世帯数問題

「世帯数問題」とはググっても何もヒットしない、ある意味で僕の造語だ。日本の人口は1985年に1億2千万人を超えたのちに頭打ちとなり、2008年12月をピークに減少し始めたが、世帯数はその間も増加を続けていた。たとえ人口が増えなくても、世帯数が増えれば経済需要は増加する。人口減少は経済を縮小させるというかつての議論はどこへやら、成長を前提とした経済運営が今日現在もまかり通っている。しかしついに、2015年から世帯数の減少が始まった。今度こそ、間違いなく縮小型社会への移行を余儀なくされると僕は思う(数値データは、「人口・世帯数の動向(http://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/house/torikumi/jyuseikatsu/hyodaikyukeikaku/kyusankoshiryo.pdf)」というページを参照されたい)。僕が「空き家が社会に及ぼす迷惑」でなく、「空き家発生のメカニズム自体」を問題視しているのは、空き家がまさに、この世帯数問題の産物であり、これから始まる「社会縮小」という現象のホンの一面にすぎないからだ。

世帯数と社会の関係をもう少し細かくイメージしてみよう。世帯とは「実際に同一の住居で起居し、生計を同じくする者の集団」と言われるとおり、社会的・経済的な生活単位のこと。同一の住居に暮らすということは、同一の台所を使い、同一の浴室を使い、同一のトイレを使うこと。したがって、これらの設備は、少なくとも世帯数分必要となり、そこで使われる冷蔵庫や洗濯機などの家電製品や生活用具、自動車なども、世帯数に応じて必要になる。日本では、5年に一度国勢調査を行っているが、その対象は「日本に居住している全ての人及び世帯」とされ、世帯が社会生活の単位であることをよく表しており、空き家の数もこのデータを利用して「供給住戸数-世帯数」で算出している。多人数世帯の分裂によって増加し続けた少人数世帯が無ければ、建売住宅やマンションなど「不動産の細分化」による住宅供給を買い支えることはできなかっただろう。

さて、これらすべての商品需要が世帯数とともに減少すると、一体どうなるのだろう。すべての商品は供給過剰となり、生産を減らすか外国に販路を求めるか、または新たな需要を掘り起こし、新製品を開発することになるだろう。そして売れ残り以上に、不要品となり大量のごみが発生する。ごみの処分は生産や販売よりも難しく、その多くが放置され部屋を埋めていく。空き家の多くが活用できずにいるのは、部屋が不要品で埋め尽くされ使える状態でないからだ。それは亡くなった家族の遺留品だけでなく、独立していった子供たちの思い出も少なくない。世帯数とは、こうした遺留品や思い出という置き土産を残したままで増殖を続けてきたため、ひとたび減少を始めると今使っているものと合わせて2倍のごみが出る。そして、先ほどの新規需要の減少と合わせれば、成長に対する3倍の足かせになるように思える。

深刻な問題のはずなのに、「世帯数問題」が語られることがまだ少ないのは、これまでの成長型経済では対処できない問題だからだと僕は思う。だがそれは、成長型経済の欠陥ではなく宿命であり、今必要なのは成長型経済を否定するのでなく、その欠点を補完する仕組みを付加することだ。あえて言うならば、「グローバルな成長型経済」の対極に位置する「ローカルな持続型経済」だ。世帯数の減少に対し、これまでと逆の発想を持って対処しても、それを成長経済に反映し、グローバルな一般解を得ようとするから無理がある。そもそも世帯数の増加プロセスは、成長型経済システム上で起きた現象だ。世帯数の増加は、成長型経済がもたらしたと言ってもいい。統計を見ても、富裕国ほど少人数世帯数が多く、貧困国においては多人数世帯が多い(http://www.stat.go.jp/data/sekai/zuhyou/02.xls#’2-9′!A1)。おそらく理由は簡単で、お金がなければ一人暮らしはできないから、逆に言えば、多人数で暮らすのは貧しくて相互扶助を必要としているからだ。

だとしたら、世帯数の減少とは何なのか。それは人口の減少に伴う現象というよりは、成長経済の限界だと僕は考える。豊かになった人々が消費の欲求を失い、次の豊かさを求め始めたとしたら・・・経済は成長せずとも継続さえすれば十分で、むしろお金でで買えない新たな価値を求め始めたのではないかと僕は考えたい。「お金の価値」とは「モノやサービスを購入できること=他人に何かをやってもらう価値」だとしたら、「お金で買えない価値」とは「モノやサービスを購入しないこと=自分で何とかする価値」だと考える。例えばシェアハウスやグループホームといった概念が、世帯数の減少を招いている。そこには、共に暮らすことにより「互いが無償で与え合う=シェア」という金銭に頼らない持続の仕組みが存在する。これを無理やり対価型のビジネスにすると、その魅力が消えうせる。対価型でない、自らも汗をかく面白さこそが、新たな価値なのかもしれない。

このように従来と真逆の発想で、僕はこの問題に取り組みたい。1世帯=1住戸という発想だから、世帯数の減少が問題化するのであって、1世帯=複数戸であればむしろ生活はより豊かになるはずだ。これまでなら「3戸使えば賃料も3戸分」だったのを、「3戸使っても賃料はゼロ、その代わり一緒に畑を耕して、みんなで稼ごう」みたいにすればいい。世帯数の減少により余ってくる資源を、みんなでうまく活用すれば、小さくても持続可能な経済が生まれるはず。かつて世界がグローバル化するまでは、誰もがそうしてきたはずだ。だからこれは、決して目新しいことではない。昔のやり方を思い出し、最新技術とうまく使い分ければいいだけのことだと僕は思う。

世帯数の減少は、成長のない暗い世界の始まりではない。お金の力で自立という名の孤立を深め、自宅に居ながらにして世界とつながっている錯覚に陥った人たちが、もう一度外に出て、近所の人々や身近な世界と実際につながろうとする、むしろ大きな前進だと僕は思う。だがそれは、地域ごとどころか世帯ごとにも異なる答えを探さなければならず、世界の人々が一つの正解を目指すことで発展してきた成長型経済や既存の社会システムは、当てにできそうにない。我々一人一人の個人が、身近な世界を自分で作るという「頭の切り替え」が必要だ。「途上国の国民は貧しいが明るい、一方で先進国の国民は豊かだが暗い」という話を聞くが、この「豊か」という言葉はかなり怪しい。「金持ち=豊か」という先入観を捨て、自分の豊かさを模索するのに、モノ余り・土地余りの時代は絶好の好機だと僕は思う。ここはひとつ、「問題解決を先送りして目先の金もうけ」に走るのでなく、「金もうけを先送りにして目先の問題解決」に取り組んでみないか?