賃貸と共有

所有について考える日々の中で、一つの疑問に出会い、歩みが止まっている。今日はこのブログを書くことで、この迷路から脱出したい。所有とは「AがBを所持する」とか、「AがBを制御する」など、AとBの非対称な関係を指す言葉だ。空間的には「AがBを含んでいる」ときにAがBを所有しているイメージだ。これを日本語では「AのB」と表現する。たとえば、「日本の東京」と言えば「日本国の中の東京都」であり、「東京の日本」と言えば、「東京の中にある日本的要素」となる。必ずBがAに含まれたり、Aの中にあるイメージだ。ところが、「私の会社」と言ったらどうだろう。もちろん自分が経営する会社のことかも知れないが、自分が従事している会社かも知れない。この場合、自分と会社のどちらが所有しているのか、どちらに含まれているのかが判らなくなり、僕は混乱に陥った。

さらに極端な例を挙げると、「私の部下」と「私の上司」では、どちらが所有され、含まれているのだろうか。部下と上司という言葉は、確かに「所属」という非対称な関係を意味する言葉だが、どちらかが一方的に支配しているとは言い切れない。会社の命令系統としては上司が部下に指示するのだから、明らかに上司が支配者だが、上司と部下は会社の中では同じ部署に含まれる従事者だ。さらに言えば、私の業績次第で上司の運命が決まるとすれば、上司は私に支配されているとも言える。こうして考えると、非対称な関係といえども、様々な関係が複雑に交錯している状況だと、どちらが支配側なのかわからない。だが、この場合でもはっきりしていることは、部下も上司も組織の構成員であり、どちらも組織に所属していることだ。その意味では、「私の部下」と「私の上司」は、どちらも「私の組織の・・」であり、「AのB」とはABどちらもが支配者になり得るのではないかと思う。

だとすると、支配する側とされる側かの違いでなく、支配の内容そのものが問題だ。例えば「僕の傘」は自分の所持品だが、「僕の心臓」は自分の部品だ。傘が無いと雨の日に困るが、心臓が無ければ生きてはいけない。どちらも持ち物だが、時々持てばいいモノと常に持たなければならないモノとでは、何が違うか。傘は自分が使わなければ貸すことができるが、心臓はそうはいかない。使わない傘を貸さない人はケチと呼ばれるが、心臓を貸さなくても責められることは無いだろう。ついでに言えば、「僕の名前」をむやみに貸すと「名義貸し」と咎められるかもしれないし、「僕のお金」は貸せるけど返してくれないと大変だ。こうしていくつか列挙していくと、支配の内容というよりは、貸せるかどうか、貸すとどうなるかなど、貸し借りの問題で説明できることが判る。

これに、先ほどの所属の概念を加えると、「僕」が「僕たち」に変化する。「僕たちの傘」は他人にはむやみに貸せないが、「僕たちの心臓」は困った人に貸せるかもしれないし、「僕たちの名前」や「僕たちのお金」などもその意味合いが変わってくる。つまり、上司・部下、先生・生徒などの関係は、それらが所属する組織や学校などの内部のことなので、所有は共有に変化するが、貸借はあくまで第三者との関係だ。「個人と他人」、「仲間と他人」の違いが占有と共有の違いを浮き彫りにするのは、考えてみれば当然のことだろう。

所有権とは、「自由に使用・収益・処分する権利」のことであり、まさに土地所有権の放棄が空き家問題を生み出している。僕はこの問題に挑むため、土地所有者の支援に取り組んでいるが、それは所有者の負担軽減だ。もちろん所有者独自の土地使用が望ましいが、それが難しければ、土地を共有したりや賃貸することで、所有者自身の負担を減らすことができるはず。そこで、封建時代でなく現代版の所有権を説明するには、自己所有、賃貸所有、共同所有の3つに分けて説明すればいいと、確信することができた。なるほどこれで、今日の悩みは解決したかな。