故郷と空き家

故郷を辞書で引くと、「その人に、古くからゆかりの深い所。生まれ(育っ)た土地や以前に住み、またはなじんでいた場所。」とあるが、僕は疑問を感じる。こうした場所を故郷と思う人がいるかもしれないが、これに当てはまらない人もたくさんいる。つまり、これは故郷の説明であって、定義ではない。故郷を過去の側面だけで語っており、その場所を故郷と呼ぶ理由にはなるかも知れないが、「故郷を大切にする」のような未来の議論は意味不明だ。「大切な場所だから、大切にするのは当然だ」という説明では、どのようにすべきなのかまるで分らない。

「大切にする」は、「無くならないようにする」という意味で使われることがあるが、それは保存を意味している。建物や自然など、実体のあるものは保存が可能なので、偉人たちの生家やゆかりの場所は、世界中に数多く残されている。だが、すべての人の故郷を残すことは不可能だし、そのことに何の意味も感じられない。つまり、故郷だから大事なのでなく、偉人にゆかりがあったことに価値がある。もしも全ての人にとって故郷が大切だとしたら、それはなぜなのか。

辞書の説明では、故郷を特定するのが案外難しく、ゆかりのある場所と生まれた場所は、同じとは限らない。つまり、縁のあった様々な場所のうち、一番大切な場所が故郷…ということではないだろうか。例えば、初対面の人から「故郷はどこ?」と聞かれて「有りません」とは言いづらい。ゆかりの場所も生まれた場所も言えないようでは、身分を隠す怪しい人になりかねない。世界がいつ(when)、どこ(where)、だれ(who)で出来ている限り、自分の説明に「場所」が欠かせないのは当然だ。ならば、故郷は素敵な場所がいい。できれば「素敵な場所を故郷にしたい」と僕は思う。

ならば、これから素敵な場所に行き、そこを故郷にすればいい。そこから出発して、「どこから来た」と訪ねられたら、そこを故郷と呼べばいい。人は様々な場所に行き、働いたり暮らしたりするだろうが、そのすべてを故郷にする必要は無く、どこか一つを選べばいい。世界で一番「故郷にしたい場所」を、自由に選んでいいと思う。だがひとたび選んだら、そこを大切にしないと恥ずかしい。大切なものを大切にしないことは恥ずかしいことだ。それでは、具体的にはどうすればいいのかは、個人が考えることだ。だが、世界中の人がずっと昔からしていることだ。考えればすぐにわかることだ。

まず、使えるのに誰も使わない空き家や空き地だらけになることは恥ずかしい。たとえ少人数であろうとも、そこで素晴らしい暮らしが営まれている方が良いかもしれない。そこにある自然や、資源を活用して、独自の事業が行われるのも素晴らしい。そんな夢は幾らでも描くことができるだろう。そしてできることなら、あなた自身の夢を叶えることができるといい。そう考えると、今の日本は天国のようだ。全国至る所が空き家だらけで、人々は様々な不安を抱えて生きている。何処のまちでも、そこを故郷にしたいと願う人はいるはずだ。その人たちは、決して土地を売ることなく、何とかしたいと悩んでいる地主たち。その土地に愛着も無く、いつでも出ていくつもりなら、空き家や空き地は売ればいい。

だが売らずにいるのが空き家なら、地主を放ってはおけない。地主の夢を聞かせて欲しい。そして、そのまちを故郷にしたい人たちも放ってはおけない。その人たちの夢も聞かせて欲しい。故郷は過去の思い出ではなく、これから新たに作るもの。それを説明するときは、過去を振り返って語ることになる。将来「古くからゆかりの深い所。生まれ(育っ)た土地や以前に住み、またはなじんでいた場所。」と言える場所を、これから作ることを忘れたら、日本という故郷は消滅するだろう。