地主の学校の執筆作業が、ようやくはかどり出し、何とか30%程度にこぎつけた。遅くとも8月中には完成し、9月には延び延びになっているSHO-KEI-KAN展Ⅴで、展示リリースしたいと思っている。執筆のスタートに当たり、一番苦労したのが、この本のまえがきだ。地主の学校という仮タイトルにしても判り難いのに、その内容はもっとわかりにくい。まあ、判り難いからこそ、書籍化を決めじっくり説明しようと思うのだが、それにしてもその書き出しをどうしたらいいのか、本当に苦しんだ。だがとにかく、せっかく思いついた「地主」というテーマで突き進もうと決めて、模索するうちに「脱地主革命」という言葉を思いついた。
地主とは土地の所有者=王であり、日本政府などに依存せず、みんなで自分の土地の王になることが地主の学校の目的なのだが、昔の地主は封建社会の主役だったため、明治維新以降に権力を奪われ、やがて人々から忘れられた存在だ。そんな地主を復活させようと僕がいきなり騒いでも、とても賛同を得られるとは思えない。そこでこの言葉を思いついた。明治の歴史を振り返っても決してこのような言葉は出てこないし、むしろ地主を敵に回したくない明治政府は、既得権者の地主に忖度したと思われる。だが現実には地主の抹殺は見事に成功し、日本の不動産マーケットはほぼ自由化に成功した。
そこで僕はこの歴史に便乗し、「脱地主革命」があったかのようなストーリーを作ってみた。昭和の敗戦までの前半は地主の役割を社会と会社に引き継ぎ、それ以降の後半は土地所有を民主化することで地主の自覚を消し去り、見事に脱地主が実現したかに思えた。ところが5年前ころから空き家問題が顕在化し、土地所有者の責任が問われるようになったので、僕は本来地主が果たしてきた役割の喪失が、空き家問題という副作用をもたらしたのではないかと、仮説を立ててみた。つまりこれが、脱地主革命の失敗だ。だから僕は脱地主革命を立て直し、成功に導きたい。地主の役割引き継ぎを社会と会社だけに任せるのでなく、一番肝心な役割は、市民自身で引き継ごうと。
だが「脱地主革命」とは最近作った言葉なので、歴史を振り返る「後出しじゃんけん」のようなものだ。いまさらそれが成功したのか失敗したのかなどを論じたところで何の意味もないと、初めは思っていた。そもそも物事の成否や善悪とは、絶対基準ではなくあらかじめ定めた目的に照らして判断すべきというのが僕の自論だ。だが待てよ、、たとえ後付けでも、目的を定めた後はその成否を論じることができるようになるのかも。そして僕は、勇気を出して書き続けることにした。どうやら過去の歴史を、未来につなげることができそうだ。
空き家問題は一部の廃屋や所有者不在などの問題ばかりクローズアップされているが、僕は空き家が増え続けていること自体が世界に類を見ない大問題だと思っている。だがその予感は歴史を振り返ることで確信に変わりつつある。戦後の復興もすごかったが、明治維新もバブル経済も、負けじ劣らずとんでもない。だからこそ、脱地主革命もスゴイ革命にするために、明治維新にさかのぼって始まったことにした。このスゴイ革命を失敗に終わらせず、今の失敗を乗り越えるためにみんなで未来の地主を目指そうと、あえて後出しのビジョンを描いた。今更あがいても過去の歴史は変わらない。だが、これからの未来は帰ることができるはず。
あなたも諦めるな、夢は後出しでも構わない!