カンパニーとカントリー

以前、「会社と社会」について話したことがあると思うが、僕はそれを「カンパニーとカントリー」に言い換えたい。そもそも「会社と社会」とは、家族から進化してできたもの。人間は、家族という組織を作ることで生きてきた動物だが、さらに成功を目指し欲望を満たすために会社を作り、失敗に備え生き延びるために社会を作った。だが、今の日本では会社だけが頑張っていて、社会はちっとも失敗に対処しないし、生き残りにも不真面目だ。そこで、社会を立て直したいと思うのだが、地域社会は役所頼みで、役所は国頼みだとすると、結局社会とは国のことに思えてきた。だから、社会を国と言い換えて「国と会社」にしたのだが、語呂が悪いのでカタカナにしたという訳だ。

考えてみれば、会社に対して社会という言葉はとても曖昧だが、国ははっきりイメージできる。世界には様々な国や地域があると同時に、それらが世界を作っている。国には基準や規定はなく、とにかく独自の方法で国土を活用し生き残ることさえできれば、どんな国を作っても構わないし、その規模の大小だけでなく、貧富の差も様々だ。その上、これまでの世界は国ごとに力を競い合い、大きな国や金持ちの国が強かったが、今や世界の各地がインターメットで直接つながり、国境を越えた交流が当たり前になった。もはや地域は、どこの国に所属しているかより、独自性の方が意味を持つようになり、会社を作る起業だけでなく、国を作る起業も必要な時代がやってきたと僕は思う。

会社のリーダーは社長だが、国のリーダーは王様であり、日本の場合は永く天皇家が担ってきた。敗戦後、天皇は象徴となって実権を手放したが、戦没者の追悼や被災者の慰問だの、さすがに王様としての務めを見事に果たしている。だが、本当の王様は誰なんだ。それは、総理大臣でなく僕ら市民のはず。それなのに、安倍政権の暴走を止められず、諦めているのは、市民の意識が低いと言われているが、僕には違う理由が見えてきた。それは、日本という国が、そろそろ終わりに近づいているからだ。だがそれは、財政破たんや少子高齢化の問題ではない。日本の各地域が一つの国にまとまっていることに無理が生じ、その意味が失われてきたという意味だ。

例えば、一票の格差が問題になっているが、それは地域の人口密度の格差が広がっているのが原因だ。だが、そんな格差を抱え込まずに都会と田舎を別の国にすれば、この問題は無くなるはず。その結果、地域間の貧富の格差が広がっても、国が違えば問題は無い。沖縄に基地が集中していると言うが、沖縄が日本から独立してしまえば問題は解決する。ここで言う独立とは、地域独自の事業はすべて民営化することで、国は全国一律のサービスだけをやれば、国会議員の出身地などどこでも良いことになる。こうして現在国や行政がやっている地域別の事業をすべて民営化し、それを「国づくり」と名付けたらどうだろう。地域創生は国の仕事でなく、地元が自分でやるべきだ。

そしてもちろん、国づくりは地主の仕事だ。地主はもともと所有地に関する支配権を持つ王様だから、まとまった土地を持つ地主でも、小さな地主の連合体でも、土地を所有する地元の企業でも構わない。ところが、地主抜きでは何もできないことを、ほとんどの人が忘れている。民主主義とは「民」が「主」であり、「主=あるじ=王」であることを忘れている。国民として土地を使い成功を目指すのはカンパニーだが、王として土地を提供し継続を目指すのはカントリーだ。このカントリーを政府に任せるのはもうやめよう。全国一律に税金で賄うべき仕事だけを政府に担当させて、残りは地域が自由に取り組む国づくりにすべきだと僕は思う。そんな国づくりを学ぶために、地主の学校を作ろうと思う。