相続の辞め方

自分で購入した不動産なら、寄付してもほとんど税金がかからないことは、あまり知られていない。

その理由は簡単で、せっかく苦労して購入した不動産を、他人に寄付するような奇特な人はいないから。

だが、もしもその寄付する相手の法人が自分自身だったらどうだろう。

土地や建物を非営利法人の所有にすることで、相続せず世代を超えていつまでも活用し続けるのが僕の本業だ。

これまでは、主に先祖から引き継いだ土地をこれ以上分割せず、活用したいと願う方の相談に乗ってきた。

でも今日は、苦労してローンを払い終わった土地や建物の永続化についてお話ししたい。

不動産の寄付とは、個人や非営利団体に無償で譲渡することだ。

例えば1億円の土地を株式会社に無償で譲渡すれば、会社側には1億円の売り上げが発生して法人税が課税されるが、これが非営利法人であれば寄付収入となり課税されない。

ところが、そもそもその土地の所有者が相続など無償で取得した場合は、市価から取得費用(実費ないし5%)を差し引いた所得があったものとみなされて、譲渡所得税(10年以上保有していれば20%)が課税される。

無償で寄付するのに課税されるなんて、全く理不尽な税金だが、最大税率55%の相続税より少額ならば、十分検討の価値はある。

だが、今日お話ししたい「土地代を払って購入した人」にとって見れば、譲渡所得税などほとんど関係ない。

むしろ、多くの場合購入時より値下がりしているかも知れないのに、相続税は容赦なく課税されることになる。

僕は決して税逃れの提案をしているわけではなく、相続そのものを辞め、キチンと財産を継承しようと言っている。

特に土地は永久に減ることのない「地球の一部」だ。

確かにこの方法は、これまで多くの資産家たちが使った税逃れの王道テクニックだったので、一昨年の法改正で、厳しく取り締まられるようになり、非営利法人に対して「非営利徹底型法人」となることが求められるようになった。

そのため、多くの資産家たちがこの手法を諦めたと思われるが、これに飛びついたのが僕だった。

この法規制が取り締まるのは、一族による法人支配や便宜の提供の禁止であって、事業内容については何の縛りもない。

譲渡所得税とは、別名キャピタルゲイン税とも呼ばれ、不動産以外にも株式など価値が変動する資産を対象に、その値上がり益に対する課税制度だ。

したがって、常に額面通りの価値しかない「現金」については全く対象外なので、現金寄付も様々活用することができる。

不動産がうまく活用できなければ、買い替えも可能だし、一部を現金化して建設資金に充ててもいい。

一方、一族への便宜や利益配当など一切できないが、労働や業務への妥当な対価なら制約は無い。

事業継承とは、あくまで事業に従事して働くことであり、遊んで暮らす不労所得を得ることはできない。

だが、仕事でなくお金をもらうだけの後継者が、放蕩三昧で財を食いつぶしていくのは、当然のことだろう。

本当の財産とは、何もせずに楽に暮らせる金でなく、活用することで新たな利益を生み出す資源のことだと思う。

また、一族の独占を防ぐため、同族の役員が1/3を超えてはならないという規定があり、2/3以上は他人の構成員が必要だ。

だが、そもそも家族だけに依存する継承は困難であり、永続性を考えれば他人の参加は欠かせない。

むしろ3家族以上が連携すれば、この条件は簡単にクリアできる。

さらにいえば、互いが出し合った土地を売却してまとまった土地に買い替えてもよい。

つまり、複数の土地を一法人で所有することにより、様々なやり取りややりくりが自由に行える。

やっとの思いでローンを完済し、ようやく「小さな自分の国づくり」を楽しめる時期が来たのなら、その国を自分で作った法人に所有させ、続きを次の世代に託したらどうだろう。

63歳になった僕の周りには、そんな友達がたくさんいる。

こういう法人を作るなら必ず呼んで欲しいし、法人の作り方ならいつでも教えに行く。

そして、あなた自身の小さな国づくりこそが、僕が手伝いたいあなたの起業だ。

そうだ、相続なんかやめて、僕らの小さなバチカン(国)を作ろう!

土地相続の辞め方

先日僕は、遺言の説明会に参加した。

自宅で料亭を営むSさんには息子と娘がいるのだが、料亭を立ち上げた妻が6年前に亡くなった後は、息子の妻が料亭の運営を引き継いでくれた。

だが、年を取るにつれSさんはこの料亭の将来に不安を感じるようになってきた。

あくまで法定相続人は、血縁のある息子と娘であり、大切な息子の妻の取り分はない。

そこで、息子の妻を養女に迎え、相続の取り分を確保したのだが、料亭の継続のためには相続税の心配以前に土地の分割を食い止めなければならない。

そこでSさんは、日本土地資源協会(以下協会という)への包括遺贈を決意し、親族を集めて協力を要請することにした。

遺贈(いぞう)とは、遺言により相続人以外の個人や法人に財産を無償で譲ること。

遺贈には財産を特定して遺贈する「特定遺贈」と、財産全部または一部を割合だけを定めて遺贈する「包括遺贈」の2種類がある。

Sさんの場合は、全財産を協会に包括遺贈する旨の遺言書を作成することにしたので、3人の相続人に対する相続は辞めたことになる。

さらに言えば、法定相続人には法律が定めた「遺留分」という権利があり、たとえSさんが包括遺贈を求めても子供たちは遺留分を求める権利がある。

これに対し、あらかじめ協会は「すべての相続人の合意が無ければ包括遺贈を放棄する」と宣言した。

そこで、この説明会の目的は、Sさんが自分の願いを子供たちに説明し、料亭の存続と包括遺贈に対する合意を作ることだった。

息子とその妻は、もともとこの案に賛同していたので、心配は嫁いで家を出ている娘だけだった。

さらにその日は、Sさんの妻の七回忌の法要で、妹家族のほか息子の前妻家族も参加していた。

だが、誰もがSさんの思いを快く受け止めて、「何よりも実家が存続してくれてうれしい」と賛同してくれた。

実を言うと、Sさんには過去に作った借財がまだ残っていて、この料亭の存続は容易とは言い難い。

でも、事業の存続・継承とは、そういうものだと僕は思う。

だから、家族の皆さんの賛同は、Sさんにとってはもちろんのこと、これから料亭の経営再建に協力する僕にとっても、何よりの励みとなった。

遺贈によって土地所有を法人化し、永続的な土地利用に取り組む事業としては、僕にとってSさんの料亭が笑恵館に続く2件目の事例となった。

そもそも今から7年前、相続による土地分割を望まない土地オーナー(田名さん)との出会いから、僕は相続制度の弊害に気づき、土地継承に関する「相続以外の選択肢」を模索し続けてきた。

はじめは公益法人を目指したり、土地所有者に地域社会への貢献を呼び掛けたりしてみたが、なぜか違和感のようなものを払しょくできず、事業に本腰が入らなかった。

だが、そのおかげで、僕が一番大切に思うことは「自発性」ということに気が付いた。

たとえどんなに時間がかかる遠回りでも、「自分の意思でやる人」と出会わなければ僕の目指す「永続」は叶わないと思う。

というわけで、僕は引き続き「土地相続の辞め方」について、語り続けることにした。

今、多くの土地所有者が、土地相続に伴う土地分割や売却を、運命のように諦め、受け入れている。

だが、それ以上に「相続したくない」、そして「相続できない」という人が増えている気がする。

土地を引き継ぐ人に相続税の負担をさせたくない。

土地を引き継ぐ気の無い人に土地を相続したくない。

土地を引き継いでもらいたいのに相続させる人がいない。

そんな人たちに僕は言いたい。

土地相続の辞め方・教えますよ!

主役の自覚

いよいよ消費税の増税が実施される。

今回の消費増税は、すでに何度も見送られてきただけでなく、軽減税率やポイント還元など、まるでどこかのバーゲンセールのような有様だ。

この増税が、国民の合意のもとに行われているとはとても思えないし、僕自身納得できないから先日「消費税廃止」を主張する令和新撰組に投票までしてしまった。

だが、ここに来て増税に反対する目立った動きは見えてこない。

恐らく消費増税は、着々と実施されるのだろう。

それは結局、大多数の国民が心の中では反対していても、増税を容認しているからだろう。

この国は、コンセンサスを目指すのでなく、大多数の容認の下に運営されている。

僕が再生したい「地主」とは、こうした諦めに立ち向かう人のことだ。

明治維新で廃止されるまで、地主の主な役割は「年貢のとりまとめ」だったそうだ。

当時の国民は「民(たみ)」と呼ばれ、国の支えと位置付けられてはいたが、決して人間ではなく、家来以下の存在だった。

そんな民に与えられた土地所有権は、年貢などの税の割り当てに過ぎなかった。

人々は税を免れるために、土地は小さく、間口は狭く、軒高は低く抑えることに励んだ。

だから、当時の社会の主役は「税を取り立てる領主」であり、領主に使える武士や地主が脇役で、民はその僕(しもべ)だった。

だが、このやり方でも社会が成立したのは鎖国している間のことで、西欧列国が現れるとそうはいかなくなった。

昔の税金にあたる租庸調(そようちょう)とは、食物、労役、織物のこと。

こんな「現物納税」で国が成り立ったのは、所詮、前近代的な自給自足の社会だったからだろう。

そこで、1873年に明治政府は地租改正(ちそかいせい)を行い、年貢を排して地租という税金を土地に課税した。

税金を納めるために、作ったコメを売るだけでなく、他の事業を起こしたり、土地を貸したり売ったりすることで、お金の経済が回り始めた。

その後の日本は猛烈なスピードで近代化を推し進め、1889年には衆議院選挙が行われた。

だが、この時選挙権を与えられたのは、「満25歳以上、直接国税15円以上を納める男子」とされている。

つまり、15円以上の税金を払う男だけが「国民」として認められたとも言える。

もちろんこの時はまだ、日本の主役は「天皇を担いだ明治政府」であり、先進列国の仲間入りをするために民主主義の体裁を整えたに過ぎない。

それにしても、当時の納税者とはどんな人だったのか。

Wikiによれば、日本の税制度の歴史はこんな感じ。

1873年:地租(国税、地租改正、地券表示の土地価格3%、現金納付)、地租付加税(地方税)、印紙税、駕篭(かご)税(1年間で廃止)

その後、1875年:煙草税導入、1878年:船舶付加税、1882年:家屋税、1885年:醤油税(1926年廃止)、1887年:所得税、1888年:家屋税付加税。

つまり、選挙が始まった1989年当時の納税者とは、ほとんどが「土地所有者」だったと思われる。

ちなみに、地租(現在の固定資産税)とは、国や地方自治体が所有する官有地を除く「民有地」だけに課される税金だ。

だから、土地の登記も民有地しか行われずに、官有地はそれぞれの官庁が行っている。

余談だが、尖閣諸島は民有地だったので中国に対抗して国有化を行ったが、竹島には登記簿謄本は存在せずもはやなす術はないという。

いずれにせよ、明治政府は土地所有者から地主の役割を自治体に移すことで、「官と民」を分離して、土地所有者を国民とみなす民主国家を作り上げた。

その後、資産を持たない貧しい人々を戦争に駆り立てて、日本は国の名のもとに多くの人々を殺してきた。

そしてついに、1945年の敗戦によって、世界最先端の「戦争しない民主国家」がスタートした。

日本の主役は天皇を担いだ政府から、納税や性別など何にも限定されないすべての国民に移ったはずだ。

だから、政府も国会もすべての「官」は、「民」のサポート役のはず。

国民自らが税金を集め、それを財源にして「官」に仕事をさせる社会になったはず。

でも、敗戦当時、日本の政府や議会は解体されることなく、戦前の仕組みがほぼそのまま復興を担うことになった。

そして今も、戦前の政治家や官僚の子孫たちが、この国の政治や行政を担っている。

もちろん彼らもみな国民なので、それを阻む理由はない。

だが、僕ら国民に「主役の自覚」はあるのだろうか。

そこで僕は、地主の再生を提案する。

形だけの民主主義を担うため、土地所有者という納税者にされ、かつての地主は滅びていった。

だから今度は、誰もが参加出来る法人組織が土地を所有することで、国民自身が国土を所有し担う社会を目指したい。

でもそのためには、国や社会を自ら担う「主役の自覚」が欠かせない。

もちろん誰もが主役になれるわけではないし、むしろ僕たちは、訪問者や脇役として多様な世界を楽しみたい。

だが、たとえ小さくても、辺鄙なところでも、世界に一か所くらいは「自分が主役になる地域」を持っても良いと思う。

そんな場所を故郷と呼んで、誰もが故郷作りに挑んだらいいと思う。

地主の目的

日本土地資源協会を設立したのは2012年の9月11日、今からちょうど7年前だった。

そのきっかけとなった笑恵館のオーナーTさんとの出会いはその年の5月ころだったので、僕はこの法人をたったの4か月で生み出したことになる。

その2年後には笑恵館がオープンし、プロジェクトは順調に進んだかに思えたが実際には そう簡単な話ではなかった。

笑恵館という一つのプロジェクトは、会員数も増え続け永続化に向けて順調に推移しているかもしれないが、この法人は名前の通り、日本中の土地問題に挑むことを目指している。

だから僕にとって、一宮庵(いっくあん)という2つ目のプロジェクトに着手できることは何よりうれしい。

「土地所有の法人化を普及するために日本土地資源協会を設立した」という説明が、ようやく嘘でなくなった。

だが、初めてと2回目はこんなに違うことなのか。

笑恵館では、受けた相談の解決に挑んだが、今度は先に事業スキームがあり、それを説明する順番だ。

そこでぼくは、導き出した答えを分かりやすい絵に描いてみたので、その説明を練習したい。

このイラストは3人の人たちの関係を描いている。

左側に土地所有者(OWNER)、右側に土地利用者(USER)、そして真ん中にいるのが僕たち(LR)だ。

(LRとはLand Resourceの略で、土地資源のこと)

僕たちの役割は、土地の所有を法人化することで土地を永続的に使用できるようにすることだ。

そのためには所有と使用を分けて、僕たちがその間に入ることにした。

そもそも土地の所有者は、土地の賃貸や売買をするだけの所有者でなく、土地を使う利用者でもある。

土地所有は財産とみなされてその継承は相続扱いとなるが、土地利用は事業でありその継承は相続の対象とはなりえない。

だからこそ、土地の所有と利用を分離して、土地を利用する後継者を育てることが永続的な土地利用には欠かせない。

それに対し、土地所有の後継者(相続人)が大勢いればいるほど、土地が細切れになる上に争いばかり起きるのは、何とも皮肉なことだ。

利用者から発する矢印は、お金の流れを示している。

利用者はLRに対し土地の利用料(賃料)を支払うが、LRは所有者に対し、固定資産税などの負担経費分を賃料として支払う。

そして、賃料収入から所有経費を差し引いた収益を、利用者に還元するのがLRの役割だ。

もちろんこれは、単なる利益の還元でなく、その土地を地域社会の魅力にするための「業務委託費」だ。

通常の所有者にとって、この差額が不動産収益となるのだが、このスキームでは所有と利用を分けているので、土地利用に関わる所有者だけがこの収益を得ることができる。

さらに言えば、それは業務委託費なので、不労所得でないことを忘れないで欲しい。

土地所有が不労所得を得る権利なら、土地利用はそこで収益を生みだす仕事を得る権利と言える。

こうすることで所有者から生まれた利用者は、所有者が負担すべき固定資産税を負担するだけで、土地利用に挑めるようになる。

笑恵館で生まれたこのスキームは、すでに5年を経ることで確立できたと言い切れる。

土地資源のオーナーは、所有者として所有経費分の賃料を得て、利用者として施設運営の業務報酬を得る。

やがて所有者が死ぬときは、包括遺贈によって所有権をLRに委ねるだけ。

その時、すべての相続人の理解と協力を得ることと、土地利用の後継者を育てておくことが、今の僕たちの役割だ。

LRが所有者となった後は、このイラストの通り究極の所有者である日本政府に固定資産税という家賃を払い続けることになる。

そしてLRは不死身の法人なので、相続とは関係ないし、利用者の関係もいつまでも変わらない。

もちろん利用者は、土地利用の後継者を育てるため、血縁にこだわらない新たな家族を育てることになる。

かつての地主が封建社会の象徴であったのに対し、僕たちは新しい民主社会の地主を目指す。

それは、日本土地資源協会から広がる「土地所有法人と土地利用組織」のネットワークだ。

土地所有は非営利法人化によって相続の分割を回避し、土地利用は自由に独自性を追求することで地域の魅力を担いたい。

地域社会の魅力に便乗して相続税や不労所得を生み出すばかりでは、地域の衰退は止められない。

むしろ、土地が生み出す収益を、地域社会の魅力を作る業務に使いたいと僕は思う。

そして、他でもない「自分自身が地域の魅力になること」、これこそが新しい自分の仕事だと僕は思う。

だから土地を所有する法人は、非営利かつみんなの組織がふさわしい。

これからは土地所有を商売にするのでなく、土地の利用者として生きつづける地主を目指したい。

自分自身がまちになる

自分の土地をまちづくりに役立てたい。

自分の土地をまちの魅力を担う施設として運営し続けて欲しい。

土地の所有者からそんな相談を受け、僕は引き受けた。

それを実現するためには、所有者と共にその実現に取り組み、所有者が死んだ後もそれを引き継いでやり続ける仲間が必要だ。

そこで所有者の夢に取り組む仲間たちと共に法人を作り、所有者が「すべての財産をその法人に遺贈(いぞう)する」という遺言書を書くことで、所有者の死後はその法人が土地の所有権を引き継ぐことにした。

この方法は、所有者に相続人になる親族がいなければ簡単だが、相続人がいる場合はそう単純にはいかない。

たとえ所有者がすべての財産を法人に遺贈したくても、相続人には「遺留分(いりゅうぶん)」の権利があるからだ。

すべての相続人がこの遺留分の権利を主張せずに協力してくれなければ、法人への遺贈は実現しない。

つまり、すべての相続人に財産を相続しないことを告げ、理解と協力を得る必要がある。

ここで一番大事なことは、所有者や相続人でなく僕自身の気持ちだ。

提案を受ける人にとってまず必要なことは、提案者がどうしたいのか、どうなることを望んでいるかだと思う。

だから僕は「相続人には遺留分を諦めてもらうだけでなく、法人に参加して所有者の願いの実現に協力して欲しい」と、自分の願いをはっきり言う。

つまり、僕の願いは「所有者の願いを叶えること」であり、それは所有者を代弁しているに過ぎないことだ。

だから、これに対して異を唱える相続人は、所有者の願いより自分の取り分が大切ということになる。

ここから先の議論には、僕は関わるつもりはない。

親が死んだ後のことは、親子でじっくり話して欲しい。

所詮相続争いとは、親の生前にこういう議論をしないからだと僕は思う。

もちろんその原因は、所有者の側にある。

自分の財産を使って何を成し遂げたいのか、ほとんどの人が自分の夢をきちんと描いていない。

財産は、何かを実現するための資源のはずなのに、実現したい夢が無ければただのゴミになるどころか、争いの種になるだけだ。

その議論を促すために、僕はこの遺贈に条件を付ける。

すべての相続人の同意が無ければ、法人はこの遺贈を放棄する。

夢を叶えるということは、損得や善悪の問題ではない。

だから決して多数決でなく、全員一致でなければ意味がない。

先日開催した地主の学校②で、土地の所有権移転登記に関連して、承継について次のように解説した。

「所有権移転をもたらす承継には、一般承継と特定承継の2種類がある。一般承継とは、前所有者の有する権利・義務の一切を承継することで、自然人については相続が、法人については合併があてはまる。特定承継とは、前所有者の有する権利・義務のうち一定部分を承継することで、売買が典型例である。」

ここで言う「相続と売買」の比較が面白い。

相続はすべてを引き継ぐことに対し、売買は一部を引き継ぐこと。

つまり、売買は都合の良い部分だけを引き継いで、それ以外の手切れ金としてお金を払うわけだ。

所有者の願いをかなえるためには、引き継ぐ側の都合でなく、まずはすべてを引き継ぐ必要がある。

だからこそ、売買でなく相続に準じた「遺贈」という手段を僕は選んだ。

今日は突然、遺贈や遺言書の話をお聞かせして、びっくりされたかも。

実は来月、ある土地所有者の親族会議で「遺言書説明会」を開催することになったので、今の僕は「遺言書づくり」の真っ最中だ。

という訳で、「地主の学校」と「土地遺贈スキームの構築」が同時進行中で、話が錯綜することを許して欲しい。

でも、これらの議論は、すべてが未来につながっている。

「まちづくり」や、「むらの魅力づくり」の行き着く先は、自分たちの土地や活動が「まちやむらになること」だ。

そして、ここで言う「まちやむら」とは「地域」のこと。

次回、地主の学校③は、「地主の地は、地域の地」というテーマで開催するので、続きを聞きたい人は来て欲しい。

(日時:2019年8月31日(土) 10-12時、場所:笑恵館 東京都世田谷区砧6-27-19)

土地は誰の財産か?

8月17日、いよいよ地主の学校が開講し、東京・千葉・埼玉から5名の受講者が集まった。

先回のブログで予告したとおり、第1回はこの講座の全体を紹介したのだが、それは僕自身の最終チェックでもあった。

その結果、カリキュラムの順番を変更し、土地について考えることから始めることにした。

当初はまず地主の「主」について説明し、世界の見物人でなく、当事者としての生き方に関する僕の提案から話そうと思っていた。

だが実際に話してみると、提案の後にその理由を説明するより、まずは理由説明=問題提起から始めるべきだと思えてきた。

いや正確には、話しているうちに僕自身の問題意識の核心が見えてきたと言った方がいいだろう。

そこで今日は、次回の予告を兼ねて、土地についての話をしたい。

地主の学校が目指すのは、あくまで「土地の法人所有」なので、ここでは「所有対象としての土地」について話したい。

そもそも土地とは、地球上で暮らす人間たちの縄張りのことだが、文明の発達とともに人々が社会を形成し、その縄張り全体を支配する者が現れた。

支配者は戦争や調略など力づくで縄張りを広げ守ったが、その縄張りは土地ではなく領地と呼ばれる。

土地とは、あくまで支配者が領民に分け与える領地の一部のことであり、それを所有権と呼ぶようになった。

日本では平安時代に、新たに開墾した土地の所有権を与える荘園制度が生まれ、土地の個人所有が始まったと言われるが、これも所詮領主から与えられる権利であり、領主が攻め滅ぼされてしまえばすべて取り上げられてしまう権利だった。

やがて豊臣秀吉の時代に太閤検地が行われ、全国の土地登記簿の元が出来上がった。

この時、農地を耕作するものに所有権が与えられたが、あくまでこれは年貢を確実に取り立てるためであり「所有権=年軍の割り当て」だったと言える。

土地登記を管理する「公図」の原型も、このころに出来上がったようだ。

そして明治時代を迎えると、年貢制は廃止され、土地には地租(後の固定資産税)が課税され、土地所有者は納税者となる。

これまで通りに米を作り、それを売って納税するだけでなく、土地を貸したり、事業を起こしたり、売却することで利益を得ることもできるようになった。

そのため、土地を開発したり道路を通したり売却するたびに分割され、それに伴い分割登記が繰り返され、そして現在すべての土地所有は、この登記によって行われている。

考えてみれば、土地分割すべての原因は、所有権やそれに伴う抵当や差し押さえなどを新たに登記するためなのだから、「土地=所有権」となるのは当然のことだ。

そして、細かく複雑に変化していった公図が、その実情をよく表している。

僕は地主の学校の講義で紹介した「この公図」を見て、問題の核心に気が付いた。

僕の問題提起は、まさにこの細切れになった土地所有権の更なる細分化が止まらないことだ。

まず、細分化が進む最大の要因は相続による法定相続人への分配だ。

そして、相続税を払うための更なる分割や売却だ。

また、売却も多くの場合更なる細分化が待ち受けている。

たとえ細分化した土地を集約する再開発も、ほとんどの場合細切れにして分譲するのが実情だ。

所有権の細分化は、制約ばかりを生み出して、その自由を奪うばかりだ。

巨大なタワーマンションの数百に区分された所有権には、転売の自由くらいしか残っていない。

年貢から地租を経た現在の固定資産税は、課税標準額が30万円以上のすべての土地に課税される。

固定資産税の滞納があれば、自治体が所有権を差し押さえ、競売することで回収する。

つまり、日本の土地所有とは、固定資産税という賃料で所有権を賃貸しているに過ぎない。

その上土地は永久不変の資産なので、個人は相続のたびに何度でも繰り返し課税される。

長男だけが財産を引き継いだ封建社会から、すべての子どもたちに財産を分ける相続制度は、たしかに民主化を進めたと思う。

だが、相続と売却を繰り返す「土地所有の個人化」は、いったい何をもたらすのか?

僕には、地域社会の衰退と滅亡しかイメージできない。

僕はこれまで、「日本は世界で最も強い土地所有権を国民に与える国」と思っていた。

だが今日からは、「日本はすべてを国民個人任せにする無責任な大家」と考え直すことにした。

だが、政府が日本の大家なら、その大家の雇い主は僕ら国民だ。

僕の提唱する土地所有法人は、無責任な日本から永久に土地を借り受けて、固定資産税という家賃を払う「地域経営の担い手」を目指したい。

というわけで、、、地主の学校②は、土地や建物の所有について、現状とその問題点を考える。

失敗を無くすこと

僕は以前「失敗をしないように生きる気はない」と言ったことがある。会社を潰すとき、僕に必要だったのは「会社を潰さないためにはどうするか」ではなく「会社を潰すにはどうするか」だった。だが、僕はこれを心の中でずっと唱えている気がする。「失敗しないような生き方」は僕の中で悪いことになっている。だがこれが僕の目を濁らせていた。これはあくまで僕の選んだ生き方であって、僕の周囲や社会全般に当てはめるのは間違いだ。この考えを「悪」と決めることこそが、僕にとっての「悪」のはず。地主の学校を書いていて、僕はこのことに気が付いた。本題から少し外れるので、ここに書いておきたい。

「成功するようにする」と、「失敗をしないようにする」とは、言い換えると「成功の許可」と「失敗の禁止」のことであり、「成功はしてもいい」けど「失敗はしてはならない」という意味だ。成功「してもいい」ということは「しなくてもいい」ということで、成功の確証はどこにも無い。だが、考えてみると、成功とはそんなもの。「成功しなければならない」とか、「成功するべきだ」などと言われると、何か違和感を感じてしまう。これに対し、「してはならない」とは「しなければいい」であり、誰にでもできること。だから、「成功はしなくてもいい」と「失敗はしなければいい」と言い換えると、誰にでもできる気がしてくる。

僕がこんなことを考えたのは、「シンガポールの駐車違反」のエピソードを書いた時だ。僕は今年の1月にシンガポールに行ってきたが、シンガポールの道路には路上駐車が1台も見当たらなかった。もちろん旧市街の一部には道路に駐車スペースが書いてあり、車もバイクもきちんと路上駐車していたが、それ以外の路上に違法駐車をしている車は1台もいなかった。シンガポールの取り締まりが厳しいのは有名だが、東京だってかなり厳しいし、罰金だって高額なのに、東京は至る所で違法駐車だらけだ。そこで、なぜシンガポールでは路上駐車がいないのかを調べたところ、「国民にはすべての車線を安全に使える権利があるので、路上駐車は禁止する」ということだった。なあんだ、そんなことかと思ったが、それは日本だって同じこと。なのになぜ、日本では路上駐車が無くならないのだろう。

先週このブログで「最高の最低」と題し、最低の権利を高めたいという話をしたが、僕たち自身の意識もかなり低い気がしてきた。路上駐車が無くならないということは、すべての車線を安全に使う権利より、警官の目を盗んで目的地の近くにタダで車を停める権利が優先されているわけだ。駐車違反に対する罰金は、警官の目を盗むいう成功に対する失敗だ。つまり、この場合の「失敗をしなければいい」は、「警官に見つからなければいい」になってしまっている。どうして「路上駐車をしなければいい」が、「警官に見つからなければいい」にすり替わってしまうのか。それはまさに先ほどの権利のすり替えが原因だ。シンガポールの「当たり前の答え」を聞いて、僕は権利のすり替えをしている自分に気が付いた。

失敗を無くすとは、誰もが成功できる最低のレベルを決め、それを下回る失敗を禁じるやり方だ。だとすると、そのレベルこそが権利であり、それを上回ることが成功だ。だから成功は失敗でない程度のぎりぎりクリアでも、大幅にクリアする大成功でもどちらでも構わない。つまり、権利とは成功することよりも失敗しないことであり、全ての人に与えられた「義務を果たす力」に思えてきた。そこで権利に必要なのは誰にでもできる「無料」であることだ。道路や公園を歩いたり、選挙の投票などは無料だが、それ以外の無料の権利はあまり見当たらない。義務教育の学校で給食費や教材費が払えない貧困家庭には、行くだけの権利しかない。ノルウェー、フィンランド、そしてドイツなら、留学生まで無料で学べるという。これは国が豊かという以前に、大学と公演が同じという意味だ。こうした権利のレベルことが国の魅力だと思う。だとすれば、何でも有料で値上がりばかりの日本はかなりレベルの低い国だ。

むしろ現代では、企業のサービスが無料化しており、企業が人々に権利を与えている。誰もが進んでweb検索するのは、無料で得だから使うのでなく、すでにそれが権利となり、それを行使することが暮らしの一部になっている。権利とは使わなくても構わないが、使えないようにすることは許されない。それを失敗と考えれば、それを禁止して義務にするべきだ。土地は使わなくても構わないが、誰にも使えないようにすることは許されるのだろうか。所有者にはそんな権利があるのだろうか。僕はそんな権利は失敗だと思う。そんな失敗はしないようにしたい。

所有と所属

1軒の家を複数の家族で分け合って暮らすことをシェアという。

それでは複数の家族が1つの家族として一緒に暮らすことは何というのだろう。

僕の母は妹と一緒に暮らしているのだが、数年前に父が亡くなり、妹の子供たちが独立していった後に夫も離婚して家を出たため、大きな家で二人暮らしをすることになった。

ある時、お嬢さんの通学用の住まいを探すSさんから相談を受けたので、「母の家に住んだらどう?」と提案し、引き合わせると、なんとあっさり意気投合した。

そこで急遽、妹が子供たちの荷物を整理し家中を片付けて、Sさん母子との同居生活が始まった。

家賃や光熱費など、もろもろ合算した「同居家賃」をいただく代わりに、2階の8帖間の占有使用を認め、残りの部分は同居家族として仲良く使うことにした。

もちろん仲介業者は介在せず、契約も適当で曖昧だ。

不動産の賃貸借契約というよりは、家族としての同居契約といった方がしっくりする。

はじめのうちは、相手の生活スタイルが分からずにぎくしゃくしていたが、次第に互いのことが分かってくると、食事や入浴を譲り合ったり協力できるようになってきた。

もちろん信頼関係が育たなければ、こうした住まい方はできないが、互いを信頼しようと努力すれば、みるみる関係は育っていく。

今では、Sさんと妹はSNSで連絡を取り合って、母と娘の面倒を互いに調整しながら助け合っている。

そして調子に乗った妹は、片づけをさらに進めて、2階の別の部屋でも住み手や利用者を受け入れたいと言っている。

昨日はこの家で母の誕生パーティを開き、孫やひ孫たちが集まったのだが、その席で群馬に越した妹の息子が東京で仕事をするために帰ってきたいと言い出した。

すると妹は、我が家の現状とシステムを説明し、「同居費用を払うなら大歓迎」と誘っていた。

つまり、空き部屋の入居者を募るのでなく、空き部屋を利用する家族を募集しているわけだ。

この場合の家族とは、血縁者かどうかではなく、ここでの同居生活を望む人のこと。

他人はもちろんのこと、たとえ血縁家族であろうとも信頼関係を築かなければ、快適な生活は難しいだろう。

先週の日曜日、僕は足立区西新井のパルコカーサという集合住宅を訪問した。

元は銭湯があったのだが、銭湯を継続させるのは無理だと判断した経営者が、3人の息子たちに土地継承の方法を提案させたという。

銭湯を通じて地域社会に育てられたと口をそろえる息子たちは、入居者たちと親しくなるだけでなく、町会への参加も義務付けた。

この日は夕涼み会ということで、長男のTさんが招いてくださったのだが、オーナーの3兄弟と入居者たちとの語らいは、まるで実家に集う親戚のようだった。

スタイリッシュな2軒長屋がゆったりと配置された住環境がどんなに魅力的であっても、このコミュニティに参加できない人は入居できないことになる。

今では他所に転勤した、企画段階から参加した仲介業者のIさんも、この成功に胸を張る。

考えてみると「シェア」とは、他人同士が時間や空間を分け合うこと。

所有者が使いきれない時間や空間の遊休部分を使うことで、新たな経済価値が生まれることは確かだ。

だが一方で、時間や空間を使い切れないままでいる所有者側の孤立も問題だ。

そもそも所有者が行動を起こさなければ、シェアも何も実現しない。

ところが、頼みの綱である血縁家族の崩壊リスクは、天皇家ですら免れない。

家族が分散し亡くなることで、所有者は確実に孤立していく。

だから僕は、母の家に他人の家族を招き入れてみた。

そしてこれがきっかけで、母の家に新しい家族が集まり始めている。

家を分け合うのでなく、家に集まる家族とは、家を所有するのでなく家に所属する人たちだ。

家に所属する人たちは、その持ち分を決めるのでなく、願いをかなえるための役割を決めればいい。

会社に所属する管理者と労働者、学校に所属する先生と生徒などは、会社や学校をシェアしているのでなく、目的のために使っている。

家族もまた、快適に暮らすために役割を分担する。

僕が取り組む「土地所有の法人化」とは、土地を誰かの所有物でなく、仲間が所属する場所にすることだ。

土地をいつか売却して所有者だけが儲けるのでなく、夢をかなえるために仲間といつまでも使うことだ。

地主の地は、地域の地

■地主と所有者の違い

地主とは「土地の持ち主」と思われがちだが、実は土地所有者のことでは無い。

地域を統治する領主から集落ごとに任命された「役人」のような立場で、「年貢のとりまとめ」が主な役割だった。

豊臣秀吉の太閤検地以降、農地はそこを耕す耕作者が所有することとなったが、個別に年貢を取り立てるのは大変なので、集落ごとに所有者の中から地主を選び、集落分の年貢をまとめて納める役を担った。

すべての耕作者が豊作なら良いのだが、一部でも凶作となるとその分の補填をしなければならない。

その時、農地を担保に貸し借りがなされたため、借りがかさんだ耕作者は農地を地主に差し出して、小作人として耕作を続けた。

■地主の地は地域の地

こうして各地に大地主が生まれるが、土地が金銭で売買された例はほとんどなかったようだ。

むしろ、集落全体が緩やかな大家族となっていった。

当時の地主を現代に置き換えるなら、役所や税務署の出先として、年貢を集めるために奔走ずる町会長のようなイメージだ。

電気や水道はもちろんのこと、社会インフラなどほとんど存在しない自給自足の時代だったので、集落の人々が助け合わなければ耕作も出荷もおぼつかない。

結局地主の仕事は、役所や農協だけでなく、冠婚葬祭、防災や消防、医療や介護、そして娯楽や観光までおよそすべてに及んでた。

あえて言うなら「地主の地」は、「土地の地」でなく、「地域の地」だと僕は思う。

■地主の消滅

ところが黒船がやってきて、日本は開国を迫られ、全国がばらばらに自給自足などしている場合でなくなってしまった。

国を統一し、強い経済と軍隊を生み出さなければ、西洋の属国にされてしまうだろう。

幕藩体制を倒して生まれた明治政府は、富国強兵を推進するため、年貢制度によるコメ経済から貨幣経済への移行を実施した。

官(行政機関)と民(営利企業)がすべてを担うことになり、役割を失った地主は消えて土地所有者となった。

土地を財産化することで、課税する代わりに自由な売買を可能にし、血縁者に相続することで個人への配分を推し進めた。

こうして日本は、瞬く間に列強諸国と戦うようになり、致命的な敗北さえも乗り越えて奇跡的な復興と成長を成し遂げた。

■地主とコミュニティ

だが、日本全体が豊かになり成長の時代が終わると、少子高齢化による人口減少が始まった。

競争による淘汰が国内の格差を広げるようになり、都会への集中と地域社会の衰退が加速した。

今や都内の新築分譲マンションが半分以上駅から5分以内に建設されているというから、もはや都会の中でも淘汰が進んでいる。

豊かな社会とは、土地や家に縛られていた封建主義から解放し、人々を個人レベルに分解して地域を崩壊させることなのか。

封建社会からの解放とは、逃げ出すことでなく個人の自由を尊重することで、束縛や差別を解消することでは無いだろうか。

■地主の再生

また、地域経営とは、成功や失敗で終わることでなく、いつまでも継続することを目指さなければ意味がない。

儲からなければ撤退する企業や、住民が減ると合併する自治体などに任せられない。

そこで僕は、地主の再生を思い立った。

かつて国中の集落が自給自足の経済と独自の文化を生み出し担ってきたのは、官でも民でもない地主とその家族たちだった。

かつての地主が、領主に命じられた地域社会のお目付け役なら、新しい地主は自らが領主となる領民のこと。

血族でつながる家族や相続制度に縛られず、地域を担う仲間たちと法人を作って、土地という地域を経営する人たちのことだ。

■地主の育成

土地を個人が所有していては、永続的な土地経営を実現できない。

土地は法人が所有し、その法人に所属する仲間たちを集め、家族のように率いていくのが新しい地主の役割だ。

また、土地は細かく分割して個別に所有するよりも、法人がまとめて所有した方が、収益や費用を合理的に配分できる。

つまり、土地と人をバラバラに孤立させるのでなく、願いを共有する仲間たちが持ち寄れば、新しい地域を生み出せる。

地主とは、土地の主でなく、地域の主だと先ほど述べたのは、そういう意味だ。

だから、土地の所有者だけでなく、その土地利用に関わる家族や仲間も地主になって欲しい。

ある意味で、封建時代から今もなお続く「血縁家族による土地継承(相続)」に対し、別の方法を知って欲しい。

■地主の学校

いよいよ下記の日程で、地主の学校がスタートする。

当面は月に一度のペースで開催するので、このブログではその予告をお伝えしたい。

 

地主の学校 第1回

テーマ:地主の地は、地域の地

日 時:2019年8月17日(土)10-12時

場 所:笑恵館 東京都世田谷区砧6-27-19

受講料:3,000円

固定資産税クラブ

僕の所属する日本土地資源協会(LR)は、土地を永続的に保有するための団体だ。

設立7年目にしてようやく税務上の課題を解消し、事業スキームが確立したので、今年はその説明に歩いている。

その中で様々な質問をいただき、それに答えることもまた僕にとって貴重な学びや気づきとなるのだが、先日こんな質問を受けた。

「松村さんの団体は一般社団法人だが、土地を保有し運用するのなら、財団法人の方が適しているんじゃないですか?」と。

この問題は、実は以前から気になっていたことだったが、今回すらすらと答えることができて自分でも驚いた。

今日はこの話をしたいと思う。

社団(しゃだん、英仏: association、独: Verein)とは、大陸法及び英米法における民事法上の概念で、一定の目的によって結集した人の集団について用いられる。

大陸法においては、一定の目的によって結合した財産の集団である財団と対立する概念ともされる。(wikiより)

日本ではこの概念に基づいて社団法人と財団法人が民法で定められ、一般には社団は人の集合体で、財団は財産の集合体と言われる。

もちろん財産とはお金のことで、その代表例はノーベル財団だ。

ダイナマイトなど爆薬の発明で巨万の富を築いたノーベルは、死後自分がどのように記憶されるかを考えるようになったという。

1900年当時、ノーベルが財団設立に充てるよう遺言した遺産の額は、現在の通貨の価値に換算すれば16億クローナ(192億円)に相当する。

現在のノーベル財団の資産額は31億クローナ(372億円)であるというから、当初のほぼ2倍であることが分かる。

このうち53%が株式に投資され、残りが債権や不動産で運用されているようだ。

資産運用のポリシーとしては毎年3~4%の運用益をあげ、それを賞金やその他の経費に充てることにしているというから、将来も当面は安泰だと言えそうだ。

この場合の目的は、不動産の運用でなくそこから得られる収益のことで、株式の配当と同じ所有者の不労所得を指す。

従って、収益が得られなくなれば高収益な物件に買い替えたり、値上がりした物件の売却益も収益となる。

土地の寄付を受ける公益団体や自治体も同様で、土地の活用が目的ではなく、使いにくい土地は容赦なく換金されてしまう。

だが、財産とはお金だけではなく、土地、株式のほか芸術品のコレクションなどを保有する財団法人も数多い。

日本ナショナルトラスト協会という団体は公益財団法人で、「日本のすぐれた文化財や自然の風景地などを保全し、 利活用を通じて次の世代につなげます。」と謳っている。

僕の知る限りでは、わが国で唯一、土地の保全に取り組むこの団体は、設立時の「財団法人観光資源保護財団」の名の通り、観光資源を守ることを目指している。

恐らくこの団体は、保全すべき土地や建物を売却することはないだろうし、利活用を目的としているわけでもない。

だから、土地を財産とみれば、確かに「土地保有事業」は財団法人がふさわしいように思える。

土地資源とは、売らない土地のことだが、それは土地を守るためでなく、そこでの暮らしや営みを永続させることが目的だ。

土地を相続することで分割したり売却せず、ビジネスや生活の場としての地域社会としていつまでも保有したい。

その際、固定資産税の負担は免れない。

土地に対する固定資産税評価額の価格形成要因を調べると、下記の通りで

1.道路幅員や舗装などの道路要件

2.最寄駅からの距離や大型店舗距離などの交通・接近条件

3.下水道やガスの供給などの環境条件

4.都市計画用途や建ぺい率・容積率などの行政的条件

あたかも自治体に地代を払うような感覚だ。

だから、僕の団体は「固定資産税を負担する地主クラブ」のようなイメージだ。

「固定資産税を負担する人たちによる土地の共同保有と地域づくり」を目指す社団法人がふさわしい。

蛇足だが、僕が土地を財産と考えない理由はもう一つある。

それは「土地=地球」だということ。

土地所有権とは、他の人間に対して排他的に独占できる権利に過ぎず、すべての生き物を含む自然に対しては何の対抗力も持っていない。

土地売買のビジネスはますます盛んとなり、今や月の土地まで売買されている。

不動産投資そのものが金融商品化し、実際の土地を見ることもなく、不動産債権として活発に売買されている。

だがその陰で巨額の収益を得る企業以上に、税収をむさぼる政府の存在を僕は忘れない。

僕はこの世界を、マネーゲームの舞台でなく、命をはぐくむ地球として楽しみたい。

相続と継承の違い

先日初めて「地主業セミナー」を行った。

「相続しない土地継承」という副題は、これが単なる節税法ではなく、そもそも「相続しない」という選択肢があることを知ってもらうため。

でも、多くの人は「相続」に疑問を感じているわけではなく、相続の争いや負担の方に関心があるようだ。

僕の世代は61歳なので、自分の財産を残すより親の財産を受け取る方が身近な問題だ。

だから相続とは、遺産をどう分けて、相続税をどうやって払うかという問題だ。

だが僕のセミナーでは、そんな話は一切せずに、「そもそも財産を相続するか継承するかどちらにしますか?」という質問から始まる。

相続が「どう分けて、幾らもらえるか」なのに対し、継承は「何をどうやって引き継ぐか」ということだ。

相続で一番大切なのは相続人の権利だが、継承で一番大切なのは、継承する物事の存続だ。

相続の権利は納税の義務を伴うが、継承による存続に税金などかけようが無い。

これは、株式会社の株主が持ち株の相続に課税されるが、会社の経営権を引き継いでも相続など発生しないのと同じこと。

伝統芸能や技術はもちろんのこと、清水寺や金閣寺だって、継承するから存続する。

むしろ、人が暮らす普通の住宅や、オフィスやマンションの存続の方が、私たちが生きていく社会にとって不可欠かも知れない。

だが、これらを個人の財産にすることが、死後に残りを清算する「相続」という手続きを生み出した。

Wikiによれば、日本では1886年に華族世襲財産法により華族世襲財産の家督相続の規定がおかれ、1896年制定の民法は、華族以外の家にも家督相続制度を規定した。

その後、1905年の相続税法により、家督相続者に対する相続税の減額規定が設置され、家制度(家父長制)による富の集中が強化された。

この規定は次第に拡大され、1942年改正時には、普通遺産相続は家督相続の場合に比べ、税額が2.5倍以上にもなりうる状態が生じた。

もちろん世界の一般的な相続税の目的はこれとは異なり、国の人口全体に資する所得再分配を目的として置かれている制度である。

だが日本では、明らかに社会の基本構造としての家制度を存続するために、家督(家の財産)の継承が最優先された。

だが戦後、天皇制の廃止と民主化が大きな変化を産むことになる。

GHQが主導する民主化により、相続税法は法定相続人への分配方式となり、税率は所得税と同じ高さとなった。

(最高税率…相続税:55%(6億以上)、所得税:45%(4千万以上)+道府県民税4%+市町村民税6%)

だが結局、家督を分解することは地域社会の崩壊をもたらしたと思える。

そして、天皇制の廃止は国民主権を決定づけ、財産権の不可侵が憲法に記された。

土地所有者は、土地を使って何でもできる自由な支配権を手に入れたが、それと同時に何もせずに放置してもどこの国に売却しても責めを負うことも無くなった。

僕の言う継承とは、過去をではなく未来への継承だ。

自分の財産の死後の未来を、国と血縁者たちに委ねる相続か、自分で定めた道筋を引き継ぐ人々に託す継承か。

相続を望む個人の財産には、僕は全く興味ない。

だが、未来に託す継承なら、是非とも手伝わせてほしい。

それは託す側の願いでも、託される側の願いでも、どちらでも構わない。

継承とは、託されて終わるのではなく、次に託すことを託されることだから。

開くと閉じる

僕の拠点にしている「笑恵館(しょうけいかん)」の特徴は、施設が社会に対して開かれていて、誰でも自由に入ることができることだ。

こんなことを言うと、あなたは意外に思うかも知れないが、現代日本における民間施設は基本的に閉じていて、誰もが気軽に入ることができるのは公共施設しかない。

昔は多くの家は戸締りもせず、戸境も塀で仕切られていなかったので、僕が子供の頃は公園や道路で遊ぶことはめったになく、もっぱら他人の家をすり抜けて野良猫のように遊んでいた。

そしてたくさん叱られたが、歓迎されることもたくさんあった。

もちろん、すべての施設が閉じているわけではなく、店舗など他人を招き入れることが目的の施設もたくさんある。

だが、その多くは入場料の支払いや、買い物などの用事があることが条件であり、自由に入ってそこで出会いや交流を楽しむための施設はめったにない。

笑恵館にもパン屋があり、初めて来る人のほとんどがパンを買うためにやってくる。

だが一度来てみると、この施設がパン屋でなく交流を目的とした施設であることに気付くだろう。

そしてここが、個人の住まいであることを知り、さらに驚くという訳だ。

一般の住宅や施設が普段閉じられているのは、所有権が排他的占有権であることをよく示している。

所有権を調べると「自由に使用、収益、処分できる権利」となっているが、結局それは他人から邪魔されないことであり、邪魔者を寄せ付けない権利となる。

これが講じて現代社会はプライバシーが保護され、セキュリティが厳重になっている。

そして、邪魔されない権利だけが独り歩きして、自由な使用や収益処分は行われず、空き家や放棄地が増えている。

だが、施設を閉じたままでは使用できるはずはなく、閉じられた施設を使用する人は、所有者からカギを借りて施設を開ける必要がある。

つまり、「所有することは閉じること」なら、「使用することは開くこと」というわけだ。

だが、笑恵館は収益よりも使用や交流を目的としているので施設を無料開放する。

入居者のいないアパートの居室や、レンタル利用者のいない部屋は、施錠して閉じるのでなく開放して提供する。

こうして開放された笑恵館をレンタルしたり入居して使用する人には、その部屋を閉じる権利が与えられる。

あらかじめ予約して部屋をリザーブしたり、アパート部屋に鍵をかけられるようになる入居者からいただく料金は、閉じる権利=所有権に対する料金だ。

所有者として使用するからには、何でも自由にできるが、同時に所有者としての責任が生じる。

所有権で使用するとは「自分のものとして使う」ことであり、そこに自己責任が伴うのは当然のことだろう。

でも、いま日本社会に必要なのは自己責任でチャレンジすることだと僕は思う。

前例や実績にこだわるのは、責任を回避するためであり、そこに確信は存在しない。

僕が地主や所有権にこだわるのは、まさに前例や実績を生み出すためであり、それには自己責任の自由が欠かせない。

所有権を与えられ、それを閉じて独占する人には、開くことによって所有権を与えることができることを知って欲しい。

僕はこれを「国づくり」と定義し、地主の役割として確立したいと考えている。

閉じた土地を条件付きで開けられるようにする従来の使用権賃貸に対し、開いた土地を自己責任で閉じられるようにする所有権賃貸を推進したい。

そして「地主業」というビジネスに構築したい。

売らない土地で国づくり

僕が起業支援活動家と名乗るようになったそもそものきっかけは、1999年に自分の会社が倒産したことだ。

3年前に父から引き継いだとはいえ、まだ父が実権を握っていた会社の倒産は、僕にとって失敗でなくむしろ再建へのチャレンジだった。

そのおかげで僕は、破たんと起業の同時進行を体験できた上に、再生の機会を与えてくれた社会の存在に気付いた。

 

成功を求める「会社」は、時として失敗し破たんするが、継続する「社会」が失敗者を許容し、新たな機会を提供してくれる。

世界は、僕ら人間が「欲望を追求する会社」と「失敗に備える社会」で出来ている、と僕は思う。

だから僕には、地域社会の消滅や日本政府の破たんは許せない。

以前「継続しなくちゃ社会じゃない」と言ったのは「不死身じゃなくちゃ社会じゃない」と言い換えてもいい。

 

そこで僕は、起業支援の対象に「社会」を加えたいと思う。

さらに言えば、その社会とは日本政府に代わる選択肢を目指すので、「社会でなく国」と呼ぶことにする。

つまり、「起業支援」に「国づくり支援」を追加する。

そして、日本を国でなく世界とみなす、あるいは日本政府を中心とした連邦国家と考える。

その単位は「土地」とし、所有者を国民とする「土地国家」と考える。

 

日本最大の地主は、恐らく国有地を所有している日本政府だろう。

もちろん日本政府は安倍さんのものではなく、全国民が所有する土地を政府が管理しているわけだ。

ちなみに、日本国民とは国籍を持つ住人すべてを指す。

また、都道府県や市町村の所有する土地もあるが、これらも国民が共有していると考えよう。

 

問題は、残りの私有地=民有地の部分だが、これらは民間個人や法人が所有しており、政府や自治体は手を出せない。

公営の住宅や商業施設を除き、国民が生活する場はすべて民有地だ。

敗戦後の天皇制廃止によって、日本では本当に民が主となり、所有者を王とする国の集合体になった。

日本の民有土地所有権は世界最強であり、国家ですら介入できず、放置されている。

その証拠に、空き家や耕作放棄地など、使われずに放置されている土地や、中国による買い占めが取りざたされている土地はすべて民有地だ。

 

すべての土地を土地国家と考えることは、所有者が地主として自分の土地を考えることでもある。

登記上の所有者は一人かも知れないが、実際には家族が所有権を分かち合っており、家族も土地国家の国民と言える。

そして、土地の使い方や将来像だけでなく、どのように継承していくのかも家族全員で決めるべきだ。

継承し、永久に売らない土地だけが国家だ。

いずれ土地を売却する人もいるだろうが、世界では、そういう土地を植民地という。

 

国づくりを考えることで、社会の見え方が変わってくる。

もしも日本が世界なら、日本政府という大国のせいにしていても問題は解決しない。

たとえ小さくても僕たち民間の国々が、何をすべきかを考えたい。

そして、何でもできる所有権を使って、国づくりを始めよう。

シェアと共有

地主クラブとは、土地の所有権を活用できずにいる地主が仲間を募り、所有権を分かち合う取り組みのこと。

笑恵館クラブや名栗の森オーナーシップクラブは、いずれもこのコンセプトに基づいている。

しかし、ここで言う「分かち合う」とは共同所有のことであり、シェアリングとは意味が違う。

今日はこのことについて、少し考えたい。

 

シェアとは、配分とか比率という意味を持ち、「分かち合う」という言葉にふさわしい。

ワークシェアやカーシェアのように一つの物事を時間で分け合ったり、シェアハウスのようにスペースを分け合うなど、一つのものを細分化することで使用効率を高める考え方だ。

一方、共有とは細分化せず複数の人が共に所有すること。

もちろんシェアする使い方も含まれるが、みんなで一緒に使うこともある。

だが、それ以上に違うのは、自分で使う以外の所有権も共有することだ。

 

例えば、他の人に又貸しするとか、それで収益を得るとかは、シェアの範囲を逸脱する。

シェアとは基本的に物事を分け合うことなので、収益についても分け合うのがシェアの基本だ。

物事は分割可能だが、権利は分割できない。

シェアメンバーはシェアハウスを「自分の家」とは言えないが、家族なら例え子供でも「僕の家」と言える。

所有権の共有とは、まさに「家族」の関係を意味することになる。

 

「家族」と言えば、普通は親子などの血縁関係を意味するので、共有が「家族」を意味すると言っても違和感を感じるかもしれない。

だが、「家族」の中心である夫婦は血縁の無い赤の他人だし、子どもが生まれなければ養子を迎えることもある。

むしろ「家族」とは、「財産を共有し引き継ぐための組織」と言い換えた方が正しいのではないかと僕は思う。

 

そもそも地主クラブを思いついたのは、地主が孤立しているから。

空き家や放棄地などが増えるのは、いずれも地主の後継者がいないせいだ。

だが、後継者とは家族のことであり、土地の継承には家族が欠かせない。

昔の地主にとっての家族とは、後継者を育てる家制度という仕組みだったのが、今では財産を共有する血縁者組織となっている。

 

土地や家も単なる財産となり、所有者が亡くなれば相続人に分配されるが、これは財産のシェアでなく分割だ。

シェアとは1つの財産を分割せず、臨機応変に分け合うことに意味がある。

だが、財産は結局分割され、配分されてしまい、使いづらいこま切れ状態になってしまう。

 

共有とは、一つの物事を分かち合うだけでなく、みんなが持ち寄ってまとめることでもある。

かつて領主や地主が統治していた土地が、相続や売却によって細分化されたのが現状だ。

それらの土地は、さらなる分割配分のために売却され、使い道のない空き家が増え続けていくだろう。

だが、今必要なことは分割や配分でなく、連携や共有によって新しい地域社会を生み出すことだ。

住みやすい地域、商売しやすい地域、子育てしやすい地域などを作ることを「国づくり」と僕は呼ぶ。

 

お金でなく、権利こそが財産だと僕は思う。

換金せず、モノの状態で分かち合う「シェアリング」は素晴らしいが、モノでなく所有権そのものを分かち合う「共有」の実現を僕は目指したい。

そして、共有する仲間を作ることで、崩壊した家族を再生し、持続可能な社会を目指したい。

地域を作ろう

ツバル

アメリカの合衆国議会について、ウィキペディアにこう書いてある。

上院の定数は100議席であり、米国各州から2人の上院議員が6年の任期で一般投票によって選ばれる。2年ごとに3分の1の議員が改選される。議席配分が州の人口や面積などに関係なく各州一律2名となっているのは、建国当初に人口の多い州と少ない州で対立する利害を調整するためにコネチカット州の提案により生み出された策であり、「大妥協」(Great Compromise) と呼ばれている。

下院の定数は435議席で、議員は一般投票によって直接選出され、2年ごとに全議員が改選される。議席は各州の人口比に応じて配分され、各州において選挙区割りが行われ、単純小選挙区制度により各議員が選出される。

 

いきなりアメリカの例を持ち出したのは、地方自治について議論をしたいから。

日本の一票の格差は、世界的に見ても重傷だが、裁判所が「違憲状態」と言っても全然改善されない。

アメリカでは上院が70倍で下院が1.9倍の格差というのに、日本の参議院が多い時で5倍を超えていたのは、いかにも中途半端だ。

アメリカの上院が70倍なのに比べ、国連では最大の中国の13億人は最小ツバルの9,929人(バチカンの458人は例外として)13万倍だ。

だから、地域ごとに対等な上院と人数ごとに平等な下院の組み合わせは、面白い発想だと思う。

 

完全に人口比例で議席配分をして、一票の格差を無くすのが平等だと思うが、だとしたら地域ごとに議員を選出せず、単に人口に比例して選挙区を作ればいいはずだ。

それを、どうしても都道府県に合わせたいという意味が分からない。

そもそも都道府県は、どれだけ地域性を反映しているのか怪しい。

東京周辺の埼玉、千葉、神奈川県は完全に東京のベッドタウンであり、地元の立候補者など観たことも無い人たちだ。

地方自治体の選挙では選挙区など存在しないことを考えれば、単に選挙運動費の節約程度にしか思えない。

昔、選挙運動をしない青島幸雄が政見放送を提案したように、webなどのメディアを使う方法は幾らでもある。

 

一方、これが国ごとの選挙になると、突然一票ずつになるのはなぜだろう。

確かに日本の1票に対し、中国が13票あったらおかしいと思うが、それは日本と中国の何が対等だというのだろう。

僕はそれを「独立」だと思う。

たとえツバルの9,929人であろうとも、1つの国として独立していることに対する敬意の表れだ。

だったら、地方自治とは何なのか、国内のタダの線引きに過ぎないのか。

実際、地方自治の線引きは行政の区分けに過ぎず、そこに地域の独自性や独立性があるわけではない。

したがって、そこで選ばれる議員による議会は、行政のお目付け役に過ぎない。

そして、同様の区画から選ばれる国会議員は、当然地方議員のボスになり、地方自治体からも一目置かれる。

こんなの、ホントに民主主義か?、僕は大いに疑問を感じる。

 

僕は地主の学校を書くうちに、「国づくり」などと言いだしてしまったが、この頃本気になりつつある。

別に日本から抜け出して独立したいわけじゃないが、世田谷区とか砧町からは飛び出して、自分の地域をつくりたい。

そして、地域社会が担うべき役割を試しに自分で担ってみたい。

先日そんな話を世田谷区のYさんに投げかけた。

議会で政争に使われて、邪魔ばかりされるくらいなら、区役所でやるの辞めて笑恵館でやったらいい。

そしたら不思議な顔してた。

 

日本の歴史を振り返ると、黒船来航やGHQの戦後処理など結局いつも外圧があって、無理やり民主化を進めてきた。

自分たちが勝ち取ったのでなく、あてがいぶちの民主主義だから、誰も疑問を持たないが、そもそもおかしいと僕は思う。

でも、地域社会は自分たちで作るもの。

地方自治とは、地域の独立を尊重することのはず。

外国の土地買い占めを許してしまうほど、個人の土地所有権が守られているというのに、土地を使わずに売り買いしている場合じゃないはずだ。

 

そこで僕は、会員制の地主クラブを普及させたいと思う。

土地の維持費を割り勘で負担するメンバーを集めて、みんなで地主になるクラブ。

もしも不労所得を生み出す土地なら、それを財源に国づくりをやればいい。

この国の国民は住民じゃなく所有者なので、何でもできる夢の国だ。

そして近所の地主が賛同して入会すれば、その人の土地も国土になって、みんなが使えるようになる。

考えてみれば笑恵館も、名栗の森も、基本的にはこの発想だ。

すでに僕の国づくりは、始まっている。

 

今日で9月も終わりを迎え、地主の学校の書き直しは終わらなかった。

明日から、心機一転書きたいと思う。

「地主の学校」を「地主クラブ」に変えてみようか。

なんだか、そんな気持ちになってきた。

主従と主客

主従関係とは支配関係のことで、主客関係とは取引関係のこと。

つまり会社で言えば、主従は社長と社員で、主客は社長と顧客の関係となる。

あえてこの上下関係をまとめると「社員<社長<顧客」となるのだが、これが日本社会に様々な勘違いをもたらしている。

例えば、「お客様は神さまです」という言葉はあくまで社長から見た顧客のことであり、社員と顧客の関係ではない。

大衆和牛酒場のコンロ家が、店内に
「お客様は神様ではありません。また、当店のスタッフはお客様の奴隷ではありません。」
という張り紙を掲示して話題になっているが(http://news.livedoor.com/article/detail/15086360/)、お店という空間では顧客と社員は対等だという考えは正しいと思う。

 

一方、10年ほど前から役人が来庁舎を「お客様」と呼ぶようになったように思うが、市民と役所の関係は主客関係というよりは、むしろ主従関係のはずだ。

したがって、敬語を使えば十分だし、あえて呼ぶなら「ご主人様」というべきだろう。

これは、役人だけでなく、政治家も同様だ。

大臣の臣は、臣下のことであり、王様である国民の家臣であることを意味している。

だが、今の日本で安倍総理大臣を家臣と思う人はどれだけいるだろう。

家臣でなければ上司か顧客になってしまうので、あと考えられるのは身分が同じ同僚だ。

だとすると、役人が市民をお客様と呼ぶ理由が見えてくる。

つまり、すでに国民は日本という会社の顧客になっている。

 

日本政府が巨大な会社だとすれば、様々な疑問が解決する。

国民に行政サービスを提供し、その対価として税金を徴収する。

基本的人権は保障するが、残りのサービスは先着順で、受益者負担分の料金を徴収する。

税金は所得税と法人税と消費税の国税に加え、地方税として家賃のような固定資産税が基本なので、国民の経済活動を活性化する必要があり、あくまで成長を前提とする上場企業のような経営だ。

したがって、成長が止まると経営が成り立たず、社員である公務員は解雇もリストラもできないので、借金がかさむ一方だ。

経営合理化のために自治体の合併を繰り返し、総務省では現状の1724から1000まで減らすことを目指している。

半分の自治体が消滅可能性都市と言われているが、減らそうとしているのはむしろ政府自身だ。

しかし、不採算部門を切り捨てて、採算部門だけでも残そうとするのは会社であって国じゃない。

国は儲けるためでなく、存続するためにあるはずだ。

経済が発展しなければ成り立たないこと自体、すでに国としては失格だ。

 

本当は国民全員が日本の主(あるじ)なので、安倍晋三氏もその一人ということになる。

主が臣下を兼任し、その上最高位に着いたのだから、自分を主と勘違いするのも無理はない。

だが、諸悪の根源であるこの公私混同を、誰も指摘できずに手をこまねいているのは、やはり国民に主の自覚がないからだ。

僕が主にこだわるのは、第2次世界大戦で300万人も国に殺されたのは、日本人が主ではなく天皇の支配下にある臣民だったためだからだ。

現在僕たちが死なずにいられるのは、僕たちが国の主権者であり、憲法で戦争を否定しているからだ。

さもなければ、国家は戦争で人を殺しても罪には問われない。

さらに言えば、僕たち主権者には、法律に逆らい破る権利もあり、そのために裁判所が存在する。

そもそも法律を作るのは僕ら自身の仕事であり、それを政治家に代行させているに過ぎない。

 

だからこそ、たとえ小さな国でも自分が主になるために「国づくり」を提案する。

国づくりとは、自分自身が主となって、自由自在に土地を使うことだが、そのためにはまず地主になる必要がある。

もしも土地を所有していれば、あとは地主の自覚を持てばいい。

そしてもし所有していなければ、国にしたい土地の所有者の部下となり、一緒に取り組めばいいはずだ。

考えてみれば、家族関係は決して主客関係ではないはずであり、国づくりの継承も主従関係で引き継ぐべきだろう。

日本の土地所有権は世界で最も強い権力で、現に中国人が土地を買い占めているということがそれをよく示している。

だが、中国人に土地を売った所有者は、部下と思って継承したのでなく、客と思って売却したに違いない。

所有者は儲かったかもしれないが、国はこうして滅びていく。

中国は顧客として大切だが、僕たちは中国の臣下ではなく自分自身の臣下になるべきだ。

財産と権利

地主の学校の執筆に苦戦している。

はじめは僕自身の取り組みを紹介するためくらいの軽い気持ちで取り掛かったのだが、書き進むにつれて考えさせられる課題とぶつかり、その答えを見つけて書き加えているうちに、当初思っていたものとは少し違うものになってしまった。

でも、思考というのは不思議なもので、ひとたび広がってしまうと、もう二度と折りたたんで元に戻すことはできない。

その上、思考の広がる瞬間とは、この上なく気持ちの良いものなので、やめられない。

つまり、本の執筆からすぐに脱線して新たな思考を楽しんでしまう。

だが、こんなことをしているといつまでたっても本は仕上がらないので、本の題名は「地主の学校」から変更せず、急いでまとめたいと思う。だがだが、思考の広がりも止められない。

そこで僕は、このブログを書く。

 

今日書きたいことは、「財産と権利」についての考察だ。

僕は今、土地という財産をお金で売買するのでなく、無償で譲渡することによって後継者を育成し、貴重な土地を余らせている社会を変えたいと思っている。

だが、多くの人にとって土地を無償で譲渡することは理解しがたいようで、なかなかスッキリ説明できずにいた。

僕は、この土地問題に取り組むため、最初に日本土地資源協会を立ち上げ、土地を「資産」から「資源」に変えようと唱えてきたのだが、これはなかなかスローガンの域を越えられず、納得のいく説明ができていなかった。

ちなみにここで言う納得とは、僕自身の納得のこと。

たとえ聞く人が納得しても、僕自身が納得できなければ、相手の納得も信用できない。

だが、ようやくこの問題が解けてきた。

土地は財産と資源でなく、財産と権利に分ける必要がある。

 

「財産権」という言葉は、所有権をはじめとする物権のほか、債権、社員権、さらに著作権や特許権などの無体財産権(知的財産権)、鉱業権や漁業権などの 特別法上の権利を含む総称だ。

確かにこれらは、全て売買が可能だ。

だが一方で、「財産」とは「物事の売買可能な側面」を取り扱う言葉に過ぎない。

したがって、ほとんどの人がこの側面を利用して売買を目的にしているかもしれないが、すべての権利の本来の目的は売買ではない。

例えば、所有権は所有が目的だし、著作権は著作物の支配が目的だ。

これらすべてを財産として売買することは、優れた人間の発明だとは思うが、その魅力にのめり込んで本来の目的を忘れることは恐ろしいことだ。

土地の処分と言えば「売却」と思い込んでいる人が多いが、それをいうなら「譲渡」のはず。

つまり、土地の所有権を手放すのにお金をもらうかどうかは関係ない。

だが、このことを説明するのがとても難しい。

 

そこで僕が思いついたのは、土地を売買用の資産と所有用の資源に分けるという方法だ。

売買用の資産は常に不動産マーケットで価格が評価され、いつでも売買できるようにし、所有用の土地資源は永続所有を原則として不動産マーケットには出さず、商品でなく地域社会そのものの価値を担って地域の不動産商品の価値向上に貢献する。

永久に売却しない土地ならば、その価格など意味を持たず、売却できない所有権なら無償で譲渡しても問題は無い。

それは、会社の社長がその地位を無償で継承するのと同じことだと僕が説明すれば、皆さんはなるほどと言ってくれた。

だがそれでは、僕自身が納得できない。

それは、所有と経営の分離であり、会社は株主が所有していて社長はタダの管理人だと言っているにすぎず、土地の所有者が所有権をタダで譲る説明はできずにいた。

 

でも、「財産と権利」がこの疑問に見事にこたえてくれる。

所有権を財産権と支配権に分けて、財産権を放棄した支配権を定義すればいいと思う。

僕が引き継ぎたいのは財産権でなく支配権であり、地主とはまさに土地の支配者のことなんだ。

てなわけで、ようやく僕は所有者と地主の違いを明確にできた。

これでやっと地主の学校の執筆が再開できるし、できればこのまま書き上げたい。

次の面白い疑問に出会わないことを祈り、でもちょっとだけ新たな疑問に期待しつつ。

カンパニーとカントリー

以前、「会社と社会」について話したことがあると思うが、僕はそれを「カンパニーとカントリー」に言い換えたい。そもそも「会社と社会」とは、家族から進化してできたもの。人間は、家族という組織を作ることで生きてきた動物だが、さらに成功を目指し欲望を満たすために会社を作り、失敗に備え生き延びるために社会を作った。だが、今の日本では会社だけが頑張っていて、社会はちっとも失敗に対処しないし、生き残りにも不真面目だ。そこで、社会を立て直したいと思うのだが、地域社会は役所頼みで、役所は国頼みだとすると、結局社会とは国のことに思えてきた。だから、社会を国と言い換えて「国と会社」にしたのだが、語呂が悪いのでカタカナにしたという訳だ。

 

考えてみれば、会社に対して社会という言葉はとても曖昧だが、国ははっきりイメージできる。世界には様々な国や地域があると同時に、それらが世界を作っている。国には基準や規定はなく、とにかく独自の方法で国土を活用し生き残ることさえできれば、どんな国を作っても構わないし、その規模の大小だけでなく、貧富の差も様々だ。その上、これまでの世界は国ごとに力を競い合い、大きな国や金持ちの国が強かったが、今や世界の各地がインターメットで直接つながり、国境を越えた交流が当たり前になった。もはや地域は、どこの国に所属しているかより、独自性の方が意味を持つようになり、会社を作る起業だけでなく、国を作る起業も必要な時代がやってきたと僕は思う。

 

会社のリーダーは社長だが、国のリーダーは王様であり、日本の場合は永く天皇家が担ってきた。敗戦後、天皇は象徴となって実権を手放したが、戦没者の追悼や被災者の慰問だの、さすがに王様としての務めを見事に果たしている。だが、本当の王様は誰なんだ。それは、総理大臣でなく僕ら市民のはず。それなのに、安倍政権の暴走を止められず、諦めているのは、市民の意識が低いと言われているが、僕には違う理由が見えてきた。それは、日本という国が、そろそろ終わりに近づいているからだ。だがそれは、財政破たんや少子高齢化の問題ではない。日本の各地域が一つの国にまとまっていることに無理が生じ、その意味が失われてきたという意味だ。

 

例えば、一票の格差が問題になっているが、それは地域の人口密度の格差が広がっているのが原因だ。だが、そんな格差を抱え込まずに都会と田舎を別の国にすれば、この問題は無くなるはず。その結果、地域間の貧富の格差が広がっても、国が違えば問題は無い。沖縄に基地が集中していると言うが、沖縄が日本から独立してしまえば問題は解決する。ここで言う独立とは、地域独自の事業はすべて民営化することで、国は全国一律のサービスだけをやれば、国会議員の出身地などどこでも良いことになる。こうして現在国や行政がやっている地域別の事業をすべて民営化し、それを「国づくり」と名付けたらどうだろう。地域創生は国の仕事でなく、地元が自分でやるべきだ。

 

そしてもちろん、国づくりは地主の仕事だ。地主はもともと所有地に関する支配権を持つ王様だから、まとまった土地を持つ地主でも、小さな地主の連合体でも、土地を所有する地元の企業でも構わない。ところが、地主抜きでは何もできないことを、ほとんどの人が忘れている。民主主義とは「民」が「主」であり、「主=あるじ=王」であることを忘れている。国民として土地を使い成功を目指すのはカンパニーだが、王として土地を提供し継続を目指すのはカントリーだ。このカントリーを政府に任せるのはもうやめよう。全国一律に税金で賄うべき仕事だけを政府に担当させて、残りは地域が自由に取り組む国づくりにすべきだと僕は思う。そんな国づくりを学ぶために、地主の学校を作ろうと思う。

王の果たすべき責任

「殆どの人間は実のところ自由など求めてはいない。何故なら自由には責任が伴うからである。みんな責任を負うことを恐れているのだ」と言ったのはフロイトだそうだ。土地所有者が空き家を放置するのは、所有権があれば何でも自由にできるのに、それを怠る所有者が引き起こす問題だと思っていたが、「実は自由など求めていない」という言葉に僕は驚いた。僕が以前考えた「権利とは何か」という図の中に、まさに「権利とはやらなくてよい(放置の自由)」と書いてあったのを思い出した。もしかすると、空き家を生み出す原因は、所有権にあるのかもしれない。

 

地主の学校という本を書くうちに、日本における個人の土地所有権が、世界的に見ても最も強力で守られている権利だと判ってきた。それを象徴するのが土地売買で、外国人に土地を売れるのは世界で10か国程度しか存在しない。これほど強い所有権を持っているのだから、みんなで王様になった気分で土地を使った国づくりをやろうと僕は訴えた。だが、フロイトの言葉はそうはいかないことを教えてくれた。ここに来て僕は、根本的に考え直さなければならないのだろうか。

 

日本の地主が現在の所有権を手に入れたのは明治6年の地租改正だ。この時地主は、それまでの年貢とりまとめ役から納税者に変わり、土地の資産価値が法的にも認められ、初めて自由に売買できるようになった。それ以前も売買できなかったわけではないが、社会にお金が流通していないため売買はほとんど存在しなかった。そして地主は封建社会の支配者のように思えるが、実際領主から一番束縛されていたのは地主であり、地主は土地を放置したり放棄することなど、許されるはずがなかった。つまり、地主は所有の権利より義務に縛られる「土地を使わなければならない人」のことで、それが所有権に変化することで「土地を使わなくてもいい人」になったと言える。

 

ヨーロッパでは、土地と領民は領主の「持ち物」だったが、日本の藩主は、幕府からその領地の「運営権」を任せられたに過ぎず、藩主が所有しているのは自分の住んでいる家と土地くらいだったらしい。さらに幕府自体も天皇から征夷大将軍という称号を与えられ、日本の運営を任されただけのこと。となると、当然地主はその下っ端で、地域の管理人に過ぎないはずだ。新しい領地を与えられた藩は、武力を持ってその新しい任地の運営にあたり、領地換えどころか、お取り潰しまであったのだから、廃藩置県の命令が中央政府から来たときに、抵抗もせずに領地を返上したのも頷ける。だからこそ、明治維新は「大政奉還」からスタートした世界でも類のない無血革命だ。もしも、西洋のように領地と領民をワンセットで「所有」していたら、自分の財産を簡単に手放すはずがないだろう。

 

だとすれば、僕が目指す「国づくり」は、正しい提案かも知れない。僕たちは、地主の義務から解放されて自由な権利を手に入れたのだから、地主から逃げ出す小作人ではないし、労働者とか中産階級と位置付けるのでなく、地主をも支配する王になることができる社会にしたい。そして、どうせ責任が伴うなら、僕は王の果たすべき責任に挑んでみたい。

最高の最低

脱地主革命とは、明治維新における地租改革や町村大合併など地主の社会的役割を行政に移行し、その後の土地売買の促進などにより、土地を所有する市民から「地主の自覚」を消去したプロセスのことを指す僕の造語だ。江戸時代までの封建社会において、実質的に地域社会と経済の運営を担ってきた地主の抹殺を、「市民の自覚を消去する」という方法で成功させたことは、見事な革命だと僕は思う。だがそのおかげで、土地は見事に商品化されて我が国の発展に絶大な寄与をし、最終的にはバブル崩壊までやらかしてしまった。それ以後の日本社会は、デフレ経済が蔓延し、明るい未来を全く描けない停滞が続いている。そこで僕は、脱地主革命の成功こそが諸悪の根源で、これからむしろ地主を復活させるような逆革命が必要なのではないかと考えた。だが、問題はそれほど単純ではない。封建社会に戻る訳にも行かないし、江戸時代にすら戻れるはずがない。

 

だがだが、果たしてそうだろうか。本当に地主は地域社会を仕切っていたのか、封建社会の庶民は苦しい生活をしていたのだろうか。

 

ヨーロッパでは、土地と領民は領主の「持ち物」だったが、日本の藩主は、幕府からその領地の「運営権」を任せられたに過ぎず、藩主が所有しているのは自分の住んでいる家と土地くらいだったらしい。さらに幕府自体も天皇から征夷大将軍という称号を与えられ、日本の運営を任されただけのこと。となると、当然地主はその下っ端で、地域の管理人に過ぎないはずだ。新しい領地を与えられた藩は、武力を持ってその新しい任地の運営にあたり、領地換えどころか、お取り潰しまであったのだから、廃藩置県の命令が中央政府から来たときに、抵抗もせずに領地を返上したのも頷ける。だからこそ、明治維新は「大政奉還」からスタートした世界でも類のない無血革命だ。もしも、西洋のように領地と領民をワンセットで「所有」していたら、自分の財産を簡単に手放すはずがないだろう。

 

また、1820年から9年間、出島のオランダ商館に勤務したフィッセルの著作には、次のような記述がある。「日本人は完全な専制主義の下に生活しており、したがって何の幸福も満足も享受していないと普通想像されている。ところが私は彼ら日本人と交際してみて、まったく反対の現象を経験した。専制主義はこの国では、ただ名目だけであって実際には存在しない。」、「自分たちの義務を遂行する日本人たちは、完全に自由であり独立的である。奴隷制度という言葉はまだ知られておらず、封建的奉仕という関係さえも報酬なしには行われない。勤勉な職人は高い尊敬を受けており、下層階級のものもほぼ満足している。」、「日本には、食べ物にこと欠くほどの貧乏人は存在しない。また上級者と下級者との間の関係は丁寧で温和であり、それを見れば、一般に満足と信頼が行きわたっていることを知ることができよう。」。

 

僕が一番衝撃を受けたのは「日本には、食べ物にこと欠くほどの貧乏人は存在しない。」というくだりだ。ここだけ読めば、今の日本よりずっとマシだ。僕らにだって、そういう日本を作れないだろうか。そこで先ほど「明るい未来を全く描けない停滞」とぼやいたことを思い出した。もしも明るい未来が「みんなが金持ちになること」だとしたら、そんなこと実現するはずがないが、「貧乏人が存在しない」ならすでに江戸時代に実現していたのかもしれない。みんなが金持ちになれないのは、景気が悪いからではなく、金持ちが周囲の人よりカネを持っている人を意味するからだ。みんなが金持ちになったら、それは誰も金持ちで無いことと同じこと。まさか、「日本人だけが金持ちになりたい」とは言えないだろうから。

 

考えてみれば、明治維新の目的はあくまで西洋諸国の侵略に対抗することであり、封建社会を見主化したい訳では無かった。むしろ、不平等条約を改正するために西洋諸国から文明国の証として民主化を求められ、見かけ上の民主化を急いだ経緯がある。こうして日本国民は、成功し金持ちになることを奨励され、貧乏人がいなくなることなど二の次で、個人の幸福追求が優先したのかもしれない。そしてその名残は、現代にも感じられる。例えば、老人の福祉施設や子育て支援にとどまらず、障害者やLGBTなど社会福祉の範囲は広がる一方だが、どれも先着順や有料制で、無条件に全員をカバーするわけではない。「貧乏人が存在しない」とは全員対象だからこそ、税金を使っても構わない。定員制とか受益者負担などと言う制度は、単なる割引サービスであり、夢にも福祉とは呼べない。

 

そこで僕は、土地を使って日本の最低に挑もうと思う。余った土地を売るのは、個人の幸福追求だから、それを妨げるべきではないけれど、もしもその土地が売れないのにいつまでも放置するなら、それはみんなの不幸につながる。買い手が現れるまでの間でいいからその土地を自由に使えれば、日本から土地を使えない人はいなくなる。そうすれば、「自由に使える土地が無いような貧乏人」はこの国からいなくなるじゃないか。そして、土地が使われるようになれば、その中から土地の借り手や買い手が現れるかもしれない。そうすれば、結果的に地主は幸せになれると思う。自分がより幸せになるためには、みんなの幸せレベルを上げる必要がある。みんなの幸せレベルとは、最低の幸せのことであり、孤立した人や支援を受けられない人の幸せのことだ。こうした最低の幸せを少しでも良くすることが、最高の最低を目指すことだ。

賃貸と共有

所有について考える日々の中で、一つの疑問に出会い、歩みが止まっている。今日はこのブログを書くことで、この迷路から脱出したい。所有とは「AがBを所持する」とか、「AがBを制御する」など、AとBの非対称な関係を指す言葉だ。空間的には「AがBを含んでいる」ときにAがBを所有しているイメージだ。これを日本語では「AのB」と表現する。たとえば、「日本の東京」と言えば「日本国の中の東京都」であり、「東京の日本」と言えば、「東京の中にある日本的要素」となる。必ずBがAに含まれたり、Aの中にあるイメージだ。ところが、「私の会社」と言ったらどうだろう。もちろん自分が経営する会社のことかも知れないが、自分が従事している会社かも知れない。この場合、自分と会社のどちらが所有しているのか、どちらに含まれているのかが判らなくなり、僕は混乱に陥った。

 

さらに極端な例を挙げると、「私の部下」と「私の上司」では、どちらが所有され、含まれているのだろうか。部下と上司という言葉は、確かに「所属」という非対称な関係を意味する言葉だが、どちらかが一方的に支配しているとは言い切れない。会社の命令系統としては上司が部下に指示するのだから、明らかに上司が支配者だが、上司と部下は会社の中では同じ部署に含まれる従事者だ。さらに言えば、私の業績次第で上司の運命が決まるとすれば、上司は私に支配されているとも言える。こうして考えると、非対称な関係といえども、様々な関係が複雑に交錯している状況だと、どちらが支配側なのかわからない。だが、この場合でもはっきりしていることは、部下も上司も組織の構成員であり、どちらも組織に所属していることだ。その意味では、「私の部下」と「私の上司」は、どちらも「私の組織の・・」であり、「AのB」とはABどちらもが支配者になり得るのではないかと思う。

 

だとすると、支配する側とされる側かの違いでなく、支配の内容そのものが問題だ。例えば「僕の傘」は自分の所持品だが、「僕の心臓」は自分の部品だ。傘が無いと雨の日に困るが、心臓が無ければ生きてはいけない。どちらも持ち物だが、時々持てばいいモノと常に持たなければならないモノとでは、何が違うか。傘は自分が使わなければ貸すことができるが、心臓はそうはいかない。使わない傘を貸さない人はケチと呼ばれるが、心臓を貸さなくても責められることは無いだろう。ついでに言えば、「僕の名前」をむやみに貸すと「名義貸し」と咎められるかもしれないし、「僕のお金」は貸せるけど返してくれないと大変だ。こうしていくつか列挙していくと、支配の内容というよりは、貸せるかどうか、貸すとどうなるかなど、貸し借りの問題で説明できることが判る。

 

これに、先ほどの所属の概念を加えると、「僕」が「僕たち」に変化する。「僕たちの傘」は他人にはむやみに貸せないが、「僕たちの心臓」は困った人に貸せるかもしれないし、「僕たちの名前」や「僕たちのお金」などもその意味合いが変わってくる。つまり、上司・部下、先生・生徒などの関係は、それらが所属する組織や学校などの内部のことなので、所有は共有に変化するが、貸借はあくまで第三者との関係だ。「個人と他人」、「仲間と他人」の違いが占有と共有の違いを浮き彫りにするのは、考えてみれば当然のことだろう。

 

所有権とは、「自由に使用・収益・処分する権利」のことであり、まさに土地所有権の放棄が空き家問題を生み出している。僕はこの問題に挑むため、土地所有者の支援に取り組んでいるが、それは所有者の負担軽減だ。もちろん所有者独自の土地使用が望ましいが、それが難しければ、土地を共有したりや賃貸することで、所有者自身の負担を減らすことができるはず。そこで、封建時代でなく現代版の所有権を説明するには、自己所有、賃貸所有、共同所有の3つに分けて説明すればいいと、確信することができた。なるほどこれで、今日の悩みは解決したかな。

未来への継承

ようやく地主の学校の執筆を開始した。これまでこのブログにもいろいろと書いてきたが、いざ書籍を目指して書き始めると話の内容も深まって、新たな気づきがあるから面白い。今日はそんな出来事を紹介する。

 

地主の学校とは、日本が近代化の中で滅ぼしたはずの地主を再生し、新時代型の地主像を構築し、新たな地主を育成しようという取り組みだが、なぜ滅ぼしたはずの地主を再生するのかを、当初うまく説明できなかった。地主の再生を目指すのは、明らかに地主の必要性を感じるからであり、地主を滅ぼしたことは間違いだったとなってしまう。だが、実際には地主は滅びるべくして滅びており、滅びたのは当初正しかったはずだ。結局僕自身の中で、地主が滅びたのは正しかったのか間違いだったのかをはっきりさせなければならない。できることなら、滅びるのが正しかったのが滅んでみたら問題が発生し、やはり滅ぼしたのは間違いだったと気づきたい。

 

復活させたい地主の役割は継承だ。継承とは、売買でなく引き継ぎのこと。江戸時代にはすでに土地売買はあったものの、貨幣経済が発達する以前のことであり、そんな事例はわずかなものだ。地主は土地を所有していたというよりは、領主から土地を預かり管理していたのに近かった。明治維新以後日本は急速に近代化し、年貢制が廃止され、地主は地租という税金を払うようになり、土地の開発や売買も盛んになってきた。もちろん地主だけでなく、地主家族の次男以下や小作人など全ての人たちが、封建社会から解放されていったのだが、それは従来のやり方を継承しないことによるものだ。つまり昔から引き継がれるバトンを受け取らないことが、昔のしがらみからの開放だった。

 

ところが、せっかく民主的な豊かな暮らしが実現したのに、その継承が行われていない。例えば、せっかく勉強していい会社に入り素晴らしい功績を残しても、その手柄やキャリアを継承せず、子どもたちはまた受験戦争や就職活動で苦労している。せっかくローンを組んでマイホームを購入しても、そこに子供たちは同居せず、新たな家を購入して別居してしまう。やがて故郷の実家から年老いた両親を引き取って、故郷の家は売却してしまう。新たなチャンスが与えられ、新たな成功も可能になったが、空き家や廃業が増え続け、地方がどんどん寂れていくのは、次世代への継承をせず、何も守ろうとしていないせいではないだろうか。いま世界では耕作放棄の原因として天災・干ばつ・戦禍の3つが挙げられており、その原因が後継者不足などと言っているのは日本だけだ。むしろ福島での耕作放棄の原因として、原発と争うべきなのに、大きな責任を見過ごしていること自体が無責任ではないだろうか。売買の代金は、まるで過去と決別する手切れ金であり、たとえ相続という継承でさえ、相続税という手切れ金を払うために土地を売らなければならない。

 

そもそも過去を踏襲するために継承するのは、過去を大切に思い、守りたいと望むから。これは、ユネスコの「世界無形文化遺産」の定義だ。自然や建物などの有形遺産なら、その科学的あるいは文化的価値を誰もが認めて保存するが、人間の営みである「無形文化」には、優劣など付けられないので価値という言葉を使わない。肝心なのは「大切に思う心」であり、継承とはすべてを引き継がなくても大切なものだけを引き継げばいいはずだ。それでは一体過去とは何だろう。僕たちにとっての大事な過去とは何を指すのだろう。

 

実は今現在僕たちがしていることは、やがてすべてが過去になる。過去を継承しようがしまいが、これからやることもすべてが過去になっていく。だとすると、僕たちが今やっていることや、これからやろうとしていることを、未来に残したいと思わないのか。せっかく辛い過去から解放されたのなら、その自由を未来に継承したいと思わないのか。継承とは、過去を引き継ぐことと考えがちだが、同時に未来に伝えることであり、僕たちはすでに伝える側でもある訳だ。改革とは過去からの継承をやめることかも知れないが、未来への継承をせずに世界を変えることなどできるのかと、僕は言いたい。

地主革命

革命とは、統治体制が急激かつ根底的に変革されること。具体的には、支配する側とされる側が入れ替わることを指す。はるか昔の原始時代は、強いものが弱いものを支配する世界だったが、支配される側がより良い世界をつくるために団結し、幾度も革命を繰り返してきたのが人類だ。しかし、革命が繰り返されたのは、それが結局正解ではなかったからだ。でも、人間以外の動物たちが革命を起こさずに何万年も同じ生き方をしているのに比べれば、たとえ不完全でも革命を繰り返す人類は、自分から進化しようとする高度な存在だと私は思う。

 

だとすれば、現代社会は、数々の革命を経て辿り着いた理想の世界かも知れないが、さらに進化してしまった僕たちは不満を募らせている。解決できない問題の蓄積が破たんを招くようであれば、やがて革命が起きるに違いない。だが次の革命など起きるのか、一体誰がどのように起こすのかなど、まるで想像できない。そこで私は、現在取り組んでいる課題の中で、解決どころか悪化していく問題を選び、その被害者による新たな革命に着手した。その名を「地主革命」という。

 

私は今、日本中で土地や家が使われずに放置されている空き家問題に強い憤りを感じている。なぜなら、空き家はその存在でなく、社会に及ぼす迷惑が問題視されるばかりで、空き家を生まないように将来を考えたり後継者を育てようとしないからだ。現に空き家対策と呼ばれるサービスは、空き家を整備したり、巡回するものばかり。たとえリフォームして賃貸できても、その分どこかで空室が生まれ、入居者も永遠に入居するわけではない。土地はいつまでも使えるのに、誰も未来のビジョンを描いていない。

 

この問題が一向に解決しない現状を見ていると、加害者であるはずの土地所有者たちがむしろ被害者に思える。確かに土地を買う際に「土地は使わなければいけない」とか、「必ず誰かに引き継がなければいけない」などの条件は無い。かつての「地主」なら当然のことなのに、「地主」の自覚が無いのだから無理もない。日本では、すでに大部分の「地主」を滅ぼしたので、「地主」に関する法律も学問も無い。だから、「地主」を管轄する役所も無ければ、「地主」を育てる学校も無い。

 

そこで私が始めた「地主革命」は、「地主」を育成することだ。もちろんこれから育てる「地主」とは、封建制度の担い手ではなく、土地を売らずにいつまでも使い続ける人のこと。一握りの特権階級でなく、みんなが担うべき役割だ。そのためには、まず社会の課題を「地主」目線で見直して加害者意識を持つこと、次に土地と所有権の今後の在り方を考えること、そして土地を使って実現したい世界を、やるべき仕事・賛同する仲間・それを支える地域で描くこと、最後にそれらを永続的に継承していく仕組みを作ること。

 

私は以前から革命をやりたいと語ってきたが、すでに着手していた取り組みこそが革命だとは気付かなかった。今回誰もが地主になれるよう、「地主の学校」の必要性に気付き、その立ち上げに着手したものの、その目的を明確に説明できずに困っていた。だが、私の頭の中にある一番危ない「革命」という言葉を、勇気を出して取り出してみたら、即座に体が熱くなってきた。だからもう迷わない。私の命は、この革命で燃やそうと思う。ちょっと大げさになっちゃったけど、これで行くので、皆さんと大いに議論したいと思う。

それにしても、なぜ地主?

地主の学校について、様々な人と話すうちに、素朴な疑問が湧いてきた。結局松村さんは何をやりたいのか?・・・と。確かに「地主」という言葉自体がもたらす違和感とか、意外性こそが「地主の学校」の目的なのかもしれない。例えば、地主と言われても、多くの土地所有者が実感を持たないことはすでに何度も述べてきたが、それは継承でなく売買で土地を手に入れたから。つまり、売買することで失われるものがあることを伝えるためだ。また、地主に関する法律や学問が無いことも、社会が地主を忘れていることを如実に表している。「地主」が現代社会の矛盾を顕在化するキーワードであることに間違いないが、果たしてそれが答えなんだろうか。地主とは何か…などを学び、それからどうしようというのか。まさにそこが問題だ。僕は地主の学校を、「地主を学ぶ」学校ではなく「地主を育てる」学校にしたいと思っている。

地主を育てるのはなぜか…それは社会を変えたいから。政治も暮らしも原発も、何もかも諦めて放置している社会は耐え難い。こうした社会を変えるには、違う社会を作ればいい。はじめは小さくても構わないから新しい社会を創り始め、やがて腐った社会から乗り換える選択肢になればいい。周囲とは違う新しい社会とは、独立する国のようなもの。その担い手として、僕は地主に狙いを定めた。まずは自分の家や家族から、新しい社会にすればいい。自分の店や会社だって、新しい世界を作ることはできる。やがて周囲の人たちも仲間になれば、小さな地域が国になり、自分の意志でルールを定め、外交しながら周囲の承認を得ることが、独立だ。先般酔った勢いで顔を怪我した加子母村は、まさに独立を目指すエリアとして訪問した。自由とは、所有することで得られる権利のこと。地主とはまさに自分の世界を作れる人のことだ。

では、誰を地主にしたいのかというと、大きく分けて2種類の人たちだ。まずは土地を持っていないけど、自分の土地で新たな世界を作りたい人。賃貸では家賃がかかる上に期限も切られてしまう。自分の土地を持たなければ、長い時間をかけて自分の夢を叶えるのは難しい。まして、永続的なビジョンを描くことなど賃貸では不可能だ。そしてもう一方は、すでに土地を持っているのに夢を描けずにいたり、夢を描いてもそれを手伝う継承者がいない人だ。夢を描けずにいる人は、夢を描く人と組めばいいし、その人たちに協力を仰ぎ、継承してもらえばいいと思う。夢を持たず、とりあえず事業化したため収益が上がってしまい、節税や相続に悩む方たちこそ、その力を使って世界を作る地主になっていただきたいし、その家族や子供たちがともに夢を描き、継承者として育って欲しい。

こうして地主になった人には、自分の本拠地を作って欲しい。それがビジネスなら「家業」、それが家族なら「実家」、それが地域社会なら「故郷」と呼んだらいい。これまでの本拠地を守り保存するのでなく、今後守っていくべき本拠地を新たに作り出して欲しい。そして、新しい本拠地は、家業と家族と故郷が融合した新しい国になるはずだ。子供を学校や塾で教育し、待遇の良い会社に就職してキャリアを積み、老後の資金を溜め込んで優雅な施設で死んでいく現代流の生き方は、次世代に継承することのできないはかない仕組みだ。むしろ社員の子供たちを会社がエリート教育し、社員の家族同士が子育てや介護も協力し合い、取引先や顧客を巻き込んでまちを作っていくようなビジネスこそが、僕の夢見る国づくりビジネスだ。僕たちがみんなで地主になることで、真の主権者=王となり、役所を下請けに使う社会を僕は目指したい。

さて、こんな「地主」を作ることは、正しいことか…と、たぶんあなたは気にするだろうが、それこそまさに「どうでもいいこと」だ。正しいかどうかは、あとで判断すればいいし、僕たちが死んだ後、後世の人たちが勝手に評価すればいいことだ。もちろん現代において、みんなで定めた法的悪事や不正を行うのは、絶対にしたくないが、それ以外のすべてのことは「自由」なのが世界のルールだ。僕があえて国づくりと呼ぶのは、ゆがんだ日本国内ルールには少しくらい逆らっても、世界基準で生きていきたいと思うから。自分が良いと信じていても、許せないという人が訴えてくるだろうが、それは裁判になろうとも堂々と議論をし、敗訴したってかまわない。その議論に大勢が賛同すれば、やがて法律は変更され、世界は変わっていくだろう。もしも「地主」が歴史の悪役ならば、むしろ忘れてはいけないはずだ。僕は地主を再興し、再度世界に信を問いたい!

継承と売買

現代の土地所有者に「あなたは地主ですか?」と尋ねると、ほとんどの人がNOという。それは多くの場合、自分の土地が先祖代々引き継いできた土地ではなく、購入した土地だからだ。先祖から引き継ぐとは、具体的には親から相続することなので、無償でもらうことを指す。親もその親も、土地はずっと無償で引き継がれてきたのは、そもそも土地は無償の資源だから。マグロも石油もすべての資源は、初めは無償だということを忘れてはならない。だが、「タダより高い物はない」の言葉通り、無償でもらうのは厄介なことだ。譲る側は、誰にどのような条件で譲るかを自由に決められるが、貰う側はそれらを引き受けるしかない。その意味で、継承もせずに地主で無くなる「売却」を行う人は、すでに地主とは言えない。

 

購入とは引き継ぎの条件を解除するために対価を支払う「地主を引き継がない取引」と言えるだろう。だが、購入したからと言って地主でないとは限らない。たとえ引継いだ地主でなくとも、土地を売らずに所有し続ければ、やがて地主になる。そして、土地は永久だが人には寿命があり、誰かに引き継いで欲しいと願うことになるはずだ。つまり、地主とは土地を誰かに継承しようとする人のことだ。

 

ところが、継承は簡単にできることではなく、日ごろから準備をしておく必要がある。かつての封建社会では、継承のための家制度が確立し、半ば強制的に家督を継承した。だが、近代化によって人々はその呪縛から逃れ、自由な選択肢を得たのだと思う。だからこそ、現代は「だれに、何を、なぜ継承するか」をあらかじめ提示し、賛同を得る必要がある。自発的選択による継承が実現する仕組みを作らなければ、継承は続かない。

 

初めにも述べたように、継承は売買に代わる選択肢のこと。土地を譲渡する代わりに対価を得るのでなく、叶えて欲しい願いや条件を具体的にする必要がある。誰に継承したい…という願いは「家族のようなイメージ」かも知れないし、何を継承したい…という願いは「家業や土地活用、地域貢献」かも知れないし、なぜ継承したい…という願いは「実家とか故郷の大切さ」かも知れない。こうした願いが叶うなら、たとえ土地を無償で譲渡しても、確かに惜しくは無いと僕は思う。それは言い換えると、自分の願いを叶えるために相手から対価をもらう訳には行かない…ということになる。だとすれば、相手に願いを叶えてあげたくても、それはお金で買えないことであり、売買では不可能な選択肢となる。

 

確かに、昔の地主の役割は、封建社会の終焉と共に終わったのかもしれない。だが、土地を介して誰かに思いや営みを継承することは、現代社会そして未来においても必要だ。空き家問題は、個別の住宅の問題かもしれないが、それが周囲に広まれば地域社会が死滅する。社会が豊かになるにつれて空き家が増え続け、後継者がいなくなり田畑が捨てられていくなど、何かが狂っている。家族や家業のしがらみにまみれた故郷を捨てる選択肢を否定する気はないが、永続可能な家族や家業を作り、新たな故郷を作りたいと願う人たちの存在を、僕は忘れられない。地主の学校とは、こうした人たちと共に、永続型の社会を創る新しい地主を育てるプロジェクトだ。まずは「地主の学校を語る会」で、自由に語り合いたい。

故郷と空き家

故郷を辞書で引くと、「その人に、古くからゆかりの深い所。生まれ(育っ)た土地や以前に住み、またはなじんでいた場所。」とあるが、僕は疑問を感じる。こうした場所を故郷と思う人がいるかもしれないが、これに当てはまらない人もたくさんいる。つまり、これは故郷の説明であって、定義ではない。故郷を過去の側面だけで語っており、その場所を故郷と呼ぶ理由にはなるかも知れないが、「故郷を大切にする」のような未来の議論は意味不明だ。「大切な場所だから、大切にするのは当然だ」という説明では、どのようにすべきなのかまるで分らない。

 

「大切にする」は、「無くならないようにする」という意味で使われることがあるが、それは保存を意味している。建物や自然など、実体のあるものは保存が可能なので、偉人たちの生家やゆかりの場所は、世界中に数多く残されている。だが、すべての人の故郷を残すことは不可能だし、そのことに何の意味も感じられない。つまり、故郷だから大事なのでなく、偉人にゆかりがあったことに価値がある。もしも全ての人にとって故郷が大切だとしたら、それはなぜなのか。

 

辞書の説明では、故郷を特定するのが案外難しく、ゆかりのある場所と生まれた場所は、同じとは限らない。つまり、縁のあった様々な場所のうち、一番大切な場所が故郷…ということではないだろうか。例えば、初対面の人から「故郷はどこ?」と聞かれて「有りません」とは言いづらい。ゆかりの場所も生まれた場所も言えないようでは、身分を隠す怪しい人になりかねない。世界がいつ(when)、どこ(where)、だれ(who)で出来ている限り、自分の説明に「場所」が欠かせないのは当然だ。ならば、故郷は素敵な場所がいい。できれば「素敵な場所を故郷にしたい」と僕は思う。

 

ならば、これから素敵な場所に行き、そこを故郷にすればいい。そこから出発して、「どこから来た」と訪ねられたら、そこを故郷と呼べばいい。人は様々な場所に行き、働いたり暮らしたりするだろうが、そのすべてを故郷にする必要は無く、どこか一つを選べばいい。世界で一番「故郷にしたい場所」を、自由に選んでいいと思う。だがひとたび選んだら、そこを大切にしないと恥ずかしい。大切なものを大切にしないことは恥ずかしいことだ。それでは、具体的にはどうすればいいのかは、個人が考えることだ。だが、世界中の人がずっと昔からしていることだ。考えればすぐにわかることだ。

 

まず、使えるのに誰も使わない空き家や空き地だらけになることは恥ずかしい。たとえ少人数であろうとも、そこで素晴らしい暮らしが営まれている方が良いかもしれない。そこにある自然や、資源を活用して、独自の事業が行われるのも素晴らしい。そんな夢は幾らでも描くことができるだろう。そしてできることなら、あなた自身の夢を叶えることができるといい。そう考えると、今の日本は天国のようだ。全国至る所が空き家だらけで、人々は様々な不安を抱えて生きている。何処のまちでも、そこを故郷にしたいと願う人はいるはずだ。その人たちは、決して土地を売ることなく、何とかしたいと悩んでいる地主たち。その土地に愛着も無く、いつでも出ていくつもりなら、空き家や空き地は売ればいい。

 

だが売らずにいるのが空き家なら、地主を放ってはおけない。地主の夢を聞かせて欲しい。そして、そのまちを故郷にしたい人たちも放ってはおけない。その人たちの夢も聞かせて欲しい。故郷は過去の思い出ではなく、これから新たに作るもの。それを説明するときは、過去を振り返って語ることになる。将来「古くからゆかりの深い所。生まれ(育っ)た土地や以前に住み、またはなじんでいた場所。」と言える場所を、これから作ることを忘れたら、日本という故郷は消滅するだろう。

地域と故郷

一昨年の年末、建築家のIさんと上海を訪ねたのだが、その時はまだ買物は現金やカードで普通に出来た。ところが昨年の夏には、QRコード決済サービスが爆発的に普及し、すっかりキャッシュレスの環境が整ってしまった。中国のインターネットがGoogleやFacebookなどを排除したり、上海最大の本屋に中国語の本しか置いていないのを見て、完全に「中国語ワールド」的鎖国状態を作り上げている一方で、変化のスピードも猛烈だ。そんな全英語圏より巨大な13億人のマーケットで繰り広げられる中国人の若者たちの起業競争は、まさにし烈を極めている。地方からやってきた若者がネット販売で成功すれば、一気に大金持ちになれるのが今の中国だ。だが、実際に成功を持続できるのはごく一部にすぎず、多くの若者たちは途中で資金が底をつき、夢破れて撤収する。そんな若者を取材したテレビ番組を見ているうちに、彼らはみな「ひとまず国に帰ります」と語るのが気になった。

 

彼らの言う「国」とは、一体何だろう。それはどうやら田舎の貧しい村のようだ。そこで彼らは生まれ育ったのだろうし、農業などの家業を手伝いながら、ある程度の教育を受けたのだろう。やがて若者たちは、田舎にも普及してきたネットの情報やサービスに触れることになる。国内マーケット向けの中国語で判りやすい情報が届けば、買い手側から売り手側へのチャレンジをしたくなるのは当然だ。まずは仲間たちと小遣いを出し合って、小さな通販にチャレンジする。そして利益が出れば、さらに大きな仕入れに挑みたくなり、地方都市の市場に出かけて行き、同業者たちと競い合いながら次第に成長していく。だが残念ながら、彼らの大部分は失敗する。失敗するまで続けてしまうのがビジネスとギャンブルの共通点だ。成功し、財を成した人が故郷に錦を飾ると言われるが、失敗した人もまた故郷に帰るのなら、故郷は素晴らしいと僕は思う。

 

ご存知の通り、僕は1999年に倒産を経験しすべての財産を失った。僕の出身地は東京で、そこには大勢の友がいたが、倒産で迷惑をかけてしまった人も大勢いる。だからその時の僕は、帰れるところが妻と二人の息子のいる家庭しかないと感じていた。そんな経験をしたので、全てを失ったら「国に帰る」と言う中国人の若者が、正直言ってうらやましかった。故郷を辞書で引くと「その人に、古くからゆかりの深い所。生まれ(育っ)た土地や以前に住み、またはなじんでいた場所。」とあるが、僕は少し違う解釈を思いついた。それは「そこから出発し、いつでも戻れる場所」のこと。その人にゆかりなど無くても、生まれた場所でなくても、馴染みが無くてもいいのではないかと、僕は思う。故郷が大切なのは、ゆかりや馴染みでなく、出発や到着地となる「拠点」として必要だからではないだろうか。

 

だとすると、故郷は1か所とは限らない。僕の場合は「家庭」を拠点と考えるのでその場所は変化する。家庭が複数ある人は、拠点が複数になるだろうし、景色や自然、文化や産業を拠点と思えば、その場所や地域が故郷となる。僕が運営する笑恵館は、誰もが自分の家と思える「みんなの家」を目指しているが、それは結局「実家のような故郷と思って欲しい」という意味だ。故郷を共有する人を家族と呼べば、家庭が故郷となるのは当然だ。だとすれば、僕はなぜ「国に帰る」という言葉に驚いたのか。それは明らかに、僕たちが今「国」を失いつつあるからだ。多くの人が国を捨て都会に出て、成功を掴んだまま都会に居続け、国に持ち帰ろうとしないのが今の日本だ。人々が失敗を恐れ、チャレンジしないのは、帰る先がないからだと僕には思える。

 

今地域社会が衰退し、都会だけが発展を続けている。地域社会を旅立った人がそこに戻らずにさまよい続けるために、古い家が捨てられ新しい家が増え続けるおかしな現象が空き家問題と言えるだろう。故郷の暮らしは貧しくて辛いかもしれないが、いつでも迎え入れ、助けてくれる自分の故郷だ。都会の成功や快楽を楽しみたいとは僕も思うが、できるだけそれを持ち帰り、故郷を少しでも良くすることが大切だ。「故郷があるからチャレンジできる」というのが、今の中国の強さだとしたら、今やるべきことは「故郷づくり」に他ならない。だが、ここでいう故郷とは、過去や現状を引きずるのでなく、未来を描いて作るもの。その未来の実現を目指すチャレンジを促し、成功者が失敗者を救うコミュニティこそが、血縁にこだわらない新しい家族だ。大企業や行政の描く将来ビジョンに便乗するのでなく、自分たち独自の未来を描く人たちが、その実現を永遠に目指す拠点をつくるために、空き地や空家を最大限に活用しよう。

原発と空き家

原発と空き家がよく似ていることに気が付いた。共通点は、終わり方が判らないこと。原発の終わり方とは、放射性廃棄物の処理や原子炉の解体技術のこと。老朽化で運転を終える原子力発電所の廃炉処置の困難さに加えて、二酸化炭素排出削減策として、既存の原子力発電所の延命方針が打ち出されたが、わずか1ヵ月後の2011年3月11日に東日本大震災による福島第一原子力発電所事故が発生し、放射能汚染を東北・関東地方に及ぼしているのはご承知の通りだ。当然のことながら原子力発電所の増設計画や、停止した原子力発電所の再稼働の是非などが焦点となり、国民の高い関心を集めてはいるが、依然として原発の再稼働や国外輸出などが止まる気配はない。一方、空き家の終わり方とは、建築全般の終わり方のこと。住宅やマンションを購入する人の大部分が、その使用年数や解体について何の計画も持っていないことが、今問題になりつつある。

 

空き家とは、「使えるのに使われていない建物」を指す言葉で、「使えない建物」のことではない。現在800万戸以上あるとされる空き家の半分以上は賃貸住宅の空き室を指していて、残りの空き家はいわゆる自宅だが、そこには別荘などの一時利用の住宅や売却用に空けてある住宅も含まれる一方、世間で問題になっている危険で不潔な「廃屋」は含まれていない。つまり空き家とは、「自宅から家族がいなくなること」なので、すべての住宅はいつかは空き家になる。もしも空き家にならない家があるとすれば、そこには永遠に家族が住み続けるはずだ。人は必ずいつかは死ぬので、親が亡くなればその子供、そして孫が引き継いでいくことが容易に想像できる。確かに昔の家族はそうだったかもしれないが、あなたの家族はどうだろう。

 

実家を出て家を買う人が、将来その家を子どもに譲って実家に戻るとか、永続的な計画を立てることもあるかも知れないが、そんな予定通りに行くとは限らない。子供が近所に就職するとは限らないし、一人娘がお嫁に行ってしまうかも知れない。そもそも実家の親だってその人が出ていくことを想定していたとは限らない。家族の同居は永続せず、いつかは出ていくと考えなければならないだろう。あなたが買った家も、いつかは家族が減って部屋が余ることになる。そして最後に残った人が、子どもに引き取られたり、施設に入ったり、亡くなったりすれば、その家は間違いなく空き家になる。

 

こうしてすべての家は空き家になる。誰かに賃貸すれば家賃収入を得られるが、先ほど述べた通り空き家の過半数は賃貸の空き室だ。日本の人口は減っているので、空き室を減らすのは不可能だ。すでに住宅の相続においても、居住せずに売却し現金にして分配する事例が増えているが、小さな家なら転売され、大きな家なら小さな家に分譲される。今、住宅ローンで家を買うのは20代が一番多いそうだが、彼らは家を所有したいからではなく、家賃よりローン返済の方が楽だから買うそうだ。日本は異常な低金利なので、住宅ローンも楽になる。まとまったお金があれば、銀行に預けても利息が付かないので、マンションを買って賃貸をした方がまだましだ。そんな理由で投資用のマンションも売れている。家が増えれば、それだけ空き家も増えることになる。

 

空き家は使える家なので、誰かが使ってくれればいいが、人が減り、家が増えればそれも難しくなってくるだろう。ところが家の終わり方は原発と同じにわからない。「売ればいい」と誰もが思っているだろうが、地方ではタダでも貰い手が減っているし、捨てる訳にも行かない。マンションは、売るのがさらに難しい上に、建物はどんどん傷んでいく。長期修繕計画に基づいて積み立てをしているが、それも30年程度の計画で、それ以降はわからない。解体するにも、建て替えるにも相当な費用がかかるし、居住者の合意も必要だ。本来、解体して更地に戻すところまで計画しておかなければ、原発と同じ見切り発車の計画と言われても仕方ない。

 

原発問題に立ち向かうには、あえて原発が生まれる以前に戻り、「終わりのない原発建設」以外の発展の選択肢を模索する必要がある。それは「節電技術」や「再生可能エネルギー」かも知れないが、とにかく現状を否定することが革新だと思う。

空き家問題に立ち向かうには、空き家が生まれる以前に戻り、「終わりのない住宅購入」とは違う発展の道を模索する必要がある。それは、土地ビジネス、家族コミュニティ、地域ネットワークなどの創出かも知れないが、とにかく現状を否定することから始めたい。

原発問題と同じ、革新を起こすために。

「独立」の意味

土地の所有権は、誰もが生まれつき持っている権利ではなく、国から与えられる権利だ。現代の日本では、約4千万人の人が土地を所有し、固定資産税を払っていると言うが(国税庁)こんなに多くの国民が土地所有権を持っている国は世界でも珍しいようだ。そもそも、国境線に接する土地を隣国の人に買われると、国境線が変わってしまうので、土地売買を禁止するのが世界の常識らしい。特に、外国人でも土地を買える国となると、日本、米国、ニュージーランド、フランス、ドイツ、英国、アイルランド、イタリア、スペインくらいしか見当たらない。昨今中国人が日本の土地を買い漁っていると言われるが、それが嫌なら売らなければいいだけのこと。「誰でも土地を買える権利」があることは、僕は素晴らしいことだと思う。たとえ小さな土地でも、地主になれば自由に土地を使って、夢を叶えることができるから。

 

この大切な所有権は、国から与えられる権利と言ったが、国はどうやって手に入れたのだろう。国や地域が一定の陸地、海域、空域を自らの領土、領海、領空として主権を行使する権利を領有権と言うのだが、これは国際法で保証された権利などではなく、国境を接する二国間の取り決めや国際条約などの合意に基づいて定義される。そもそも世界全体を治める法律など存在せず、すべては互いの合意や承認の積み重ねで成り立っている。それを維持するための根回しや交際が「外交」であり、威嚇や脅しが「軍備」という訳だ。これは、国内の所有権についても同様だ。互いが自分の権利を主張し合えば、衝突が起きることもしばしばだ。僕のいる笑恵館でも、近隣に迷惑をかければ苦情や通報が待っている。こうした権利の衝突を調整するのが「公共の福祉」という考え方だが、時として衝突は起きてしまう。それを防ぐために権利を制限するのではなく、外交努力で解決すべきと僕は思う。

 

一方で、所有権はその力を、他の人に与えることもできてしまう「すごい力」だ。物に対する事実上の支配という状態そのものに法的保護を与える権利を占有権と言うが、そもそも所有者の許可があれば、誰もが堂々と線権を行使できる。これはまさしく国が個人に所有権を与えるのと同じこと。所有者が土地利用やその収益について、自由にルールを決めることができるのは、国が法律を定めて社会を運営しているのと、まったく同じことと言えるだろう。つまり、たとえ個人の地主でも、周囲の地主たちと外交し、敷地内を統治する「小さな国」の持ち主であることに違いない。

 

ヨーロッパのミニ国家「リヒテンシュタイン」は、1699年 ヨハン・アダム・アンドレアスがシェレンベルク男爵領を購入したところから始まった。現在もリヒテンシュタイン家が統治する絶対君主国家だが、立憲政治、法の支配、議会民主制が確立されており、また国民の権利と自由も十分に保障されていることから、実質的に立憲君主制に分類される事が多いという。現在の君主、ハンス・アダム2世は2004年に長男のアロイス公子を摂政に指名して統治権を譲り、自らは名目上の元首としての地位のみを有している。無能で耐え難い君主を退位する方法が憲法で定められ、独裁君主により国を誤らせないために国民が不満を持てば国民投票によって君主制を廃止できるというすごい国だ。(Wikipedia参照)

 

僕の口癖、「国づくりをやろう」とは、政治や行政に関わるのでなく、自分の土地を統治する人たちが集まって、自分たちの土地を統治することだ。国や行政を助けるための地域活性化ではなく、自分たちの土地で自分たちの夢を叶えるために自立した土地経営を行うことを意味している。もちろん、周辺地域を統治する日本政府やその出先機関とは、うまく付き合っていきたいし、交易や交流も盛んに行うべきだろう。だが、経済的には依存度を下げ、永続的に自主独立を確保することが大切だと思う。先ほど中国人のことに言及したが、誰が所有するかの問題ではなく、地域の夢を共有する仲間かどうかが問題だ。かつて渋谷の道玄坂周辺で違法性風俗業者に土地を貸していた地主を摘発したところ、何と地元の有力者たちが名を連ね、強い憤りを感じたことを思い出す。その時から僕は、地元の人か他所者かなどどうでもいいと思うようになった。

 

今週4/17から、僕は岐阜県・加子母村を訪れる。東濃ひのきの主産地として知られるその村は、2005年2月13日に中津川市に編入され自治体としては存在しないが、3年前にNPO法人かしもむらが設立され、独立を目指し活動しているという。友人の紹介で初めてこの話を聞いた時から、僕のときめきは止まらない。加子母村行きを前にして、「独立」の意味を再確認するためにこんな話を書いてみた。与えられた権利を失わないように、しっかりと行使し続けること・・・独立とは、そういうことだと僕は思う。

なぜ地主が大切か

4/7、地主の学校を語る会がスタートしました。参加者の方から、「空き家問題の張本人が地主なのに、なぜ地主が大切なんですか?」と問われ、一気に前書を書き下ろしました。やはり、議論できることはありがたい。

 

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地主の学校・まえがき

 

地主とは、土地を支配する人のこと。土地や建物を使って夢を叶える「うらやましい人たち」です。

ところが今日本は、土地や建物が余り、使われず・放置され・捨てられる病気にかかっています。

そもそもこの問題は、「余った土地は貸せばいい」、「貸せなくなったら売ればいい」という安易な地主たちがもたらしたもの。

 

本来、地主自身が解決すべき問題ですが、すっかり孤立し無力化してしまい、もはやこの問題をどうすることもできません。

これまで地主の権利を尊重し、手をこまねいていた行政もついに重い腰を上げ、空き家特措法を皮切りに様々な施策に着手しました。

地主の怠慢を取り締まり、「地主のちから」を制限する今後の取り組みに、期待が高まりつつあります。

 

だが、それでいいのでしょうか!

また一つ、みんなの大切な権利がそぎ落とされてしまっても!

 

私たちは東京・世田谷で、みんなが自分の家として利用できる「笑恵館(しょうけいかん)」という小さな施設を運営しています。

ここでは、地主が仲間を受入れて孤立を解消するだけでなく、夢を語り、その実現に向けて多くのサポートを得ています。

この事業を通じて、「地主のちから」は分かち合うことでむしろ増えていく、「夢のちから」だと気づきました。

 

そこで私たちは、「地主のちから」について学び考える、「地主の学校」の開設を決意しました。

地主が起こした問題なら、それの解決に挑むことで、私たちは新しい地主像を描くことができると思います。

眠れる「地主のちから」を封印するのでなく、地主の皆さんと共に大いに学び、最大限に活かしていきたいと思います。

 

地主さんもそうでない方も、土地を使って夢を叶えたいと願うすべての皆さんの参加をお待ちしています。