そのきっかけとなった笑恵館のオーナーTさんとの出会いはその年の5月ころだったので、僕はこの法人をたったの4か月で生み出したことになる。

その2年後には笑恵館がオープンし、プロジェクトは順調に進んだかに思えたが実際には そう簡単な話ではなかった。

笑恵館という一つのプロジェクトは、会員数も増え続け永続化に向けて順調に推移しているかもしれないが、この法人は名前の通り、日本中の土地問題に挑むことを目指している。

だから僕にとって、一宮庵(いっくあん)という2つ目のプロジェクトに着手できることは何よりうれしい。

「土地所有の法人化を普及するために日本土地資源協会を設立した」という説明が、ようやく嘘でなくなった。

だが、初めてと2回目はこんなに違うことなのか。

笑恵館では、受けた相談の解決に挑んだが、今度は先に事業スキームがあり、それを説明する順番だ。

そこでぼくは、導き出した答えを分かりやすい絵に描いてみたので、その説明を練習したい。

このイラストは3人の人たちの関係を描いている。

左側に土地所有者(OWNER)、右側に土地利用者(USER)、そして真ん中にいるのが僕たち(LR)だ。

(LRとはLand Resourceの略で、土地資源のこと)

僕たちの役割は、土地の所有を法人化することで土地を永続的に使用できるようにすることだ。

そのためには所有と使用を分けて、僕たちがその間に入ることにした。

そもそも土地の所有者は、土地の賃貸や売買をするだけの所有者でなく、土地を使う利用者でもある。

土地所有は財産とみなされてその継承は相続扱いとなるが、土地利用は事業でありその継承は相続の対象とはなりえない。

だからこそ、土地の所有と利用を分離して、土地を利用する後継者を育てることが永続的な土地利用には欠かせない。

それに対し、土地所有の後継者(相続人)が大勢いればいるほど、土地が細切れになる上に争いばかり起きるのは、何とも皮肉なことだ。

利用者から発する矢印は、お金の流れを示している。

利用者はLRに対し土地の利用料(賃料)を支払うが、LRは所有者に対し、固定資産税などの負担経費分を賃料として支払う。

そして、賃料収入から所有経費を差し引いた収益を、利用者に還元するのがLRの役割だ。

もちろんこれは、単なる利益の還元でなく、その土地を地域社会の魅力にするための「業務委託費」だ。

通常の所有者にとって、この差額が不動産収益となるのだが、このスキームでは所有と利用を分けているので、土地利用に関わる所有者だけがこの収益を得ることができる。

さらに言えば、それは業務委託費なので、不労所得でないことを忘れないで欲しい。

土地所有が不労所得を得る権利なら、土地利用はそこで収益を生みだす仕事を得る権利と言える。

こうすることで所有者から生まれた利用者は、所有者が負担すべき固定資産税を負担するだけで、土地利用に挑めるようになる。

笑恵館で生まれたこのスキームは、すでに5年を経ることで確立できたと言い切れる。

土地資源のオーナーは、所有者として所有経費分の賃料を得て、利用者として施設運営の業務報酬を得る。

やがて所有者が死ぬときは、包括遺贈によって所有権をLRに委ねるだけ。

その時、すべての相続人の理解と協力を得ることと、土地利用の後継者を育てておくことが、今の僕たちの役割だ。

LRが所有者となった後は、このイラストの通り究極の所有者である日本政府に固定資産税という家賃を払い続けることになる。

そしてLRは不死身の法人なので、相続とは関係ないし、利用者の関係もいつまでも変わらない。

もちろん利用者は、土地利用の後継者を育てるため、血縁にこだわらない新たな家族を育てることになる。

かつての地主が封建社会の象徴であったのに対し、僕たちは新しい民主社会の地主を目指す。

それは、日本土地資源協会から広がる「土地所有法人と土地利用組織」のネットワークだ。

土地所有は非営利法人化によって相続の分割を回避し、土地利用は自由に独自性を追求することで地域の魅力を担いたい。

地域社会の魅力に便乗して相続税や不労所得を生み出すばかりでは、地域の衰退は止められない。

むしろ、土地が生み出す収益を、地域社会の魅力を作る業務に使いたいと僕は思う。

そして、他でもない「自分自身が地域の魅力になること」、これこそが新しい自分の仕事だと僕は思う。

だから土地を所有する法人は、非営利かつみんなの組織がふさわしい。

これからは土地所有を商売にするのでなく、土地の利用者として生きつづける地主を目指したい。

自分自身がまちになる

自分の土地をまちづくりに役立てたい。

自分の土地をまちの魅力を担う施設として運営し続けて欲しい。

土地の所有者からそんな相談を受け、僕は引き受けた。

それを実現するためには、所有者と共にその実現に取り組み、所有者が死んだ後もそれを引き継いでやり続ける仲間が必要だ。

そこで所有者の夢に取り組む仲間たちと共に法人を作り、所有者が「すべての財産をその法人に遺贈(いぞう)する」という遺言書を書くことで、所有者の死後はその法人が土地の所有権を引き継ぐことにした。

この方法は、所有者に相続人になる親族がいなければ簡単だが、相続人がいる場合はそう単純にはいかない。

たとえ所有者がすべての財産を法人に遺贈したくても、相続人には「遺留分(いりゅうぶん)」の権利があるからだ。

すべての相続人がこの遺留分の権利を主張せずに協力してくれなければ、法人への遺贈は実現しない。

つまり、すべての相続人に財産を相続しないことを告げ、理解と協力を得る必要がある。

ここで一番大事なことは、所有者や相続人でなく僕自身の気持ちだ。

提案を受ける人にとってまず必要なことは、提案者がどうしたいのか、どうなることを望んでいるかだと思う。

だから僕は「相続人には遺留分を諦めてもらうだけでなく、法人に参加して所有者の願いの実現に協力して欲しい」と、自分の願いをはっきり言う。

つまり、僕の願いは「所有者の願いを叶えること」であり、それは所有者を代弁しているに過ぎないことだ。

だから、これに対して異を唱える相続人は、所有者の願いより自分の取り分が大切ということになる。

ここから先の議論には、僕は関わるつもりはない。

親が死んだ後のことは、親子でじっくり話して欲しい。

所詮相続争いとは、親の生前にこういう議論をしないからだと僕は思う。

もちろんその原因は、所有者の側にある。

自分の財産を使って何を成し遂げたいのか、ほとんどの人が自分の夢をきちんと描いていない。

財産は、何かを実現するための資源のはずなのに、実現したい夢が無ければただのゴミになるどころか、争いの種になるだけだ。

その議論を促すために、僕はこの遺贈に条件を付ける。

すべての相続人の同意が無ければ、法人はこの遺贈を放棄する。

夢を叶えるということは、損得や善悪の問題ではない。

だから決して多数決でなく、全員一致でなければ意味がない。

先日開催した地主の学校②で、土地の所有権移転登記に関連して、承継について次のように解説した。

「所有権移転をもたらす承継には、一般承継と特定承継の2種類がある。一般承継とは、前所有者の有する権利・義務の一切を承継することで、自然人については相続が、法人については合併があてはまる。特定承継とは、前所有者の有する権利・義務のうち一定部分を承継することで、売買が典型例である。」

ここで言う「相続と売買」の比較が面白い。

相続はすべてを引き継ぐことに対し、売買は一部を引き継ぐこと。

つまり、売買は都合の良い部分だけを引き継いで、それ以外の手切れ金としてお金を払うわけだ。

所有者の願いをかなえるためには、引き継ぐ側の都合でなく、まずはすべてを引き継ぐ必要がある。

だからこそ、売買でなく相続に準じた「遺贈」という手段を僕は選んだ。

今日は突然、遺贈や遺言書の話をお聞かせして、びっくりされたかも。

実は来月、ある土地所有者の親族会議で「遺言書説明会」を開催することになったので、今の僕は「遺言書づくり」の真っ最中だ。

という訳で、「地主の学校」と「土地遺贈スキームの構築」が同時進行中で、話が錯綜することを許して欲しい。

でも、これらの議論は、すべてが未来につながっている。

「まちづくり」や、「むらの魅力づくり」の行き着く先は、自分たちの土地や活動が「まちやむらになること」だ。

そして、ここで言う「まちやむら」とは「地域」のこと。

次回、地主の学校③は、「地主の地は、地域の地」というテーマで開催するので、続きを聞きたい人は来て欲しい。

(日時:2019年8月31日(土) 10-12時、場所:笑恵館 東京都世田谷区砧6-27-19)

土地は誰の財産か?

8月17日、いよいよ地主の学校が開講し、東京・千葉・埼玉から5名の受講者が集まった。

先回のブログで予告したとおり、第1回はこの講座の全体を紹介したのだが、それは僕自身の最終チェックでもあった。

その結果、カリキュラムの順番を変更し、土地について考えることから始めることにした。

当初はまず地主の「主」について説明し、世界の見物人でなく、当事者としての生き方に関する僕の提案から話そうと思っていた。

だが実際に話してみると、提案の後にその理由を説明するより、まずは理由説明=問題提起から始めるべきだと思えてきた。

いや正確には、話しているうちに僕自身の問題意識の核心が見えてきたと言った方がいいだろう。

そこで今日は、次回の予告を兼ねて、土地についての話をしたい。

地主の学校が目指すのは、あくまで「土地の法人所有」なので、ここでは「所有対象としての土地」について話したい。

そもそも土地とは、地球上で暮らす人間たちの縄張りのことだが、文明の発達とともに人々が社会を形成し、その縄張り全体を支配する者が現れた。

支配者は戦争や調略など力づくで縄張りを広げ守ったが、その縄張りは土地ではなく領地と呼ばれる。

土地とは、あくまで支配者が領民に分け与える領地の一部のことであり、それを所有権と呼ぶようになった。

日本では平安時代に、新たに開墾した土地の所有権を与える荘園制度が生まれ、土地の個人所有が始まったと言われるが、これも所詮領主から与えられる権利であり、領主が攻め滅ぼされてしまえばすべて取り上げられてしまう権利だった。

やがて豊臣秀吉の時代に太閤検地が行われ、全国の土地登記簿の元が出来上がった。

この時、農地を耕作するものに所有権が与えられたが、あくまでこれは年貢を確実に取り立てるためであり「所有権=年軍の割り当て」だったと言える。

土地登記を管理する「公図」の原型も、このころに出来上がったようだ。

そして明治時代を迎えると、年貢制は廃止され、土地には地租(後の固定資産税)が課税され、土地所有者は納税者となる。

これまで通りに米を作り、それを売って納税するだけでなく、土地を貸したり、事業を起こしたり、売却することで利益を得ることもできるようになった。

そのため、土地を開発したり道路を通したり売却するたびに分割され、それに伴い分割登記が繰り返され、そして現在すべての土地所有は、この登記によって行われている。

考えてみれば、土地分割すべての原因は、所有権やそれに伴う抵当や差し押さえなどを新たに登記するためなのだから、「土地=所有権」となるのは当然のことだ。

そして、細かく複雑に変化していった公図が、その実情をよく表している。

僕は地主の学校の講義で紹介した「この公図」を見て、問題の核心に気が付いた。

僕の問題提起は、まさにこの細切れになった土地所有権の更なる細分化が止まらないことだ。

まず、細分化が進む最大の要因は相続による法定相続人への分配だ。

そして、相続税を払うための更なる分割や売却だ。

また、売却も多くの場合更なる細分化が待ち受けている。

たとえ細分化した土地を集約する再開発も、ほとんどの場合細切れにして分譲するのが実情だ。

所有権の細分化は、制約ばかりを生み出して、その自由を奪うばかりだ。

巨大なタワーマンションの数百に区分された所有権には、転売の自由くらいしか残っていない。

年貢から地租を経た現在の固定資産税は、課税標準額が30万円以上のすべての土地に課税される。

固定資産税の滞納があれば、自治体が所有権を差し押さえ、競売することで回収する。

つまり、日本の土地所有とは、固定資産税という賃料で所有権を賃貸しているに過ぎない。

その上土地は永久不変の資産なので、個人は相続のたびに何度でも繰り返し課税される。

長男だけが財産を引き継いだ封建社会から、すべての子どもたちに財産を分ける相続制度は、たしかに民主化を進めたと思う。

だが、相続と売却を繰り返す「土地所有の個人化」は、いったい何をもたらすのか?

僕には、地域社会の衰退と滅亡しかイメージできない。

僕はこれまで、「日本は世界で最も強い土地所有権を国民に与える国」と思っていた。

だが今日からは、「日本はすべてを国民個人任せにする無責任な大家」と考え直すことにした。

だが、政府が日本の大家なら、その大家の雇い主は僕ら国民だ。

僕の提唱する土地所有法人は、無責任な日本から永久に土地を借り受けて、固定資産税という家賃を払う「地域経営の担い手」を目指したい。

というわけで、、、地主の学校②は、土地や建物の所有について、現状とその問題点を考える。

失敗を無くすこと

僕は以前「失敗をしないように生きる気はない」と言ったことがある。会社を潰すとき、僕に必要だったのは「会社を潰さないためにはどうするか」ではなく「会社を潰すにはどうするか」だった。だが、僕はこれを心の中でずっと唱えている気がする。「失敗しないような生き方」は僕の中で悪いことになっている。だがこれが僕の目を濁らせていた。これはあくまで僕の選んだ生き方であって、僕の周囲や社会全般に当てはめるのは間違いだ。この考えを「悪」と決めることこそが、僕にとっての「悪」のはず。地主の学校を書いていて、僕はこのことに気が付いた。本題から少し外れるので、ここに書いておきたい。

「成功するようにする」と、「失敗をしないようにする」とは、言い換えると「成功の許可」と「失敗の禁止」のことであり、「成功はしてもいい」けど「失敗はしてはならない」という意味だ。成功「してもいい」ということは「しなくてもいい」ということで、成功の確証はどこにも無い。だが、考えてみると、成功とはそんなもの。「成功しなければならない」とか、「成功するべきだ」などと言われると、何か違和感を感じてしまう。これに対し、「してはならない」とは「しなければいい」であり、誰にでもできること。だから、「成功はしなくてもいい」と「失敗はしなければいい」と言い換えると、誰にでもできる気がしてくる。

僕がこんなことを考えたのは、「シンガポールの駐車違反」のエピソードを書いた時だ。僕は今年の1月にシンガポールに行ってきたが、シンガポールの道路には路上駐車が1台も見当たらなかった。もちろん旧市街の一部には道路に駐車スペースが書いてあり、車もバイクもきちんと路上駐車していたが、それ以外の路上に違法駐車をしている車は1台もいなかった。シンガポールの取り締まりが厳しいのは有名だが、東京だってかなり厳しいし、罰金だって高額なのに、東京は至る所で違法駐車だらけだ。そこで、なぜシンガポールでは路上駐車がいないのかを調べたところ、「国民にはすべての車線を安全に使える権利があるので、路上駐車は禁止する」ということだった。なあんだ、そんなことかと思ったが、それは日本だって同じこと。なのになぜ、日本では路上駐車が無くならないのだろう。

先週このブログで「最高の最低」と題し、最低の権利を高めたいという話をしたが、僕たち自身の意識もかなり低い気がしてきた。路上駐車が無くならないということは、すべての車線を安全に使う権利より、警官の目を盗んで目的地の近くにタダで車を停める権利が優先されているわけだ。駐車違反に対する罰金は、警官の目を盗むいう成功に対する失敗だ。つまり、この場合の「失敗をしなければいい」は、「警官に見つからなければいい」になってしまっている。どうして「路上駐車をしなければいい」が、「警官に見つからなければいい」にすり替わってしまうのか。それはまさに先ほどの権利のすり替えが原因だ。シンガポールの「当たり前の答え」を聞いて、僕は権利のすり替えをしている自分に気が付いた。

失敗を無くすとは、誰もが成功できる最低のレベルを決め、それを下回る失敗を禁じるやり方だ。だとすると、そのレベルこそが権利であり、それを上回ることが成功だ。だから成功は失敗でない程度のぎりぎりクリアでも、大幅にクリアする大成功でもどちらでも構わない。つまり、権利とは成功することよりも失敗しないことであり、全ての人に与えられた「義務を果たす力」に思えてきた。そこで権利に必要なのは誰にでもできる「無料」であることだ。道路や公園を歩いたり、選挙の投票などは無料だが、それ以外の無料の権利はあまり見当たらない。義務教育の学校で給食費や教材費が払えない貧困家庭には、行くだけの権利しかない。ノルウェー、フィンランド、そしてドイツなら、留学生まで無料で学べるという。これは国が豊かという以前に、大学と公演が同じという意味だ。こうした権利のレベルことが国の魅力だと思う。だとすれば、何でも有料で値上がりばかりの日本はかなりレベルの低い国だ。

むしろ現代では、企業のサービスが無料化しており、企業が人々に権利を与えている。誰もが進んでweb検索するのは、無料で得だから使うのでなく、すでにそれが権利となり、それを行使することが暮らしの一部になっている。権利とは使わなくても構わないが、使えないようにすることは許されない。それを失敗と考えれば、それを禁止して義務にするべきだ。土地は使わなくても構わないが、誰にも使えないようにすることは許されるのだろうか。所有者にはそんな権利があるのだろうか。僕はそんな権利は失敗だと思う。そんな失敗はしないようにしたい。

所有と所属

1軒の家を複数の家族で分け合って暮らすことをシェアという。

それでは複数の家族が1つの家族として一緒に暮らすことは何というのだろう。

僕の母は妹と一緒に暮らしているのだが、数年前に父が亡くなり、妹の子供たちが独立していった後に夫も離婚して家を出たため、大きな家で二人暮らしをすることになった。

ある時、お嬢さんの通学用の住まいを探すSさんから相談を受けたので、「母の家に住んだらどう?」と提案し、引き合わせると、なんとあっさり意気投合した。

そこで急遽、妹が子供たちの荷物を整理し家中を片付けて、Sさん母子との同居生活が始まった。

家賃や光熱費など、もろもろ合算した「同居家賃」をいただく代わりに、2階の8帖間の占有使用を認め、残りの部分は同居家族として仲良く使うことにした。

もちろん仲介業者は介在せず、契約も適当で曖昧だ。

不動産の賃貸借契約というよりは、家族としての同居契約といった方がしっくりする。

はじめのうちは、相手の生活スタイルが分からずにぎくしゃくしていたが、次第に互いのことが分かってくると、食事や入浴を譲り合ったり協力できるようになってきた。

もちろん信頼関係が育たなければ、こうした住まい方はできないが、互いを信頼しようと努力すれば、みるみる関係は育っていく。

今では、Sさんと妹はSNSで連絡を取り合って、母と娘の面倒を互いに調整しながら助け合っている。

そして調子に乗った妹は、片づけをさらに進めて、2階の別の部屋でも住み手や利用者を受け入れたいと言っている。

昨日はこの家で母の誕生パーティを開き、孫やひ孫たちが集まったのだが、その席で群馬に越した妹の息子が東京で仕事をするために帰ってきたいと言い出した。

すると妹は、我が家の現状とシステムを説明し、「同居費用を払うなら大歓迎」と誘っていた。

つまり、空き部屋の入居者を募るのでなく、空き部屋を利用する家族を募集しているわけだ。

この場合の家族とは、血縁者かどうかではなく、ここでの同居生活を望む人のこと。

他人はもちろんのこと、たとえ血縁家族であろうとも信頼関係を築かなければ、快適な生活は難しいだろう。

先週の日曜日、僕は足立区西新井のパルコカーサという集合住宅を訪問した。

元は銭湯があったのだが、銭湯を継続させるのは無理だと判断した経営者が、3人の息子たちに土地継承の方法を提案させたという。

銭湯を通じて地域社会に育てられたと口をそろえる息子たちは、入居者たちと親しくなるだけでなく、町会への参加も義務付けた。

この日は夕涼み会ということで、長男のTさんが招いてくださったのだが、オーナーの3兄弟と入居者たちとの語らいは、まるで実家に集う親戚のようだった。

スタイリッシュな2軒長屋がゆったりと配置された住環境がどんなに魅力的であっても、このコミュニティに参加できない人は入居できないことになる。

今では他所に転勤した、企画段階から参加した仲介業者のIさんも、この成功に胸を張る。

考えてみると「シェア」とは、他人同士が時間や空間を分け合うこと。

所有者が使いきれない時間や空間の遊休部分を使うことで、新たな経済価値が生まれることは確かだ。

だが一方で、時間や空間を使い切れないままでいる所有者側の孤立も問題だ。

そもそも所有者が行動を起こさなければ、シェアも何も実現しない。

ところが、頼みの綱である血縁家族の崩壊リスクは、天皇家ですら免れない。

家族が分散し亡くなることで、所有者は確実に孤立していく。

だから僕は、母の家に他人の家族を招き入れてみた。

そしてこれがきっかけで、母の家に新しい家族が集まり始めている。

家を分け合うのでなく、家に集まる家族とは、家を所有するのでなく家に所属する人たちだ。

家に所属する人たちは、その持ち分を決めるのでなく、願いをかなえるための役割を決めればいい。

会社に所属する管理者と労働者、学校に所属する先生と生徒などは、会社や学校をシェアしているのでなく、目的のために使っている。

家族もまた、快適に暮らすために役割を分担する。

僕が取り組む「土地所有の法人化」とは、土地を誰かの所有物でなく、仲間が所属する場所にすることだ。

土地をいつか売却して所有者だけが儲けるのでなく、夢をかなえるために仲間といつまでも使うことだ。

地主の地は、地域の地

■地主と所有者の違い

地主とは「土地の持ち主」と思われがちだが、実は土地所有者のことでは無い。

地域を統治する領主から集落ごとに任命された「役人」のような立場で、「年貢のとりまとめ」が主な役割だった。

豊臣秀吉の太閤検地以降、農地はそこを耕す耕作者が所有することとなったが、個別に年貢を取り立てるのは大変なので、集落ごとに所有者の中から地主を選び、集落分の年貢をまとめて納める役を担った。

すべての耕作者が豊作なら良いのだが、一部でも凶作となるとその分の補填をしなければならない。

その時、農地を担保に貸し借りがなされたため、借りがかさんだ耕作者は農地を地主に差し出して、小作人として耕作を続けた。

■地主の地は地域の地

こうして各地に大地主が生まれるが、土地が金銭で売買された例はほとんどなかったようだ。

むしろ、集落全体が緩やかな大家族となっていった。

当時の地主を現代に置き換えるなら、役所や税務署の出先として、年貢を集めるために奔走ずる町会長のようなイメージだ。

電気や水道はもちろんのこと、社会インフラなどほとんど存在しない自給自足の時代だったので、集落の人々が助け合わなければ耕作も出荷もおぼつかない。

結局地主の仕事は、役所や農協だけでなく、冠婚葬祭、防災や消防、医療や介護、そして娯楽や観光までおよそすべてに及んでた。

あえて言うなら「地主の地」は、「土地の地」でなく、「地域の地」だと僕は思う。

■地主の消滅

ところが黒船がやってきて、日本は開国を迫られ、全国がばらばらに自給自足などしている場合でなくなってしまった。

国を統一し、強い経済と軍隊を生み出さなければ、西洋の属国にされてしまうだろう。

幕藩体制を倒して生まれた明治政府は、富国強兵を推進するため、年貢制度によるコメ経済から貨幣経済への移行を実施した。

官(行政機関)と民(営利企業)がすべてを担うことになり、役割を失った地主は消えて土地所有者となった。

土地を財産化することで、課税する代わりに自由な売買を可能にし、血縁者に相続することで個人への配分を推し進めた。

こうして日本は、瞬く間に列強諸国と戦うようになり、致命的な敗北さえも乗り越えて奇跡的な復興と成長を成し遂げた。

■地主とコミュニティ

だが、日本全体が豊かになり成長の時代が終わると、少子高齢化による人口減少が始まった。

競争による淘汰が国内の格差を広げるようになり、都会への集中と地域社会の衰退が加速した。

今や都内の新築分譲マンションが半分以上駅から5分以内に建設されているというから、もはや都会の中でも淘汰が進んでいる。

豊かな社会とは、土地や家に縛られていた封建主義から解放し、人々を個人レベルに分解して地域を崩壊させることなのか。

封建社会からの解放とは、逃げ出すことでなく個人の自由を尊重することで、束縛や差別を解消することでは無いだろうか。

■地主の再生

また、地域経営とは、成功や失敗で終わることでなく、いつまでも継続することを目指さなければ意味がない。

儲からなければ撤退する企業や、住民が減ると合併する自治体などに任せられない。

そこで僕は、地主の再生を思い立った。

かつて国中の集落が自給自足の経済と独自の文化を生み出し担ってきたのは、官でも民でもない地主とその家族たちだった。

かつての地主が、領主に命じられた地域社会のお目付け役なら、新しい地主は自らが領主となる領民のこと。

血族でつながる家族や相続制度に縛られず、地域を担う仲間たちと法人を作って、土地という地域を経営する人たちのことだ。

■地主の育成

土地を個人が所有していては、永続的な土地経営を実現できない。

土地は法人が所有し、その法人に所属する仲間たちを集め、家族のように率いていくのが新しい地主の役割だ。

また、土地は細かく分割して個別に所有するよりも、法人がまとめて所有した方が、収益や費用を合理的に配分できる。

つまり、土地と人をバラバラに孤立させるのでなく、願いを共有する仲間たちが持ち寄れば、新しい地域を生み出せる。

地主とは、土地の主でなく、地域の主だと先ほど述べたのは、そういう意味だ。

だから、土地の所有者だけでなく、その土地利用に関わる家族や仲間も地主になって欲しい。

ある意味で、封建時代から今もなお続く「血縁家族による土地継承(相続)」に対し、別の方法を知って欲しい。

■地主の学校

いよいよ下記の日程で、地主の学校がスタートする。

当面は月に一度のペースで開催するので、このブログではその予告をお伝えしたい。

 

地主の学校 第1回

テーマ:地主の地は、地域の地

日 時:2019年8月17日(土)10-12時

場 所:笑恵館 東京都世田谷区砧6-27-19

受講料:3,000円

新しい目次

先日のブログで「家族制度から社団法人への移行」を提案したところ、「社団法人って何ですか?」という質問をいくつかいただいた。

我ながら、唐突な説明だったと猛反省、今日は社団法人についてもう少し詳しく説明したい。

ここで言う社団法人とは「一般社団法人」のことで、2006年の公益法人制度改革により、「従来の社団法人」に代わって、公益社団法人とともに設けられた法人だ。

設立許可を必要とした「従来の社団法人」とは違い公益の有無は問われず、一定の手続きと登記さえ経れば主務官庁の許可を得るのではなく、規則に準じて誰でも設立することができる。

また設立後も行政からの監督・指導はないし、株式会社などと同じく収益事業や共益事業なども行うことができる。

と、ここまではちょっと調べればわかることだが、やはり「一般社団法人」とは、どこか怪しく胡散臭い。

だが僕は、人間が生き延びるため、一般社団法人こそが「滅びゆく家族に代わる仕組み」になるのではないかと考え始めた。

そこで、次の6つについてざっくばらんに解説したい。

1.社団と財団・・・・・・・人と財産

2.株式会社と社団法人・・・収益と夢

3.権利能力なき社団・・・・法人と非法人

4.持分の定めの無い法人・・営利と非営利

5.公益と非営利・・・・・・利益の前に存続を

仕事と財産と地域をいつまでも守るため、家族に代わる仕組みには何が必要なのか。

1.社団と財団・・・・・・・人と財産

「社団法人は人の集まりで、財団法人は財産の集まり」という説明をよく聞くが、これではいまひとつピンと来ない。

そこで、それらが法人=人と同じ権利を持つとどうなるかを考えてみよう。

まず、目的を持つ人の集まりが法人になると、みんなで目的を引き継ぐ「不死身の人間」になる。

したがって、社団法人の代表者は全メンバーをまとめるリーダーに過ぎず、メンバーの力は対等だ。

社団が所有する財産はみんなで共有しながらいつまでも引き継いでいくことができる。

一方、目的を持つ財産の集まりが法人になると、自分自身を運用し続ける「人間のような財産」になる。

したがって、財団法人の代表者は、財産の管理責任者であり、評議員たちの監視の下で業務にあたる。

財団が所有する財産はその目的を実現するために無くなるまで運用され続けることになる。

結局、「人に夢を託すのが社団」で、「財産に夢を託すのが財団」だと言えるだろう。

2.株式会社と社団法人・・・収益と夢

社団法人は「人が集まった法人の総称」なので、その仕組みは株式会社、NPO法人、協同組合など様々だ。

そこでここでは、最も身近で数の多い「株式会社」と比較してみたいと思う。

株式会社とは、資本金(元手)を株に見なし、その出資者を出資比率に応じて「株主」と呼ぶ方式の法人。

会社の所有するすべての財産は、株主が所有することになり、そこには社員や経営者も含まれる。

したがって、会社の生み出す剰余金(利益)は会社の財産の増加とみなし、全て株主のものになる。

その結果、せっかく会社が財産を所有して不死身の法人になっても、株式が個人の財産である限りその継承は家族に委ねられ、上場すればすべてが商品として売買される。

会社に託した夢や願いを株主が継承できるはずもなく、収益を生まなくなれば継続の価値はない。

3.権利能力なき社団・・・・法人と非法人

法人格(権利能力)を持たない社団も、一定の要件を満たせば法人と同様に取り扱われることもある。

たとえば、

・団体としての組織を備え、

・多数決の原則が行われ、

・構成員の変更にかかわらず団体そのものが存続し、

・その組織において代表の方法、総会の運営、財産管理その他団体しての主要な点が確定している

場合には、民事訴訟法上当事者能力が認められる(民事訴訟法29条)。

この社団は「任意団体」とも呼ばれ、町会、商店会、父兄会やスポーツクラブなど、地域社会の大部分の団体を指す。

ある意味で現状の家族とは、血縁者の範囲が権利能力を認められた組織なら、内縁や扶養関係でつながる他人の家族は任意団体に近いかもしれない。

だとすれば、他人の家族を含む法人格こそが、新たな家族の仕組みとなる有力な候補と言えるだろう。

4.持分の定めの無い法人・・営利と非営利

一般社団法人のことを、税法上「持分の定めの無い法人」と呼ばれることは知っていたが、その取扱いを昨年まで僕は知らなかった。

「持分の定めの無い」とは「株主がいない」こと、つまり所有者が存在せずすべての構成員が共有していることを指す。

したがって、法人の所有する財産には相続が発生しないのかと思ったら、なんとその逆というから驚いた。

つまり、法人の代表者に対し、所有者代表として相続税が発生するという。

この課税を防ぐには、同族理事の排除や役員報酬の禁止などを含む「徹底非営利型」の仕組みが要求される。

つまり非営利とは、「不労所得の排除」を意味している。

この仕組みから僕は、憲法第27条の「勤労の権利と義務」を思い出す。

家族の基本は、「楽に暮らすこと」では無く、「働いて助け合うこと」ではなかったか。

5.公益と非営利・・・・・・利益の前に存続を

結局、家族に代わる永続の仕組みとして、僕は「非営利型を徹底した一般社団法人」にたどり着いた。

だが、最後に残る問題は、個人の財産をこの法人に譲渡する方法だ。

非営利型の法人が財産の譲渡を受けても「寄付」として非課税となるが、譲渡する個人の側には不動産の場合「譲渡所得」という計算上の利益に対する税金が発生してしまう。

僕が、4年前に公益法人を目指したり、2年前に認定NPO法人を目指したのは、寄付金の免税や控除を受けるためだった。

だが、家族はあくまで個人であり、財産寄付の免税や控除は関係ない。

その上、先ほどの土地譲渡所得に対する課税を免除する手続きが、公益法人や認定NPO法人と同じでは、公益法人になる意味はない。

個別家族の存続無くして、地域社会の社会などあり得ない。

地域社会の存続無くして、公益=社会の利益など無意味なことを、忘れてはならないと僕は思う。

天皇家の継承問題を、家族制度の終焉を知らせる警鐘と思った時、自分の行先が見えた気がする。

「地主の学校」という本を書いてみたものの、出版できずに時が過ぎたのは、このためだったのかもしれない。

今日の長文は、僕の新しい目次なのかもしれない。

この期に及んでまた新しい扉が開くなんて、人生は面白すぎる。

固定資産税クラブ

僕の所属する日本土地資源協会(LR)は、土地を永続的に保有するための団体だ。

設立7年目にしてようやく税務上の課題を解消し、事業スキームが確立したので、今年はその説明に歩いている。

その中で様々な質問をいただき、それに答えることもまた僕にとって貴重な学びや気づきとなるのだが、先日こんな質問を受けた。

「松村さんの団体は一般社団法人だが、土地を保有し運用するのなら、財団法人の方が適しているんじゃないですか?」と。

この問題は、実は以前から気になっていたことだったが、今回すらすらと答えることができて自分でも驚いた。

今日はこの話をしたいと思う。

社団(しゃだん、英仏: association、独: Verein)とは、大陸法及び英米法における民事法上の概念で、一定の目的によって結集した人の集団について用いられる。

大陸法においては、一定の目的によって結合した財産の集団である財団と対立する概念ともされる。(wikiより)

日本ではこの概念に基づいて社団法人と財団法人が民法で定められ、一般には社団は人の集合体で、財団は財産の集合体と言われる。

もちろん財産とはお金のことで、その代表例はノーベル財団だ。

ダイナマイトなど爆薬の発明で巨万の富を築いたノーベルは、死後自分がどのように記憶されるかを考えるようになったという。

1900年当時、ノーベルが財団設立に充てるよう遺言した遺産の額は、現在の通貨の価値に換算すれば16億クローナ(192億円)に相当する。

現在のノーベル財団の資産額は31億クローナ(372億円)であるというから、当初のほぼ2倍であることが分かる。

このうち53%が株式に投資され、残りが債権や不動産で運用されているようだ。

資産運用のポリシーとしては毎年3~4%の運用益をあげ、それを賞金やその他の経費に充てることにしているというから、将来も当面は安泰だと言えそうだ。

この場合の目的は、不動産の運用でなくそこから得られる収益のことで、株式の配当と同じ所有者の不労所得を指す。

従って、収益が得られなくなれば高収益な物件に買い替えたり、値上がりした物件の売却益も収益となる。

土地の寄付を受ける公益団体や自治体も同様で、土地の活用が目的ではなく、使いにくい土地は容赦なく換金されてしまう。

だが、財産とはお金だけではなく、土地、株式のほか芸術品のコレクションなどを保有する財団法人も数多い。

日本ナショナルトラスト協会という団体は公益財団法人で、「日本のすぐれた文化財や自然の風景地などを保全し、 利活用を通じて次の世代につなげます。」と謳っている。

僕の知る限りでは、わが国で唯一、土地の保全に取り組むこの団体は、設立時の「財団法人観光資源保護財団」の名の通り、観光資源を守ることを目指している。

恐らくこの団体は、保全すべき土地や建物を売却することはないだろうし、利活用を目的としているわけでもない。

だから、土地を財産とみれば、確かに「土地保有事業」は財団法人がふさわしいように思える。

土地資源とは、売らない土地のことだが、それは土地を守るためでなく、そこでの暮らしや営みを永続させることが目的だ。

土地を相続することで分割したり売却せず、ビジネスや生活の場としての地域社会としていつまでも保有したい。

その際、固定資産税の負担は免れない。

土地に対する固定資産税評価額の価格形成要因を調べると、下記の通りで

1.道路幅員や舗装などの道路要件

2.最寄駅からの距離や大型店舗距離などの交通・接近条件

3.下水道やガスの供給などの環境条件

4.都市計画用途や建ぺい率・容積率などの行政的条件

あたかも自治体に地代を払うような感覚だ。

だから、僕の団体は「固定資産税を負担する地主クラブ」のようなイメージだ。

「固定資産税を負担する人たちによる土地の共同保有と地域づくり」を目指す社団法人がふさわしい。

蛇足だが、僕が土地を財産と考えない理由はもう一つある。

それは「土地=地球」だということ。

土地所有権とは、他の人間に対して排他的に独占できる権利に過ぎず、すべての生き物を含む自然に対しては何の対抗力も持っていない。

土地売買のビジネスはますます盛んとなり、今や月の土地まで売買されている。

不動産投資そのものが金融商品化し、実際の土地を見ることもなく、不動産債権として活発に売買されている。

だがその陰で巨額の収益を得る企業以上に、税収をむさぼる政府の存在を僕は忘れない。

僕はこの世界を、マネーゲームの舞台でなく、命をはぐくむ地球として楽しみたい。

遠く、遠く

このところ、即席ラーメンを生み出す試行錯誤に、僕も毎朝悶々と付き合っていた。

だが今朝の「まんぷく」は、ついにてんぷらから麺を揚げることを思いついた。

久しぶりに気持ちよく番組が終わったので、そのままのんびりテレビを見ていたら、今度は次の番組で流れる歌が僕の頭を掻きまわした。

それは、梶原敬之の「遠く、遠く」という歌で、「遠く遠く離れた街で 元気に暮らせているんだ 大事なのは“変わってくこと” “変わらずにいること”」という部分がのんびりと流れていく。

“変わってくこと” と“変わらずにいること”・・・これはまさに、僕が今一番関心のあることだ。

「変わること」と「変わらないこと」は、互いを必要とすることだ。

そもそも変化とは、同じものが同じで無くなること。

子供が成長したり、性格が変わるというのは、一つのものが時間を経て違うものになることだ。

もしもそこにいた子供が、大人と入れ替わるなら、それを変化とは言わないだろう。

だから、子どものころの面影が無い、まるで別人のような人になったとしたら、それを変化と認識できる保証はなく、むしろ別人と思われてしまうかも知れない。

「実は同じ」だからこそ変化だと言える・・・と、僕はそう思う。

その意味で言うと、「同じ」という概念も似ている。

どんなにそっくり同じコップが二つあったとしても、それらはそっくりなだけで同じではない。

だが、どちらも「コップ」と呼び、区別なく同じ使い方をするという意味では「同じ」と言える。

本当の同じとは、それ自身のことであり、「あなたの友達と私の娘は同じ人」というのが正しい使い方だ。

つまり、同じとは、何かが同じかどうかを指すにすぎず、ほとんどの場合はそれ自身以外の違うものを指している。

僕は今取り組んでいる「土地の継承」についても、似たようなことが言える。

継承とは、そのまますべてを引き継ぐことで、変わるのは持ち主だけにしてその他はすべて変えてはならない。

文化や芸能を継承する場合でも、継承は忠実に行い、自分なりに変化させるのはその後の話だ。

引き継いだ途端に違うことをやるのでは、継承とは言い難い。

僕が相続を否定するのは、あくまで「相続は継承ではない」という意味だ。

法定相続人が複数いれば、財産を分割しなければならないし、たとえ一人がすべてを引き継いでも、高い相続税を払うため土地の一部や全部を売却することになる。

「相続」は、むしろ継承を妨げる断絶を招いていると言える。

考えてみれば、「売却」もまた断絶だ。

本来、継承することを望まれたら、お金を払うどころか貰いたいくらいだと僕は思う。

王位などの地位や、家督などの権利を継承するのに、お金を払うなど聞いたことがない。

いやなことや面倒なことにわざわざお金を払う人などいるはずがない。

つまり、お金を払うのは手切れ金のようなもので、いい所だけ引き継いで、いやなことはすべて捨てることが購入だ。

だが、一見都合のいい所だけ引き継ぐことが、本当に得なんだろうか。

僕はそうは思わない。

僕ならまず、すべてを引き受けて、自分に不要なものは、それを必要とする人にあげたいと思う。

自分で成し遂げ、終わらせることなら引き継ぎの必要は無いだろう。

夢を描いて語りながら、その実現を託すなら、夢を込めたバトンを作り、誰かに引き継ぐ必要がある。

だが、その夢を大切に保存して守り続けるのでなく、夢を叶える努力と夢の修正が必要なはずだ。

「大事なのは“変わってくこと” “変わらずにいること”」とは、「変わってくことは何か」、「変わらずにいることは何か」を考えることだ。

自分の町をどうしたいのか、そのゴールはふらふら変えるべきでは無いけれど、それを妨げる現状はどんどん変えるべき。

つまり、「変わること」と「変わらないこと」は、その両方があって初めて価値を持つのではないだろうか。

「する」と「させる」

ウィキペディアで「土地」を検索すると、次のように書いてある。

・・・・・

土地(とち、英 Land)とは地殻の表層部の内で海や湖沼、河川など恒常的に水に覆われていない地面であり、陸地・大地のことである。

また「土地の事情」、「土地の風俗・風習」などのように特定の地方や地域を示す場合もある。

土地には、一定の範囲の地面にその地中、空中を包合させる場合、河川や湖沼などの陸地に隣接する水域も含む場合もある。

地中の土壌土砂、岩石等は土地の構成部分にあたる。

・・・・・

つまり、土地とは、単に家を作ったり畑を耕す「場所」のことでなく、「地球」そのものだということだ。

だとすると、土地所有権とは何なのか、一体僕たちが売り買いや貸し借りする土地とは何なのか。

まずはっきりしているのは、売買の対象は「地球」ではないことだ。

そもそも人間が地球を所有しているなんて、誰が言えるだろう。

むしろ人間は、地球のおかげで生きている存在であり、地球に暮らす住人に過ぎない。

さらに言えば、今のところ地球以外には暮らせそうな場所は無いし、必要なものは全て地球から与えられている。

少なくとも「所有」に含まれる「持つ」という意味は、まるで当てはまらない。

土地を財産として所有しているというものの、その実態は減価償却できない謎の財産だ。

現金ですらお札や硬貨を作る原価がかかっているのに、土地(地球)に原価は存在しない。

したがって、土地の実態は「所有権」であり、所有とは「所有権を所有すること」を意味している。

売買や貸借しているのも、その実態は「所有権」なので、人間に対してなら主張できるが、ゴキブリやスズメには主張できない。

それでは「所有権」とは何なのか、ウィキペディアにはこう書いてある。

【所有権(しょゆうけん)とは、物の全面的支配すなわち自由に使用・収益・処分する権利。日本の民法では206条以下に規定がある。】

だが、この解釈は説明不足で、ほとんどの人が誤解している。

つまり、「自由に使用・収益・処分”する”権利」と書いてあるのでてっきりそれは所有者自身のことに思えるが、本当はそうではなく、「自由に使用・収益・処分”させる”権利」というべきだ。

つまり、自由な使用・収益・処分を「許可したり禁止する」ことができるので、「自分ができる」ということは「自分に許可した」に過ぎない。

したがって、いま増え続けている空き家とは、「自分が使わない」だけでなく、「他人の使用を禁じている」ということになる。

実は、日本国憲法が保障しているのは「財産権」であって、「所有権」ではない。

所有権は、財産権の一部分と考えられているので、空き家問題も外国による土地買い占めも、行政が介入できずにいる。

だが、所有権は財産権に含まれるのではなく、所有物に財産的な面もあるに過ぎない。

それはあたかもお金のように、他の財産と交換できることだ。

土地や建物に限らず、あらゆる所有権は、売買可能な財産だ。

だが、すべての土地が売買可能なわけではなく、例えば、北海道をロシアに売ることはできないだろう。

結局財産を売買できるのは、それが無くても困らない、余裕の分だからとも言える。

「土地を資産でなく資源と考える」という発想は、土地を売って儲けるのでなく、土地を使って稼ぐために働こうという提案だ。

土地の値段が上がり続ける神話はとうの昔に崩壊したが、土地が永遠の資源であることは間違いない。

地域社会の魅力や価値は、土地を永く使い続けることであり、ほとんどの不動産はそれに便乗しているに過ぎない。

相続税とは、たとえ土地を売らなくても、「売るための財産」とみなして課される税金なので、いずれ売るかも知れない土地ならば、課税されても仕方ないと僕は思う。

だが、そこにあり続ける土地や施設が地域社会の魅力や名物となるなら、相続人の数に合わせて分解し、さらに課税するなど愚かなことだ。

日本にはかつて多くの国が存在し、すべてが自立経済と独自の文化を持っていた。

明治維新以後の近代化により、土地開発と土地化が進み全体の経済力は飛躍的に成長したが、地域の魅力は過去の遺産に依存して、それを守るばかりだった。

地域の魅力に依存した、単なる商品のような住宅や施設がいくら供給されても、空き家や空店舗が増えるばかりで、ますます地域の魅力は失われていく。

それでも、滅びゆく地域の魅力や変わらぬ伝統を求めて外国人観光客が増え続けるのは、誰の目にも明らかだ。

だから僕は、地域を切り刻み、売り払う資産化から、地域社会を守りたい。

日本の価値は、地域の価値の集合に過ぎないことを、忘れてはならない。

いや、世界の価値だって、世界中の地域の多様性に他ならないと、僕は思う。

相続と継承の違い

先日初めて「地主業セミナー」を行った。

「相続しない土地継承」という副題は、これが単なる節税法ではなく、そもそも「相続しない」という選択肢があることを知ってもらうため。

でも、多くの人は「相続」に疑問を感じているわけではなく、相続の争いや負担の方に関心があるようだ。

僕の世代は61歳なので、自分の財産を残すより親の財産を受け取る方が身近な問題だ。

だから相続とは、遺産をどう分けて、相続税をどうやって払うかという問題だ。

だが僕のセミナーでは、そんな話は一切せずに、「そもそも財産を相続するか継承するかどちらにしますか?」という質問から始まる。

相続が「どう分けて、幾らもらえるか」なのに対し、継承は「何をどうやって引き継ぐか」ということだ。

相続で一番大切なのは相続人の権利だが、継承で一番大切なのは、継承する物事の存続だ。

相続の権利は納税の義務を伴うが、継承による存続に税金などかけようが無い。

これは、株式会社の株主が持ち株の相続に課税されるが、会社の経営権を引き継いでも相続など発生しないのと同じこと。

伝統芸能や技術はもちろんのこと、清水寺や金閣寺だって、継承するから存続する。

むしろ、人が暮らす普通の住宅や、オフィスやマンションの存続の方が、私たちが生きていく社会にとって不可欠かも知れない。

だが、これらを個人の財産にすることが、死後に残りを清算する「相続」という手続きを生み出した。

Wikiによれば、日本では1886年に華族世襲財産法により華族世襲財産の家督相続の規定がおかれ、1896年制定の民法は、華族以外の家にも家督相続制度を規定した。

その後、1905年の相続税法により、家督相続者に対する相続税の減額規定が設置され、家制度(家父長制)による富の集中が強化された。

この規定は次第に拡大され、1942年改正時には、普通遺産相続は家督相続の場合に比べ、税額が2.5倍以上にもなりうる状態が生じた。

もちろん世界の一般的な相続税の目的はこれとは異なり、国の人口全体に資する所得再分配を目的として置かれている制度である。

だが日本では、明らかに社会の基本構造としての家制度を存続するために、家督(家の財産)の継承が最優先された。

だが戦後、天皇制の廃止と民主化が大きな変化を産むことになる。

GHQが主導する民主化により、相続税法は法定相続人への分配方式となり、税率は所得税と同じ高さとなった。

(最高税率…相続税:55%(6億以上)、所得税:45%(4千万以上)+道府県民税4%+市町村民税6%)

だが結局、家督を分解することは地域社会の崩壊をもたらしたと思える。

そして、天皇制の廃止は国民主権を決定づけ、財産権の不可侵が憲法に記された。

土地所有者は、土地を使って何でもできる自由な支配権を手に入れたが、それと同時に何もせずに放置してもどこの国に売却しても責めを負うことも無くなった。

僕の言う継承とは、過去をではなく未来への継承だ。

自分の財産の死後の未来を、国と血縁者たちに委ねる相続か、自分で定めた道筋を引き継ぐ人々に託す継承か。

相続を望む個人の財産には、僕は全く興味ない。

だが、未来に託す継承なら、是非とも手伝わせてほしい。

それは託す側の願いでも、託される側の願いでも、どちらでも構わない。

継承とは、託されて終わるのではなく、次に託すことを託されることだから。

相続しない土地継承

笑恵館に学ぶ[地主業]セミナー

  • 笑恵館(しょうけいかん)は、個人所有の賃貸アパートの収益を活用した、地域の交流施設です。
  • 所有者の願いは、この施設の実現と、子どもに相続せず世代を越えて継続することでした。
  • 考えてみれば、[相続]とは人が財産を引き継ぐことであり、事業を続けることではありません。
  • そこで私たちは所有者と共に新たな法人を作り、笑恵館を法人に遺贈することにしました。
  • この[相続しない土地継承]のやり方は、まさに土地の収益で土地資源を守り続ける[地主業]です。
  • このやり方を日本中に広めたい・・・そんな思いで法人名を[日本土地資源協会]と名付けました。

 

対象:

このセミナーは以下のような方のために開催します。

  • 賃貸不動産事業を継承したいビルやマンションオーナーや、継承される方
  • 賃貸不動産事業の継承について相談を受ける不動産事業者や、各種専門家の方
  • 地主業を詳しく知りたい方、やってみたい方

時間:2時間程度

内容:

  • 地主業の仕組み
  • 相続税の取り扱い
  • 「笑恵館(しょうけいかん)」の事例紹介
    個別相談にも応じますので、気軽にお問い合わせください

定例開催

  • 毎週土曜日 午後 随時
  • 笑恵館にて開催します(無料・予約制)

訪問開催 随時・何名でも

  • ご希望の場所で開催いたします(3万円/回)

お問い合わせ

※ 当協会では、賛同して下さる土地所有者のご入会をお待ちしています。

講師・アドバイザー

一般社団法人日本土地資源協会 代表理事 松村 拓也

  • 1957年東京生まれ。
  • 42歳のときに経営していた中堅建設会社の倒産で開眼し、2ヵ月後に建設会社を再建。以後、多数の会社設立に参画
  • 内閣府地域活性化伝道師、一級建築士
  • 2005~2010年  IID(世田谷ものづくり学校)校長  (廃校活用)
    2006年~   株式会社なのに設立・平社員  (起業支援)
    2007年~   NPO法人カプラー設立・事務局長  (地域支援)
    2012年~   日本土地資源協会設立・代表理事  (地主支援)

無償で生きられる世界

NHKの朝ドラを見ながら納豆を食べるのが僕の朝のスタイルだ。

9月に終わった「半分青い」では、昔校長を務めた世田谷ものづくり学校が起業の舞台となってびっくりした。

そして、今度の「まんぷく」は日清食品の創業者安藤百福さんの話とあって、今後の展開が今から楽しみだ。

安藤百福さんで思い出すのは、電通をやめて世田谷ものづくり学校で起業したT君のこと。

彼がカップヌードルのCM「NOBORDER」シリーズの最後を宇宙船の中で撮るために、宇宙用のカップヌードルの開発を提案したところ、安藤百福さんは「即席ラーメン、容器付きラーメンに続く3つ目の世界初ならやろうじゃないか!」と答えてくれたという。

今朝の「まんぷく」は、終戦から半年ほどが経ち、戦地から家族も戻ったが、好調だった「ハンコや」ビジネスにも競合が現れ始めたので、そろそろ居候をやめて本格的な起業に挑む話。

ひょんなきっかけで「旧陸軍の古倉庫物件」に出会い、いよいよ引っ越しを決めた。

それを家族に告げるとき、主人公の福子が「引っ越し先の泉大津は海辺の町で、畑もたくさんあるから食べるには困らない」と笑って言った。

僕は最後の言葉「食べるには困らない」を聞いて、本当にうらやましいと感じた。

そして同時に、これこそが僕の目指す世界だと直感した。

「食べるには困らない」とは、言い換えると「お金が無くても食べられる」という意味だ。

例えお金を払えなくても、仕事や用事を手伝うことで、食べるものを分けてもらえることだと思う。

考えてみれば、食事にお金がかかるのは食料を産まない都会の話であって、食物を生み出す田舎ではそれを手伝うことで食事を分けてもらえるわけだ。

そもそもすべての生き物は、タダで生活しているわけで、人間だけがより豊かに暮らすためにお金を生み出したはず。

だとしたら、なぜ「誰もが食事に困らない世界」を作らないのだろう。

確かに、お金の力で贅沢ができるのは人間の特権かも知れないが、お金が無いと生きていけないのでは動物以下だと僕は思う。

もちろん、生きるのに必要な粗末な食事で構わないから、誰もが食べられる社会を作れないものだろうか。

例えば、一食200円だとすれば、1日600円だから、ちょっとした労働の対価と考えれば成り立ちそうだ。

たとえば、一人暮らし世帯への配食サービスをすれば、報酬として食事ができるとか、食事サービスとの組み合わせが合理的かも知れない。

雇用を生み出すというよりは、より大勢の人に無償の食事を提供し、起業や修行へのチャレンジを促したらどうだろう。

これは、住宅にも言えることだ。

最低限の住まいと住所を無償で提供できる社会はできないものか。

もちろん建物は狭くてもぼろくても構わない。

空き家であれば、掃除をしてきれいに使うことで、家賃と相殺してもいいと思う。

そして、衣類は古着を活用すれば何とかなるだろう。

こうすれば、最低限の衣食住を無償で提供できるかもしれない。

こんな世界を作ろうといくら叫んでも、そう簡単には実現しないだろう。

だが、所有者がその気になって空き家や余った部屋を使えば、すぐにでも実現できるはず。

こうした取り組みを、「国づくり」と名付けたい。

誰もが夢に挑むため、自分の土地や家を使って「失敗しても生きていける仕組み」を作ることだ。

かつて日本はそうだったことを、今朝の「まんぷく」が教えてくれた。

戦争を捨て、働けば食べられる国だったからこそ、日本は誰にもできない成長を遂げたのだと思う。

「働くこと」と「成功する」ことは違うことで、「生きること」と「豊かなこと」は違うことだった。

ところが今、儲からない仕事は価値を失い、貧しい人は生きていけなくなりつつある。

だからこそ僕は、豊かな人が貧しい人を「お金を使わずに助ける仕組み作り」に挑みたい。

貧富の格差を許容する代わりに、貧しい人も元気に生きていける社会を目指したい。

開くと閉じる

僕の拠点にしている「笑恵館(しょうけいかん)」の特徴は、施設が社会に対して開かれていて、誰でも自由に入ることができることだ。

こんなことを言うと、あなたは意外に思うかも知れないが、現代日本における民間施設は基本的に閉じていて、誰もが気軽に入ることができるのは公共施設しかない。

昔は多くの家は戸締りもせず、戸境も塀で仕切られていなかったので、僕が子供の頃は公園や道路で遊ぶことはめったになく、もっぱら他人の家をすり抜けて野良猫のように遊んでいた。

そしてたくさん叱られたが、歓迎されることもたくさんあった。

もちろん、すべての施設が閉じているわけではなく、店舗など他人を招き入れることが目的の施設もたくさんある。

だが、その多くは入場料の支払いや、買い物などの用事があることが条件であり、自由に入ってそこで出会いや交流を楽しむための施設はめったにない。

笑恵館にもパン屋があり、初めて来る人のほとんどがパンを買うためにやってくる。

だが一度来てみると、この施設がパン屋でなく交流を目的とした施設であることに気付くだろう。

そしてここが、個人の住まいであることを知り、さらに驚くという訳だ。

一般の住宅や施設が普段閉じられているのは、所有権が排他的占有権であることをよく示している。

所有権を調べると「自由に使用、収益、処分できる権利」となっているが、結局それは他人から邪魔されないことであり、邪魔者を寄せ付けない権利となる。

これが講じて現代社会はプライバシーが保護され、セキュリティが厳重になっている。

そして、邪魔されない権利だけが独り歩きして、自由な使用や収益処分は行われず、空き家や放棄地が増えている。

だが、施設を閉じたままでは使用できるはずはなく、閉じられた施設を使用する人は、所有者からカギを借りて施設を開ける必要がある。

つまり、「所有することは閉じること」なら、「使用することは開くこと」というわけだ。

だが、笑恵館は収益よりも使用や交流を目的としているので施設を無料開放する。

入居者のいないアパートの居室や、レンタル利用者のいない部屋は、施錠して閉じるのでなく開放して提供する。

こうして開放された笑恵館をレンタルしたり入居して使用する人には、その部屋を閉じる権利が与えられる。

あらかじめ予約して部屋をリザーブしたり、アパート部屋に鍵をかけられるようになる入居者からいただく料金は、閉じる権利=所有権に対する料金だ。

所有者として使用するからには、何でも自由にできるが、同時に所有者としての責任が生じる。

所有権で使用するとは「自分のものとして使う」ことであり、そこに自己責任が伴うのは当然のことだろう。

でも、いま日本社会に必要なのは自己責任でチャレンジすることだと僕は思う。

前例や実績にこだわるのは、責任を回避するためであり、そこに確信は存在しない。

僕が地主や所有権にこだわるのは、まさに前例や実績を生み出すためであり、それには自己責任の自由が欠かせない。

所有権を与えられ、それを閉じて独占する人には、開くことによって所有権を与えることができることを知って欲しい。

僕はこれを「国づくり」と定義し、地主の役割として確立したいと考えている。

閉じた土地を条件付きで開けられるようにする従来の使用権賃貸に対し、開いた土地を自己責任で閉じられるようにする所有権賃貸を推進したい。

そして「地主業」というビジネスに構築したい。

売らない土地で国づくり

僕が起業支援活動家と名乗るようになったそもそものきっかけは、1999年に自分の会社が倒産したことだ。

3年前に父から引き継いだとはいえ、まだ父が実権を握っていた会社の倒産は、僕にとって失敗でなくむしろ再建へのチャレンジだった。

そのおかげで僕は、破たんと起業の同時進行を体験できた上に、再生の機会を与えてくれた社会の存在に気付いた。

 

成功を求める「会社」は、時として失敗し破たんするが、継続する「社会」が失敗者を許容し、新たな機会を提供してくれる。

世界は、僕ら人間が「欲望を追求する会社」と「失敗に備える社会」で出来ている、と僕は思う。

だから僕には、地域社会の消滅や日本政府の破たんは許せない。

以前「継続しなくちゃ社会じゃない」と言ったのは「不死身じゃなくちゃ社会じゃない」と言い換えてもいい。

 

そこで僕は、起業支援の対象に「社会」を加えたいと思う。

さらに言えば、その社会とは日本政府に代わる選択肢を目指すので、「社会でなく国」と呼ぶことにする。

つまり、「起業支援」に「国づくり支援」を追加する。

そして、日本を国でなく世界とみなす、あるいは日本政府を中心とした連邦国家と考える。

その単位は「土地」とし、所有者を国民とする「土地国家」と考える。

 

日本最大の地主は、恐らく国有地を所有している日本政府だろう。

もちろん日本政府は安倍さんのものではなく、全国民が所有する土地を政府が管理しているわけだ。

ちなみに、日本国民とは国籍を持つ住人すべてを指す。

また、都道府県や市町村の所有する土地もあるが、これらも国民が共有していると考えよう。

 

問題は、残りの私有地=民有地の部分だが、これらは民間個人や法人が所有しており、政府や自治体は手を出せない。

公営の住宅や商業施設を除き、国民が生活する場はすべて民有地だ。

敗戦後の天皇制廃止によって、日本では本当に民が主となり、所有者を王とする国の集合体になった。

日本の民有土地所有権は世界最強であり、国家ですら介入できず、放置されている。

その証拠に、空き家や耕作放棄地など、使われずに放置されている土地や、中国による買い占めが取りざたされている土地はすべて民有地だ。

 

すべての土地を土地国家と考えることは、所有者が地主として自分の土地を考えることでもある。

登記上の所有者は一人かも知れないが、実際には家族が所有権を分かち合っており、家族も土地国家の国民と言える。

そして、土地の使い方や将来像だけでなく、どのように継承していくのかも家族全員で決めるべきだ。

継承し、永久に売らない土地だけが国家だ。

いずれ土地を売却する人もいるだろうが、世界では、そういう土地を植民地という。

 

国づくりを考えることで、社会の見え方が変わってくる。

もしも日本が世界なら、日本政府という大国のせいにしていても問題は解決しない。

たとえ小さくても僕たち民間の国々が、何をすべきかを考えたい。

そして、何でもできる所有権を使って、国づくりを始めよう。

シェアと共有

地主クラブとは、土地の所有権を活用できずにいる地主が仲間を募り、所有権を分かち合う取り組みのこと。

笑恵館クラブや名栗の森オーナーシップクラブは、いずれもこのコンセプトに基づいている。

しかし、ここで言う「分かち合う」とは共同所有のことであり、シェアリングとは意味が違う。

今日はこのことについて、少し考えたい。

 

シェアとは、配分とか比率という意味を持ち、「分かち合う」という言葉にふさわしい。

ワークシェアやカーシェアのように一つの物事を時間で分け合ったり、シェアハウスのようにスペースを分け合うなど、一つのものを細分化することで使用効率を高める考え方だ。

一方、共有とは細分化せず複数の人が共に所有すること。

もちろんシェアする使い方も含まれるが、みんなで一緒に使うこともある。

だが、それ以上に違うのは、自分で使う以外の所有権も共有することだ。

 

例えば、他の人に又貸しするとか、それで収益を得るとかは、シェアの範囲を逸脱する。

シェアとは基本的に物事を分け合うことなので、収益についても分け合うのがシェアの基本だ。

物事は分割可能だが、権利は分割できない。

シェアメンバーはシェアハウスを「自分の家」とは言えないが、家族なら例え子供でも「僕の家」と言える。

所有権の共有とは、まさに「家族」の関係を意味することになる。

 

「家族」と言えば、普通は親子などの血縁関係を意味するので、共有が「家族」を意味すると言っても違和感を感じるかもしれない。

だが、「家族」の中心である夫婦は血縁の無い赤の他人だし、子どもが生まれなければ養子を迎えることもある。

むしろ「家族」とは、「財産を共有し引き継ぐための組織」と言い換えた方が正しいのではないかと僕は思う。

 

そもそも地主クラブを思いついたのは、地主が孤立しているから。

空き家や放棄地などが増えるのは、いずれも地主の後継者がいないせいだ。

だが、後継者とは家族のことであり、土地の継承には家族が欠かせない。

昔の地主にとっての家族とは、後継者を育てる家制度という仕組みだったのが、今では財産を共有する血縁者組織となっている。

 

土地や家も単なる財産となり、所有者が亡くなれば相続人に分配されるが、これは財産のシェアでなく分割だ。

シェアとは1つの財産を分割せず、臨機応変に分け合うことに意味がある。

だが、財産は結局分割され、配分されてしまい、使いづらいこま切れ状態になってしまう。

 

共有とは、一つの物事を分かち合うだけでなく、みんなが持ち寄ってまとめることでもある。

かつて領主や地主が統治していた土地が、相続や売却によって細分化されたのが現状だ。

それらの土地は、さらなる分割配分のために売却され、使い道のない空き家が増え続けていくだろう。

だが、今必要なことは分割や配分でなく、連携や共有によって新しい地域社会を生み出すことだ。

住みやすい地域、商売しやすい地域、子育てしやすい地域などを作ることを「国づくり」と僕は呼ぶ。

 

お金でなく、権利こそが財産だと僕は思う。

換金せず、モノの状態で分かち合う「シェアリング」は素晴らしいが、モノでなく所有権そのものを分かち合う「共有」の実現を僕は目指したい。

そして、共有する仲間を作ることで、崩壊した家族を再生し、持続可能な社会を目指したい。

地域を作ろう

ツバル

アメリカの合衆国議会について、ウィキペディアにこう書いてある。

上院の定数は100議席であり、米国各州から2人の上院議員が6年の任期で一般投票によって選ばれる。2年ごとに3分の1の議員が改選される。議席配分が州の人口や面積などに関係なく各州一律2名となっているのは、建国当初に人口の多い州と少ない州で対立する利害を調整するためにコネチカット州の提案により生み出された策であり、「大妥協」(Great Compromise) と呼ばれている。

下院の定数は435議席で、議員は一般投票によって直接選出され、2年ごとに全議員が改選される。議席は各州の人口比に応じて配分され、各州において選挙区割りが行われ、単純小選挙区制度により各議員が選出される。

 

いきなりアメリカの例を持ち出したのは、地方自治について議論をしたいから。

日本の一票の格差は、世界的に見ても重傷だが、裁判所が「違憲状態」と言っても全然改善されない。

アメリカでは上院が70倍で下院が1.9倍の格差というのに、日本の参議院が多い時で5倍を超えていたのは、いかにも中途半端だ。

アメリカの上院が70倍なのに比べ、国連では最大の中国の13億人は最小ツバルの9,929人(バチカンの458人は例外として)13万倍だ。

だから、地域ごとに対等な上院と人数ごとに平等な下院の組み合わせは、面白い発想だと思う。

 

完全に人口比例で議席配分をして、一票の格差を無くすのが平等だと思うが、だとしたら地域ごとに議員を選出せず、単に人口に比例して選挙区を作ればいいはずだ。

それを、どうしても都道府県に合わせたいという意味が分からない。

そもそも都道府県は、どれだけ地域性を反映しているのか怪しい。

東京周辺の埼玉、千葉、神奈川県は完全に東京のベッドタウンであり、地元の立候補者など観たことも無い人たちだ。

地方自治体の選挙では選挙区など存在しないことを考えれば、単に選挙運動費の節約程度にしか思えない。

昔、選挙運動をしない青島幸雄が政見放送を提案したように、webなどのメディアを使う方法は幾らでもある。

 

一方、これが国ごとの選挙になると、突然一票ずつになるのはなぜだろう。

確かに日本の1票に対し、中国が13票あったらおかしいと思うが、それは日本と中国の何が対等だというのだろう。

僕はそれを「独立」だと思う。

たとえツバルの9,929人であろうとも、1つの国として独立していることに対する敬意の表れだ。

だったら、地方自治とは何なのか、国内のタダの線引きに過ぎないのか。

実際、地方自治の線引きは行政の区分けに過ぎず、そこに地域の独自性や独立性があるわけではない。

したがって、そこで選ばれる議員による議会は、行政のお目付け役に過ぎない。

そして、同様の区画から選ばれる国会議員は、当然地方議員のボスになり、地方自治体からも一目置かれる。

こんなの、ホントに民主主義か?、僕は大いに疑問を感じる。

 

僕は地主の学校を書くうちに、「国づくり」などと言いだしてしまったが、この頃本気になりつつある。

別に日本から抜け出して独立したいわけじゃないが、世田谷区とか砧町からは飛び出して、自分の地域をつくりたい。

そして、地域社会が担うべき役割を試しに自分で担ってみたい。

先日そんな話を世田谷区のYさんに投げかけた。

議会で政争に使われて、邪魔ばかりされるくらいなら、区役所でやるの辞めて笑恵館でやったらいい。

そしたら不思議な顔してた。

 

日本の歴史を振り返ると、黒船来航やGHQの戦後処理など結局いつも外圧があって、無理やり民主化を進めてきた。

自分たちが勝ち取ったのでなく、あてがいぶちの民主主義だから、誰も疑問を持たないが、そもそもおかしいと僕は思う。

でも、地域社会は自分たちで作るもの。

地方自治とは、地域の独立を尊重することのはず。

外国の土地買い占めを許してしまうほど、個人の土地所有権が守られているというのに、土地を使わずに売り買いしている場合じゃないはずだ。

 

そこで僕は、会員制の地主クラブを普及させたいと思う。

土地の維持費を割り勘で負担するメンバーを集めて、みんなで地主になるクラブ。

もしも不労所得を生み出す土地なら、それを財源に国づくりをやればいい。

この国の国民は住民じゃなく所有者なので、何でもできる夢の国だ。

そして近所の地主が賛同して入会すれば、その人の土地も国土になって、みんなが使えるようになる。

考えてみれば笑恵館も、名栗の森も、基本的にはこの発想だ。

すでに僕の国づくりは、始まっている。

 

今日で9月も終わりを迎え、地主の学校の書き直しは終わらなかった。

明日から、心機一転書きたいと思う。

「地主の学校」を「地主クラブ」に変えてみようか。

なんだか、そんな気持ちになってきた。

主従と主客

主従関係とは支配関係のことで、主客関係とは取引関係のこと。

つまり会社で言えば、主従は社長と社員で、主客は社長と顧客の関係となる。

あえてこの上下関係をまとめると「社員<社長<顧客」となるのだが、これが日本社会に様々な勘違いをもたらしている。

例えば、「お客様は神さまです」という言葉はあくまで社長から見た顧客のことであり、社員と顧客の関係ではない。

大衆和牛酒場のコンロ家が、店内に
「お客様は神様ではありません。また、当店のスタッフはお客様の奴隷ではありません。」
という張り紙を掲示して話題になっているが(http://news.livedoor.com/article/detail/15086360/)、お店という空間では顧客と社員は対等だという考えは正しいと思う。

 

一方、10年ほど前から役人が来庁舎を「お客様」と呼ぶようになったように思うが、市民と役所の関係は主客関係というよりは、むしろ主従関係のはずだ。

したがって、敬語を使えば十分だし、あえて呼ぶなら「ご主人様」というべきだろう。

これは、役人だけでなく、政治家も同様だ。

大臣の臣は、臣下のことであり、王様である国民の家臣であることを意味している。

だが、今の日本で安倍総理大臣を家臣と思う人はどれだけいるだろう。

家臣でなければ上司か顧客になってしまうので、あと考えられるのは身分が同じ同僚だ。

だとすると、役人が市民をお客様と呼ぶ理由が見えてくる。

つまり、すでに国民は日本という会社の顧客になっている。

 

日本政府が巨大な会社だとすれば、様々な疑問が解決する。

国民に行政サービスを提供し、その対価として税金を徴収する。

基本的人権は保障するが、残りのサービスは先着順で、受益者負担分の料金を徴収する。

税金は所得税と法人税と消費税の国税に加え、地方税として家賃のような固定資産税が基本なので、国民の経済活動を活性化する必要があり、あくまで成長を前提とする上場企業のような経営だ。

したがって、成長が止まると経営が成り立たず、社員である公務員は解雇もリストラもできないので、借金がかさむ一方だ。

経営合理化のために自治体の合併を繰り返し、総務省では現状の1724から1000まで減らすことを目指している。

半分の自治体が消滅可能性都市と言われているが、減らそうとしているのはむしろ政府自身だ。

しかし、不採算部門を切り捨てて、採算部門だけでも残そうとするのは会社であって国じゃない。

国は儲けるためでなく、存続するためにあるはずだ。

経済が発展しなければ成り立たないこと自体、すでに国としては失格だ。

 

本当は国民全員が日本の主(あるじ)なので、安倍晋三氏もその一人ということになる。

主が臣下を兼任し、その上最高位に着いたのだから、自分を主と勘違いするのも無理はない。

だが、諸悪の根源であるこの公私混同を、誰も指摘できずに手をこまねいているのは、やはり国民に主の自覚がないからだ。

僕が主にこだわるのは、第2次世界大戦で300万人も国に殺されたのは、日本人が主ではなく天皇の支配下にある臣民だったためだからだ。

現在僕たちが死なずにいられるのは、僕たちが国の主権者であり、憲法で戦争を否定しているからだ。

さもなければ、国家は戦争で人を殺しても罪には問われない。

さらに言えば、僕たち主権者には、法律に逆らい破る権利もあり、そのために裁判所が存在する。

そもそも法律を作るのは僕ら自身の仕事であり、それを政治家に代行させているに過ぎない。

 

だからこそ、たとえ小さな国でも自分が主になるために「国づくり」を提案する。

国づくりとは、自分自身が主となって、自由自在に土地を使うことだが、そのためにはまず地主になる必要がある。

もしも土地を所有していれば、あとは地主の自覚を持てばいい。

そしてもし所有していなければ、国にしたい土地の所有者の部下となり、一緒に取り組めばいいはずだ。

考えてみれば、家族関係は決して主客関係ではないはずであり、国づくりの継承も主従関係で引き継ぐべきだろう。

日本の土地所有権は世界で最も強い権力で、現に中国人が土地を買い占めているということがそれをよく示している。

だが、中国人に土地を売った所有者は、部下と思って継承したのでなく、客と思って売却したに違いない。

所有者は儲かったかもしれないが、国はこうして滅びていく。

中国は顧客として大切だが、僕たちは中国の臣下ではなく自分自身の臣下になるべきだ。

財産と権利

地主の学校の執筆に苦戦している。

はじめは僕自身の取り組みを紹介するためくらいの軽い気持ちで取り掛かったのだが、書き進むにつれて考えさせられる課題とぶつかり、その答えを見つけて書き加えているうちに、当初思っていたものとは少し違うものになってしまった。

でも、思考というのは不思議なもので、ひとたび広がってしまうと、もう二度と折りたたんで元に戻すことはできない。

その上、思考の広がる瞬間とは、この上なく気持ちの良いものなので、やめられない。

つまり、本の執筆からすぐに脱線して新たな思考を楽しんでしまう。

だが、こんなことをしているといつまでたっても本は仕上がらないので、本の題名は「地主の学校」から変更せず、急いでまとめたいと思う。だがだが、思考の広がりも止められない。

そこで僕は、このブログを書く。

 

今日書きたいことは、「財産と権利」についての考察だ。

僕は今、土地という財産をお金で売買するのでなく、無償で譲渡することによって後継者を育成し、貴重な土地を余らせている社会を変えたいと思っている。

だが、多くの人にとって土地を無償で譲渡することは理解しがたいようで、なかなかスッキリ説明できずにいた。

僕は、この土地問題に取り組むため、最初に日本土地資源協会を立ち上げ、土地を「資産」から「資源」に変えようと唱えてきたのだが、これはなかなかスローガンの域を越えられず、納得のいく説明ができていなかった。

ちなみにここで言う納得とは、僕自身の納得のこと。

たとえ聞く人が納得しても、僕自身が納得できなければ、相手の納得も信用できない。

だが、ようやくこの問題が解けてきた。

土地は財産と資源でなく、財産と権利に分ける必要がある。

 

「財産権」という言葉は、所有権をはじめとする物権のほか、債権、社員権、さらに著作権や特許権などの無体財産権(知的財産権)、鉱業権や漁業権などの 特別法上の権利を含む総称だ。

確かにこれらは、全て売買が可能だ。

だが一方で、「財産」とは「物事の売買可能な側面」を取り扱う言葉に過ぎない。

したがって、ほとんどの人がこの側面を利用して売買を目的にしているかもしれないが、すべての権利の本来の目的は売買ではない。

例えば、所有権は所有が目的だし、著作権は著作物の支配が目的だ。

これらすべてを財産として売買することは、優れた人間の発明だとは思うが、その魅力にのめり込んで本来の目的を忘れることは恐ろしいことだ。

土地の処分と言えば「売却」と思い込んでいる人が多いが、それをいうなら「譲渡」のはず。

つまり、土地の所有権を手放すのにお金をもらうかどうかは関係ない。

だが、このことを説明するのがとても難しい。

 

そこで僕が思いついたのは、土地を売買用の資産と所有用の資源に分けるという方法だ。

売買用の資産は常に不動産マーケットで価格が評価され、いつでも売買できるようにし、所有用の土地資源は永続所有を原則として不動産マーケットには出さず、商品でなく地域社会そのものの価値を担って地域の不動産商品の価値向上に貢献する。

永久に売却しない土地ならば、その価格など意味を持たず、売却できない所有権なら無償で譲渡しても問題は無い。

それは、会社の社長がその地位を無償で継承するのと同じことだと僕が説明すれば、皆さんはなるほどと言ってくれた。

だがそれでは、僕自身が納得できない。

それは、所有と経営の分離であり、会社は株主が所有していて社長はタダの管理人だと言っているにすぎず、土地の所有者が所有権をタダで譲る説明はできずにいた。

 

でも、「財産と権利」がこの疑問に見事にこたえてくれる。

所有権を財産権と支配権に分けて、財産権を放棄した支配権を定義すればいいと思う。

僕が引き継ぎたいのは財産権でなく支配権であり、地主とはまさに土地の支配者のことなんだ。

てなわけで、ようやく僕は所有者と地主の違いを明確にできた。

これでやっと地主の学校の執筆が再開できるし、できればこのまま書き上げたい。

次の面白い疑問に出会わないことを祈り、でもちょっとだけ新たな疑問に期待しつつ。

小さな国のお留守番

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地主の学校を予定通り8月中に書き終えた。書き終えたと言っても、最後のページまでひとまず書いたというだけで、読み直すと直したいところだらけだが、それでも〆切を守ってとりあえずやり遂げた。そして、引き続き内容を整理し、判りやすく面白くすることや、出版社を探して売り出すことなどやるべきことはたくさんあるが、もう一つ大切なことを思いついた。それは、これまで取り組んできた起業支援に加えて、本格的に「国づくり支援」を行うこと。たぶんこれこそが僕の目的で、本を作ったのはその手段に過ぎない。だが、このアイデアが生まれたのはこの本を書くプロセスでの出来事であり、本を書くことがこんな形で自分のためになるとは、想像もしていなかった。

 

起業が新たなビジネスを生み出すことであるように、国づくりとは新たな国を生み出すチャレンジだ。ここで言う「国」とは土地や地域のことだが、「町や村」と呼ばないのは、世界を相手に自由に発想するためだ。世界は多くの国や地域で出来ているが、そこには何の規格も基準も存在せず自由な自己申告制だ。だから町でも村でも、ご近所でも一軒の家でも、国になれない決まりはない。もちろん国として独立するには、周辺諸国の承認が必要なので、頭の固い日本政府を口説けるとは思えないが、別に正式に独立しなくても、やりたいことをやればいい。結局「地主の学校」という本は、国づくりのマニュアルのような内容になってきた。

 

国づくりの目的は、そこを永続的に良い場所にすること。一般的にビジネスは、永続性を求める必要は無いが、国づくりは土地の魅力を作る取り組みなので、土地とともに永久に続かなければ意味がない。僕の居場所・笑恵館では、建物の無料開放、交流の促進、そして500円の入会金で家族になれる会員組織に所属できる。これまで「笑恵館は何ですか」と尋ねられても、僕自身的確に答えられずにいて、「民営の公民館」とか、「本格的な住み開き」などとごまかしてきたが、これから僕は「小さな国づくり」と堂々と答えたい。そしてここから、国づくりの普及活動を始めたい、

 

国とは土地のこと、だから土地所有者がいればすぐに始めることができる。自分の土地を国にするのであれば、所有者が地主になれば良い。地主とは王のことなので、地主の許しがあれば何でもできる。もしもあなたの土地が小さければ、近所の仲間を誘って連合国や連邦にしてもいい。もしも土地が遠方にあるのなら、近所の人を大臣にして協力してもらえばいい。そして、あなたが所有者でなければ、国を作りたい場所の所有者を説得して王になってもらえばいい。所有者は個人でなくても構わないので、むしろ団体や会社が事業を行いながら国を作るのも素晴らしい。ちなみに笑恵館では賃貸アパートなど所有者の収益はすべて国の運営に使っており、オーナーは常駐管理人として働いていて、今やご近所でも有名な働き者の女王だ。

 

そんな女王が、先週末からピースボートに乗って世界一周の旅に出た。留守中は、事務局の僕と、せたがやブレッドマーケットのO夫婦が中心となって、留守番シフトで対応する。そんなわけで、今日から僕は下記の時間は必ず笑恵館で作業することになった。

月曜日9時~18時
木曜日13時~19時
土曜日9時~18時

木曜日は、笑恵館に関する会議や業務に負われてしまうが、月曜と土曜は比較的時間があるので、皆さんのお越しをお待ちしている。東京・世田谷の一軒家で始まった小さな国づくりプロジェクトを、ぜひ見に来て欲しい。そして、あなたの国づくりプランを聞かせて欲しい。