「する」と「させる」

ウィキペディアで「土地」を検索すると、次のように書いてある。

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土地(とち、英 Land)とは地殻の表層部の内で海や湖沼、河川など恒常的に水に覆われていない地面であり、陸地・大地のことである。

また「土地の事情」、「土地の風俗・風習」などのように特定の地方や地域を示す場合もある。

土地には、一定の範囲の地面にその地中、空中を包合させる場合、河川や湖沼などの陸地に隣接する水域も含む場合もある。

地中の土壌土砂、岩石等は土地の構成部分にあたる。

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つまり、土地とは、単に家を作ったり畑を耕す「場所」のことでなく、「地球」そのものだということだ。

だとすると、土地所有権とは何なのか、一体僕たちが売り買いや貸し借りする土地とは何なのか。

まずはっきりしているのは、売買の対象は「地球」ではないことだ。

そもそも人間が地球を所有しているなんて、誰が言えるだろう。

むしろ人間は、地球のおかげで生きている存在であり、地球に暮らす住人に過ぎない。

さらに言えば、今のところ地球以外には暮らせそうな場所は無いし、必要なものは全て地球から与えられている。

少なくとも「所有」に含まれる「持つ」という意味は、まるで当てはまらない。

土地を財産として所有しているというものの、その実態は減価償却できない謎の財産だ。

現金ですらお札や硬貨を作る原価がかかっているのに、土地(地球)に原価は存在しない。

したがって、土地の実態は「所有権」であり、所有とは「所有権を所有すること」を意味している。

売買や貸借しているのも、その実態は「所有権」なので、人間に対してなら主張できるが、ゴキブリやスズメには主張できない。

それでは「所有権」とは何なのか、ウィキペディアにはこう書いてある。

【所有権(しょゆうけん)とは、物の全面的支配すなわち自由に使用・収益・処分する権利。日本の民法では206条以下に規定がある。】

だが、この解釈は説明不足で、ほとんどの人が誤解している。

つまり、「自由に使用・収益・処分”する”権利」と書いてあるのでてっきりそれは所有者自身のことに思えるが、本当はそうではなく、「自由に使用・収益・処分”させる”権利」というべきだ。

つまり、自由な使用・収益・処分を「許可したり禁止する」ことができるので、「自分ができる」ということは「自分に許可した」に過ぎない。

したがって、いま増え続けている空き家とは、「自分が使わない」だけでなく、「他人の使用を禁じている」ということになる。

実は、日本国憲法が保障しているのは「財産権」であって、「所有権」ではない。

所有権は、財産権の一部分と考えられているので、空き家問題も外国による土地買い占めも、行政が介入できずにいる。

だが、所有権は財産権に含まれるのではなく、所有物に財産的な面もあるに過ぎない。

それはあたかもお金のように、他の財産と交換できることだ。

土地や建物に限らず、あらゆる所有権は、売買可能な財産だ。

だが、すべての土地が売買可能なわけではなく、例えば、北海道をロシアに売ることはできないだろう。

結局財産を売買できるのは、それが無くても困らない、余裕の分だからとも言える。

「土地を資産でなく資源と考える」という発想は、土地を売って儲けるのでなく、土地を使って稼ぐために働こうという提案だ。

土地の値段が上がり続ける神話はとうの昔に崩壊したが、土地が永遠の資源であることは間違いない。

地域社会の魅力や価値は、土地を永く使い続けることであり、ほとんどの不動産はそれに便乗しているに過ぎない。

相続税とは、たとえ土地を売らなくても、「売るための財産」とみなして課される税金なので、いずれ売るかも知れない土地ならば、課税されても仕方ないと僕は思う。

だが、そこにあり続ける土地や施設が地域社会の魅力や名物となるなら、相続人の数に合わせて分解し、さらに課税するなど愚かなことだ。

日本にはかつて多くの国が存在し、すべてが自立経済と独自の文化を持っていた。

明治維新以後の近代化により、土地開発と土地化が進み全体の経済力は飛躍的に成長したが、地域の魅力は過去の遺産に依存して、それを守るばかりだった。

地域の魅力に依存した、単なる商品のような住宅や施設がいくら供給されても、空き家や空店舗が増えるばかりで、ますます地域の魅力は失われていく。

それでも、滅びゆく地域の魅力や変わらぬ伝統を求めて外国人観光客が増え続けるのは、誰の目にも明らかだ。

だから僕は、地域を切り刻み、売り払う資産化から、地域社会を守りたい。

日本の価値は、地域の価値の集合に過ぎないことを、忘れてはならない。

いや、世界の価値だって、世界中の地域の多様性に他ならないと、僕は思う。