土地の所有権は、誰もが生まれつき持っている権利ではなく、国から与えられる権利だ。現代の日本では、約4千万人の人が土地を所有し、固定資産税を払っていると言うが(国税庁)こんなに多くの国民が土地所有権を持っている国は世界でも珍しいようだ。そもそも、国境線に接する土地を隣国の人に買われると、国境線が変わってしまうので、土地売買を禁止するのが世界の常識らしい。特に、外国人でも土地を買える国となると、日本、米国、ニュージーランド、フランス、ドイツ、英国、アイルランド、イタリア、スペインくらいしか見当たらない。昨今中国人が日本の土地を買い漁っていると言われるが、それが嫌なら売らなければいいだけのこと。「誰でも土地を買える権利」があることは、僕は素晴らしいことだと思う。たとえ小さな土地でも、地主になれば自由に土地を使って、夢を叶えることができるから。

 

この大切な所有権は、国から与えられる権利と言ったが、国はどうやって手に入れたのだろう。国や地域が一定の陸地、海域、空域を自らの領土、領海、領空として主権を行使する権利を領有権と言うのだが、これは国際法で保証された権利などではなく、国境を接する二国間の取り決めや国際条約などの合意に基づいて定義される。そもそも世界全体を治める法律など存在せず、すべては互いの合意や承認の積み重ねで成り立っている。それを維持するための根回しや交際が「外交」であり、威嚇や脅しが「軍備」という訳だ。これは、国内の所有権についても同様だ。互いが自分の権利を主張し合えば、衝突が起きることもしばしばだ。僕のいる笑恵館でも、近隣に迷惑をかければ苦情や通報が待っている。こうした権利の衝突を調整するのが「公共の福祉」という考え方だが、時として衝突は起きてしまう。それを防ぐために権利を制限するのではなく、外交努力で解決すべきと僕は思う。

 

一方で、所有権はその力を、他の人に与えることもできてしまう「すごい力」だ。物に対する事実上の支配という状態そのものに法的保護を与える権利を占有権と言うが、そもそも所有者の許可があれば、誰もが堂々と線権を行使できる。これはまさしく国が個人に所有権を与えるのと同じこと。所有者が土地利用やその収益について、自由にルールを決めることができるのは、国が法律を定めて社会を運営しているのと、まったく同じことと言えるだろう。つまり、たとえ個人の地主でも、周囲の地主たちと外交し、敷地内を統治する「小さな国」の持ち主であることに違いない。

 

ヨーロッパのミニ国家「リヒテンシュタイン」は、1699年 ヨハン・アダム・アンドレアスがシェレンベルク男爵領を購入したところから始まった。現在もリヒテンシュタイン家が統治する絶対君主国家だが、立憲政治、法の支配、議会民主制が確立されており、また国民の権利と自由も十分に保障されていることから、実質的に立憲君主制に分類される事が多いという。現在の君主、ハンス・アダム2世は2004年に長男のアロイス公子を摂政に指名して統治権を譲り、自らは名目上の元首としての地位のみを有している。無能で耐え難い君主を退位する方法が憲法で定められ、独裁君主により国を誤らせないために国民が不満を持てば国民投票によって君主制を廃止できるというすごい国だ。(Wikipedia参照)

 

僕の口癖、「国づくりをやろう」とは、政治や行政に関わるのでなく、自分の土地を統治する人たちが集まって、自分たちの土地を統治することだ。国や行政を助けるための地域活性化ではなく、自分たちの土地で自分たちの夢を叶えるために自立した土地経営を行うことを意味している。もちろん、周辺地域を統治する日本政府やその出先機関とは、うまく付き合っていきたいし、交易や交流も盛んに行うべきだろう。だが、経済的には依存度を下げ、永続的に自主独立を確保することが大切だと思う。先ほど中国人のことに言及したが、誰が所有するかの問題ではなく、地域の夢を共有する仲間かどうかが問題だ。かつて渋谷の道玄坂周辺で違法性風俗業者に土地を貸していた地主を摘発したところ、何と地元の有力者たちが名を連ね、強い憤りを感じたことを思い出す。その時から僕は、地元の人か他所者かなどどうでもいいと思うようになった。

 

今週4/17から、僕は岐阜県・加子母村を訪れる。東濃ひのきの主産地として知られるその村は、2005年2月13日に中津川市に編入され自治体としては存在しないが、3年前にNPO法人かしもむらが設立され、独立を目指し活動しているという。友人の紹介で初めてこの話を聞いた時から、僕のときめきは止まらない。加子母村行きを前にして、「独立」の意味を再確認するためにこんな話を書いてみた。与えられた権利を失わないように、しっかりと行使し続けること・・・独立とは、そういうことだと僕は思う。