遠く、遠く

このところ、即席ラーメンを生み出す試行錯誤に、僕も毎朝悶々と付き合っていた。

だが今朝の「まんぷく」は、ついにてんぷらから麺を揚げることを思いついた。

久しぶりに気持ちよく番組が終わったので、そのままのんびりテレビを見ていたら、今度は次の番組で流れる歌が僕の頭を掻きまわした。

それは、梶原敬之の「遠く、遠く」という歌で、「遠く遠く離れた街で 元気に暮らせているんだ 大事なのは“変わってくこと” “変わらずにいること”」という部分がのんびりと流れていく。

“変わってくこと” と“変わらずにいること”・・・これはまさに、僕が今一番関心のあることだ。

「変わること」と「変わらないこと」は、互いを必要とすることだ。

そもそも変化とは、同じものが同じで無くなること。

子供が成長したり、性格が変わるというのは、一つのものが時間を経て違うものになることだ。

もしもそこにいた子供が、大人と入れ替わるなら、それを変化とは言わないだろう。

だから、子どものころの面影が無い、まるで別人のような人になったとしたら、それを変化と認識できる保証はなく、むしろ別人と思われてしまうかも知れない。

「実は同じ」だからこそ変化だと言える・・・と、僕はそう思う。

その意味で言うと、「同じ」という概念も似ている。

どんなにそっくり同じコップが二つあったとしても、それらはそっくりなだけで同じではない。

だが、どちらも「コップ」と呼び、区別なく同じ使い方をするという意味では「同じ」と言える。

本当の同じとは、それ自身のことであり、「あなたの友達と私の娘は同じ人」というのが正しい使い方だ。

つまり、同じとは、何かが同じかどうかを指すにすぎず、ほとんどの場合はそれ自身以外の違うものを指している。

僕は今取り組んでいる「土地の継承」についても、似たようなことが言える。

継承とは、そのまますべてを引き継ぐことで、変わるのは持ち主だけにしてその他はすべて変えてはならない。

文化や芸能を継承する場合でも、継承は忠実に行い、自分なりに変化させるのはその後の話だ。

引き継いだ途端に違うことをやるのでは、継承とは言い難い。

僕が相続を否定するのは、あくまで「相続は継承ではない」という意味だ。

法定相続人が複数いれば、財産を分割しなければならないし、たとえ一人がすべてを引き継いでも、高い相続税を払うため土地の一部や全部を売却することになる。

「相続」は、むしろ継承を妨げる断絶を招いていると言える。

考えてみれば、「売却」もまた断絶だ。

本来、継承することを望まれたら、お金を払うどころか貰いたいくらいだと僕は思う。

王位などの地位や、家督などの権利を継承するのに、お金を払うなど聞いたことがない。

いやなことや面倒なことにわざわざお金を払う人などいるはずがない。

つまり、お金を払うのは手切れ金のようなもので、いい所だけ引き継いで、いやなことはすべて捨てることが購入だ。

だが、一見都合のいい所だけ引き継ぐことが、本当に得なんだろうか。

僕はそうは思わない。

僕ならまず、すべてを引き受けて、自分に不要なものは、それを必要とする人にあげたいと思う。

自分で成し遂げ、終わらせることなら引き継ぎの必要は無いだろう。

夢を描いて語りながら、その実現を託すなら、夢を込めたバトンを作り、誰かに引き継ぐ必要がある。

だが、その夢を大切に保存して守り続けるのでなく、夢を叶える努力と夢の修正が必要なはずだ。

「大事なのは“変わってくこと” “変わらずにいること”」とは、「変わってくことは何か」、「変わらずにいることは何か」を考えることだ。

自分の町をどうしたいのか、そのゴールはふらふら変えるべきでは無いけれど、それを妨げる現状はどんどん変えるべき。

つまり、「変わること」と「変わらないこと」は、その両方があって初めて価値を持つのではないだろうか。