地主のちから(第1章)

地主の学校の開校に向け、早速準備に取り掛かった。まずは、毎週土曜を作業日と決め、企画作業を進めていく。プロジェクトを立ち上げる時、僕は必ず作業日を決め、ゴールを決めて突っ走る。そしていつものことながら、せっかく作業日を決めたら、その日は何が何でもイベントにする。だから、今後しばらくの間、毎週土曜日は「地主の学校を語る会」と名付け、13時、16時、19時の3回開催する。人が来れば話がはずむし、来なければ作業がはかどるだけのこと。今日の土曜は、笑恵館の掲示板にポスターを掲示し、配布用のチラシを作製した。そして今、カリキュラムの作成に取り掛かり、最初の章についてこのメルマガに書いてみようと思う。第1章は「地主のちから」、それが今日のテーマだ。

多くの地主が「地主のちから」を理解しておらず、その「ちから」を問題解決に使おうともしていない。そして、誰もこのことを地主に伝え、必要なサポートをしようとしない。僕は今から6年前、笑恵館オーナーのTさんから相談を受けてこのことに気が付いた。Tさんは「地主の可能性」を信じ、「地主の願い」を叶えるために相談相手を探したが、見つからないので起業を思い立ち僕を訪ねてきたという。地主が起業するということは、地主のちからを使って夢を叶えるチャレンジだ。Tさんの話を聞くうちに、僕はみるみるのめり込み、4ヵ月も立たないうちにTさんを強引に誘って「日本土地資源協会」を設立してしまった。

「地主のちから」は、「地=土地」のちからと「主=所有者」のちからを合わせた「絶対的な強い力」をイメージして欲しい。まず「土地」は不動産とか固定資産と呼ばれる通り、永久に変わることのない財産なので、現金よりも確かな資産であり富の象徴のように思われている。だが本来の土地の価値は、売って換金できることではなく、人間の営みに不可欠な資源であり、この世界そのものが、土地が無ければ成り立たない。そこで僕は、その範囲の地面だけでなく、そこにある建物や自然環境、土壌や鉱物など全てを含む概念として「土地資源」という言葉を使っている。この土地資源は人が生まれる前から存在し、人の死後も存在する。永久とは時間の長さではなく、その果てしない繰り返しのことを言う。人間は土地のちからを利用して、生活を営み、永い間存続できたのだと僕は思う。

そして、土地資源の全てを支配するのが「主のちから=所有権」だ。所有権は、使用権と収益権、そして処分権の3つで構成される。まず、使用権は土地を自由に使うちから、何人たりとも所有者の許可なしに土地に入ることもできない。次に、収益権は土地で生ずる収益を得るちから、何人たりとも所有者の許可なしに土地で収益を上げることはできない。最後に、処分権は土地を自由に変形するちから、何人たりとも所有者の許可なしに土地を分割したり、建物や設備を作ることはできない。昨今、誰も使わない土地や建物がそのまま放置され、空き家とか耕作放棄地など大きな社会問題となっているが、結局のところ所有者が自分のちからを使わずに諦めているのが原因だ。だが僕は、所有者たちを責める気にはなれない。恐らく所有者たちは、地主のちからを知らないし、誰もそれを教えようともしていない。

例えば「処分権」を、「土地を捨てたり売ったりする権利」だと、あなたは考えていないだろうか。土地や建物を放置せず、誰かに売ればいいのにと、思っていないだろうか。だが、そんな風に考える人は地主じゃない。それは「地主で無くなる行為」であり、地主であり続ける人のやることではない。確かに土地を手放すのは所有者にしかできないことだが、「ちから」とは「できること」でなく「やるべきこと」だと僕は思う。社会が地主に対して求めているのは、土地を手放し売ることではなく、土地を有効に活用することだ。土地を売り手放すべきは、むしろ地主にふさわしくない人であり、土地を手放したくない人こそが地主ではないだろうか。

「地主≠大家」という気づきから生まれた地主の学校は、借り手の権利を守るためにある意味で弱体化した「貸し手=大家」にとどまるのでなく、絶大な力を持つ「地域社会の担い手=地主」として土地所有者が活躍する社会を作るチャレンジだ。地主の本当のちからを再確認したら、次はその力をどのように使うべきかを考えたい。という訳で、次回は第2章「地主の役割」、どうぞお楽しみに。