余りと不足

空き家問題というと、家が余っている問題に思われる。確かに住宅は供給過剰で、賃貸住宅の2割が空いている。その結果、入居者の取り合い、家賃の暴落、賃貸事業の破たんなど、大家にとって受難の時代だ。だが、生活者の側から見れば、家賃が下がるのはいいことだし、大家の苦しみなどぜいたくな悩みにすぎず、結局大した問題にはならないだろう。しかし、使われないものが増え続け、それが大した問題にならないということ自体、相当おかしな状況だと思う。この状況の問題点が見えにくいこと自体、深刻な状況なのかもしれない。要らないものが増えている裏側で、必要なものが減っているとしたらどうだろう。必要なものがいらないものに変化しているとしたら、それは深刻な問題だ。

そもそも、家が余るのはなぜなのか。余った家がそのまま放置されているのはなぜなのか。本来、使われないものは捨てられるはずだが、家や土地は捨てられないからそこに残ってしまう。捨てられない土地は誰かに売るしかないのだが、買い手がつかなければ売ることもできずに余ってしまう。売れないのなら、誰かにあげればいいのだが、貰い手がいないので余ってしまう。つまり土地は、タダでも引き取り手のない「ゴミ」となってしまったのだろうか。そんなはずはない、いくら何でもタダなら引き取り手がいるはずだ。日本の土地なら中国人がどこでも買うという話を聞いたことがあるが、あながち嘘でもないだろう。だが、先日ある財団の方が「包括遺贈で寄付を受けた土地が売れなくて困っている」と話していたことを考えると、ただの土地すら余っているのが実情らしい。どうやら土地は本当に余っているらしい。だとすると、足りないのは土地の需要の方なのか。

土地を必要としている人は、確かにあまり見当たらない。笑恵館周辺の住宅地には、大きな邸宅がたくさんあるが、いずこも暮らしているのは高齢夫婦や単身者ばかりで、やがて相続が発生するとほとんど例外なく取り壊され小さな建売住宅が立ち並ぶ。相続人が大勢いたり、相続税が高かったり、いろいろ事情はあると思うが、でも、たとえ相続税を払えたとしても、そもそも古い大邸宅を誰も欲しいと思っていないのかもしれない。大きな家に住んでみたいと、心の中では思っても、実際には維持費も経費もかかる上に、手入れや掃除も大変だ。大家族で暮らすのでなければ、持て余すのは確実だ。すっかり高齢化した住宅街が、まさにそれを物語っている。世田谷ですらこうなのだから、さらに郊外や地方都市では大きな屋敷が余るのだろう。どんなに供給過剰と言われても、住宅ローンで買える建売住宅や、シンプルな賃貸住宅の方が求められているのが現実かも知れない。

それでは、大きな物件、不便な物件、古い物件など今余っている土地や建物は、かつては誰が必要としたのだろう。それは、その家の子供や奉公人などの家族が引き継いだり独立するのに必要だったはず。むしろ、昔の「家族」は会社に近い存在で、家が所有する土地や建物は長男が家督として引き継ぐことで、その分割や分散を防いできたほどだ。それが、家業を捨てて就職し、サラリーマン化することで大家族は核分裂し、勤め先と住まいも遠く離れて仕事場と住宅が完全に分離した。もはや、「地域で工夫して生きていく」ために不可欠だった「家賃のいらない自由な土地」は、無用の長物となりつつある。そういうことか。「家賃のいらない自由な土地」を必要とする人々こそが、今不足しているということか。

だとすれば、使わない土地を売らずに持っている人々は、そんなニーズを待っているのかもしれない。「どうかその土地を、私に使わせてください」という申し出を待っているのかもしれない。さもないと、土地は「売る」しかないのだが、所有者の望み通りに使ってくれる人が買ってくれるとは限らない。考えてみれば、大多数の土地は買ったのではなく祖先から譲り受けたもののはず。できればそれを売るのでなく、その場にふさわしい姿で使ってくれる人に「引き継ぎたい」と願うのは当然のことだ。土地は確かに余っている。だがその原因は、所有者が譲りたいと思う「もらい手」が不足しているのが原因なのではないだろうか。この問題を解決するには、「家賃のいらない自分の土地を自由に使いたい人」を広く募ることだ。「土地が欲しい」というニーズを高め、「土地不足」の状況を作らなければ、社会は動かないのではないかと思う。